天使と暮らした。

律 (山村 牡丹)

天使と暮らした。

天使と暮らした。


天使が、来た。

頭には光る輪っかが。

白い羽根には赤い血が。

靴は履いておらず、足は汚れていた。


落ちていた。

その天使は、僕の家の白樺の木の前に立っていた。

ただ、空を見上げていた。


とりあえず、家に入れてみた。

僕の唯一の居場所に。

言葉が話せないし、文字もわからない、何を食べさせればいいのかもわからないが、陽の光だけはわかるようで、カーテンの隙間から差し込む温もりを手の中にしまい込むように、ただ、そこに座っていた。


羽根が汚れていたから、お風呂に入れようとした。

お湯を拒むことはしなかったけれど、自分が何をされているかは、理解していないようだった。

身体に傷は無く、多分、別の生き物の血だろう。


綺麗になった羽根を、乾かしてやろうと、2人で庭に出た。

風が少し吹くと、天使は不思議そうに風を見つめていた。

多分、天使には見えるんだろう。


ご飯を食べさせようと、とりあえず温かいスープを出した。

フォークやスプーンの使い方なんて、当然わからないので、手本を見せた。

飲み込みは早く、口に運ぶところまではできた。しかし、飲み込めなかった。

そもそも、「食べる」という概念が、天使には無いのかもしれない。


夜になって日が沈むと、天使は目を瞑って羽根を閉じた。

寝ているのだろうか。

僕も、寝ようと思った。

少しだけ苦しそうな天使の寝顔を、僕は見つめていた。


夢を見た。

君の夢だ。

君が、ただ1人で、どこかへ行ってしまう夢だ。

どこへ行くんだ。

僕を置いて。

叫ぼうにも、声が出ない。

追いかけようにも、走れない。

苦しい。

行かないで。

お願い。

置いていかないで。

そばにいて。


大きな音がした。

目が覚めた。

驚く程に身体が冷たくて、しばらく動けそうになかった。


部屋を見渡して、天使を探した。

天使は本棚を倒したらしい。

天使の背丈を超えるほどの本棚を。

散らばった本の中に、座って、1冊の本を逆さまに持っていた。

絵本だった。

ありふれたお話の、ただの絵本だ。


本棚を戻すより先に、その絵本を読んでやろうと思った。

冷えた身体を起こして、カーテンを開けた。

天使は陽の光の元に座って、僕を見つめていた。

隣に座って、絵本を開いた。

「むかしむかし、あるところに」

天使は理解できないはずの僕の言葉を、少しだけ嬉しそうに聞いていた。

絵本の挿絵の一つ一つを、不思議そうに眺めていた。

「その家には、1人の男が住んでいました。」


こんな話だっただろうか。


「古びた家の前には、白樺が。庭にはアネモネが。」


僕の家だ。


「そこに、天使が現れました。」


天使を見た。

天使も僕を見ていた。

ページを捲ろうとする。

ダメだと思った。

この先のお話は、知ってはいけないと、誰かが叫んだ。

それは僕の心だった。


「続きは、また今度読もうか。」


絵本を閉じた。

天使は座ったまま、窓の外の空を見ていた。少しだけ、寂しそうに見える。


感情が芽生えたのだろうか。


倒れた本棚を片付けていると、使っていないスケッチブックがでてきた。

戸棚から絵の具を出してきて、天使に筆を持たせた。


「こうやって持って、描いてごらん。」

「絵の具を混ぜると、別の色ができるんだ。ほら。」

「綺麗な色だ。描いてごらんよ。」


覚えが早い天使は、筆を持って、描き始めた。

と、思ったら突然手のひらに絵の具をつけて、スケッチブックに叩き付けた。


飛び散った絵の具が、天使の顔や服に付いた。当然、僕にも。


まぁ、洗えば落ちるか。


と、眺めていると

天使は僕の顔に絵の具の付いた手を押し付けた。


思わず僕は笑ってしまった。


あまりに天使が、一生懸命に、僕に絵の具を塗るから。


僕も天使に絵の具を塗った。

天使はカラフルになった僕の顔を、包むようにして、手で覆った。


夜が来た。

天使は羽根を閉じていた。

目は開いていた。

今日もまた、苦しそうだった。


また夢を見た

君は花畑にいた。

誰かに向けた花の冠を

愛しそうに作る君は

僕のことなんて見えていないようだ。

どこかから、僕を呼ぶ声がした。

心の中に吹いたそよ風のようだ。

涙が出た。

僕の名前なんて

言葉なんて

聞こえていないのに

僕に向けたものだとわかるほど

優しさに満ちたその声が

愛しくて

たまらないから。


大きな音がした。

目が覚めた。

今度は何が起きたんだろうと

僕はまた、昨日よりは少しだけあたたかい身体を起こした。


天使は、血まみれで唸っていた。

苦しそうに、床に倒れていた。

周りにはガラスのランプの破片、キッチン用のナイフ、インクの瓶、ありとあらゆるものが散乱していた。


天使に触れようとすると、天使の身体に刺さったガラス片で、指を切ってしまった。

血が出た。

赤い。


けれど、天使についていた血とは違った。

天使の血は、どこか薄くて、透き通っていた。まるで何も穢れがないみたいだ。


天使の血だ。

天使は今も苦しそうにしている。


初めて、声を聞いた。

人間みたいだ。

少しだけ切なかった。


「僕が初めて聞く君の声は、」

「苦しみからくる、声だったね。」


天使は僕に気が付くと。

少しだけ、羽根を開いて、

僕の顔を弱々しい眼差しで、真っ直ぐに見つめた。


君の瞳が怖いんだ。

何を見ているんだ。

見透かしているような、何も見えてないような、

ただ、その瞳には

僕だけが映るから。

まるでそこに、天使なんて、君なんて、最初からいなかったみたいに。


天使は、ゆっくりと、苦しそうに起き上がると、僕の指先から流れる血を舐めた。


その瞬間に、天使は、少しだけ、ほんの少しだけ、

人間らしい表情をした。


何も知らない。

何も、天使は、知らない。

人間の汚さも、世界が抱える苦しみも。

だから、天使なのだと思った。


でも、違うのかもしれない。

天使は、誰よりも見えていたのかもしれない。

欲深い僕達の、心の奥底まで。

それを一つ一つ、見て回って、手に取って、抱きしめて、傷付いて、苦しんで、誰よりも人間が愚かだと知っても尚、

天使は、彼女は、君は、

なんの疑問も抱かずに、

人間を

世界を

僕を

愛してるのかもしれない。


馬鹿だ。

なんで、そこまで苦しむんだ。

自分が、受け止めなくたっていい苦しみを、何故、人より背負う?

愚かだ。

君は。

君は。

君は。

僕なんかより

ずっと

ずっと

ずっと

愚かだよ。


僕は、

天使の首を絞めていた。

天使は、少しだけ、苦しそうに、

でも、

全て受け入れたように、

笑ってくれた。


今、僕の手の中に

命がある。

恐ろしい程に、弱くて、脆くて、

でも、

生きている力強さを、

自分の指先から感じた。


僕は、怖くなって

手を離した。


天使は、

僕の血が少し付いた唇で、

僕にキスをした。


苦しそうな、身体の震えが

伝わってきた。


天使の横には、絵本が落ちていた。


ちょうど、人と人が、キスをする挿絵のページだった。


人らしい事に触れた君は、

苦しそうだった。


天使の傷を手当して、身体を拭いて、同じ布団で横になった。


僕の顔を、やっぱり不思議そうにぺたぺたと触ってくる。


だから僕も、天使の顔をぺたぺた触った。


「もうすぐ朝が来るね。」

「君の好きな、陽の光が、今日も差し込むといいね。」


そう言うと天使は、

僕の手を握って、

目を閉じた。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

天使と暮らした。 律 (山村 牡丹) @botan_yamamura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ