午後0時の魔法
逢巳花堂
午後0時の魔法
祖母が亡くなった。
社会人になってからの、この三年間、あまりにも忙しくて、会いに行けていなかった。だから、ひどく後悔した。
祖母は、僕のことを可愛がってくれていた。一度くらいは無理してでも会っておけばよかった。
葬儀は鎌倉の葬祭場で行われた。
棺桶に収められた祖母の顔は、ひどく小さく縮こまって見えた。
その顔を見た瞬間、ああ、もう二度と祖母が作る料理は食べられないんだな、と思った。
※ ※ ※
中学生の頃までは、祖母とは一緒の家に住んでいた。うちの両親は仕事の都合上、土日も働いていたので、休みの日はいつも、祖母が料理を作ってくれた。
午後0時になると、祖母は二階から下りてきて、食事が出来たことを教えてくれる。それで祖母の部屋まで行くと、美味しいご飯が用意されている。
メニューは日によって異なるけれど、その中でも、特に記憶に残っているのは「魔法のスープ」だ。
「魔法のスープ」という呼び名は、祖母が名付けたものだ。
トマトベースの、ナスやひき肉が入ったスープで、どんなに食欲が無い日でも、あれだけは美味しく食べることが出来た。
僕はいつも、休みの日の午後0時になると、祖母の魔法にかけられていた。
祖母はまるで魔法使いのような人だった。
※ ※ ※
葬儀が終わってから、一週間後の日曜日、稲村ヶ崎にある祖母の家へと行き、遺品の整理を行うこととなった。
亡くなった祖母は父方だ。だから、父さんが全てを取り仕切っていた。
遺品整理についても、父さんは今回に限らず、何度か通い詰めるつもりらしい。
「そんなに遺品ってあるの?」
僕の問いに、父さんは車を運転しながら、うん、と頷いた。
「お袋は物持ちがいいからな、年代物のアクセサリーとか、家具とか……まあ、衣類はさすがに捨てるしかないだろうが、それでも海外で買ってきた珍しいスカーフとかあったりする。もし気に入ったものがあれば、なんでも持ち帰りなさい」
そう言われても、女性の持ち物だ、僕が気に入るような物は無さそうに思えた。
やがて、稲村ヶ崎に到着した。
海岸線沿いの国道から細道へと入り、線路を渡り、また狭い細道を進んだ先に、祖母の家はある。
斜面に建てられた、古びた家。なんでも、大正時代からあるらしい。洋風のモダンな造りだ。僕は、高校の時に一回、大学の時に一回、遊びに来たことがある。元々は祖母の兄が所有していた家だったが、その彼が亡くなった後、祖母が引っ越したのだ。
玄関の鍵を開けようとして、父さんは、おや、と声を上げた。
「開いている」
「え、誰か来てるの?」
「そんなはずはない。ここの鍵は、俺が預かっているから……」
まさか、泥棒でも入っているのか、と思いながら、僕と父さんはゆっくりとドアを開け、静かに中へと進入した。
途端に、トマトのいい香りが漂ってきた。
奥のほうから鼻歌も聞こえる。
「誰か料理している」
父さんの言葉を聞いた僕は、スマホを取り出し、時間を見た。
午後0時ちょうど。
まさか――
「いや、そんなはずはない」
父さんも同じことを想像していたのだろう。祖母があの世から帰ってきたのではないか、と。その想像を打ち消すかのように、父さんはかぶりを振った。
「誰かいるのか?」
そう、父さんが奥のほうへ呼びかけると、鼻歌は止まった。
古くなった床板を軋ませながら、誰かがこちらへ近付いてくる。キッチンは、壁に挟まれた向こう側にある。僕と父さんは、相手を出迎えるつもりで、玄関に立ったまま待ち構えていた。
ショートヘアの眼鏡をかけた女性が姿を現した。エプロンを着けて、まさに料理の最中、といった様子である。
「どちら様ですか?」
「いや、あなたこそ、どちら様だ」
「あ、サナエさんから聞いてなかったですか」
サナエ、というのは、祖母の名前だ。
「私、吾妻リコって言います。サナエさんにはよくお世話になっていました」
「どういう関係で?」
「大学院で、鎌倉の文学者について研究しているんですけど、サナエさんのお父様が著名な小説家ですから、それで、色々とお話を伺っていたんです。そのうちにすっかり仲良くなって、合鍵までもらっちゃって」
「ああ。
桐野牧人とは、昭和初期に活躍した小説家だ。僕にとっては曾祖父にあたり、その血を受け継いでいるから、名前くらいは聞いたことがある。ただ、国語の教科書に載るような有名人ではないので、あまり関心は持っていなかった。
だから、吾妻さんは変わった研究をしているんだな、としか思わなかった。
「だけど、葬式の日には、いませんでしたね」
「ちょうど実家のほうでも不幸があって、日程がかぶってしまったんです。だから、お別れには伺えませんでした」
「なるほど……で、なぜ、こんなところで料理を?」
父さんは、吾妻さんのエプロンを指さして、尋ねた。
「研究の一環です」
「どういうことですか?」
「桐野牧人は、フランスに滞在していたことがあるんですけど、その際にある料理を教わったそうなんです。で、そのレシピを、サナエさんも受け継いだ。私も何度か食べさせてもらいましたし、基本的なレシピも教わっている。だけど、どうやっても、あの味が再現できないんです」
まさか――と、僕と父さんは顔を見合わせた。
吾妻さんについて、キッチンへと入ると、弱火をかけられている鍋の中には、あの魔法のスープが入っていた。
たちまち、懐かしさがこみ上げてきた。
祖母は亡くなったけれど、その料理がこうして再現されている。そのことに嬉しさを感じて、思わず顔を綻ばせた。
ところが、吾妻さんはやたらと険しい表情だ。
「お二人とも、お昼ご飯はまだですか?」
「ああ、近くのコンビニで買ってこようかと考えていた」
「でしたら、ちょっと試食してもらえませんか」
スープ用の器に、魔法のスープをよそった吾妻さんは、僕と父さんの前にあるテーブルの上へとコトンと置いた。
匂いは、まさにあの魔法のスープ。まったく同じものを再現しているように思える。
スプーンですくって、一口飲んでみた。
トマトの酸味が良く効いた、食欲を増幅させる、えも言われぬ味わい。これはまさに、祖母の料理そのものではないか。
いや……違う。
何かが違う。
父さんも、同じことを感じているのか、首を傾げている。
「なんだろうな……パンチに欠ける、というのか……妙にあっさりしている」
「僕も同じことを思ってた。もっと、おばあちゃんのは、独特の風味があった気がする」
そんな僕らの感想を聞いて、吾妻さんは、うーん、と唸った。
「私も、自分で試食していて、サナエさんに食べさせてもらったものと違うから、何が足りないんだろう、と試行錯誤しているんです」
「レシピを教わったのでは?」
「ええ。でも、サナエさんは、こうも言ってました。あとは自分の創意工夫で作りなさい、と」
「創意工夫、か……お袋らしい言い方だな」
父さんは苦笑した。
「とりあえず、我々は遺品整理のために来たんだ。そっちを優先するので、あまり君のことは手伝えないかもしれないが、構わないかな?」
「ええ。むしろ、私のほうこそ、そんな大事な時に勝手にキッチンを使っていて、ごめんなさい」
ひとまず、僕と父さんは、吾妻さんをキッチンに残して、祖母の遺品を見て回ることにした。
だけど、僕のほうはすぐに用事は済んだ。特に興味を引かれるようなものは無かった。
なので、またキッチンへと戻り、吾妻さんの様子を見てみた。
彼女は一から魔法のスープを作り直そうとしている。
「レシピって、どんな感じなんですか?」
声をかけたが、吾妻さんはこちらを振り返ることなく、タマネギを刻み続けた。
「水は一切使わないのが特徴です。野菜の水分だけでスープにする」
「そのタマネギも、レシピの一つ?」
「ええ。最初にタマネギのみじん切りと、豚ひき肉を入れて、色が変わるまで炒める。それからナスの斜め切りを入れて、最後にトマトを入れる。味付けは塩胡椒。作り方自体は単純です」
「単純だから、逆に難しい、的な?」
「ですね」
タマネギを刻んだ後は、続いてニンニクをみじん切りにし始めた。
「そのニンニクは?」
「香り付けに使います。これも、レシピの一つです」
僕は、祖母が実際に魔法のスープを作っているところを見たことがない。だから、何もアドバイス出来ない。
せめて、何か手伝えないかと思い、レシピのノートでも無いかと、キッチンの本棚を探してみた。
「ありませんよ。それらしいものは。英語やフランス語で書かれた本もありますけど、どれもレシピ本ではなさそうです」
そう言ってから、吾妻さんは鍋の中に油をしき、ニンニクのみじん切りを炒め始めた。香り付けをするのだ。
続いて、タマネギのみじん切りと、豚ひき肉を投入する。肉が炒められる、いい匂いが漂ってきた。
ある程度炒めたところで、ナスを入れて、蓋を閉め、コトコトと煮る。
十分に水分が出てきたところで、蓋を開け、皮を剥いたトマトを投入。そして、塩胡椒で味付け。
「その塩胡椒のあんばいが違うとか?」
「いえ、自分の家でも作ってみたんですが、そういう問題じゃなさそうなんです……」
それから、吾妻さんはため息をついた。
「何か、あと一手間があるのでしょうけど……それがわからない。この家にある食材を使えば、近付けるかと思ったのですが、なかなか……」
「どうして、そこまでして、味の再現にこだわっているんですか?」
「誰かが作った料理の味を再現するということは、その人の本質に触れる、ということだと、私は思っています。私が研究している桐野牧人もそうですし、何よりも、敬愛していたサナエさんの心に触れてみたい……そう思って、挑戦しているのですけど……」
吾妻さんは、鍋の中から、一枚の葉っぱを抜き出した。
ローレルだ。
「今回は試しにローレルを入れてみました。どうでしょう?」
試食してみたけれど、まったく別物の味になっていた。これはこれで美味しいのだけど、祖母の作った魔法のスープとは根本的に異なるものだ。
「私は、あまり、サナエさんに信用されていなかったのかも」
急にそんなことを吾妻さんは言い出した。
「どうして? 合鍵までもらったんですよね。かなり信用されている証拠じゃないですか?」
「だって、レシピの一番肝心なところ、サナエさんがどういう工夫をしていたのか、そこについては一切教わっていませんから。それを教えてくれなかったのは、どこかで、私のことを信用していなかったからかもしれません」
違う、とは言い切れなかった。
最後の三年間、僕は吾妻さんほど、祖母とは交流が無かった。そんな僕が、わかったような口をきくことは出来なかった。
結局、吾妻さんは答えを見つけることが出来ずに、次の用事があるからと帰っていってしまった。
一応、何かわかったら連絡するということで、連絡先は交換しておいた。だけど、遺品整理の中で、魔法のスープの秘密に迫るようなものは見つからなかった。
そして、僕と父さんも、日が暮れてきたところで、帰途に着いた。
※ ※ ※
それから一週間が経ち。
土曜日の午前十一時頃、僕は思い立って、自分の家で魔法のスープを作ってみようとした。
まずは、吾妻さんから教えてもらったレシピ通りに、順を追って作っていく。
ニンニクのみじん切りを炒めて香りをつけ、そこへタマネギのみじん切りと、豚ひき肉を投入する。その後、ナスの斜め切りを入れて、最後に剥いたトマトを投入する。
味付けは、塩と胡椒。
そして、吾妻さんからもらったレシピに書いてあった、隠し味の砂糖を少々。
砂糖……。
「あれ?」
キッチンの中を探し回ったけれど、どこにも砂糖が見当たらない。
どこかに備蓄してあるのかもしれないけど、母さんはいま仕事中だ。連絡をするわけにもいかない。
まいったな、と思っていると、食品棚の中に、蜂蜜があるのを見つけた。
「しょうがないな、これで代用するか」
もう、これは確実に祖母の味からかけ離れてしまうだろう、と思っていた。
ところが――
「え⁉ 嘘だろ、この味……⁉」
出来上がった魔法のスープを試食してみたところ、まさに自分が何度も食べさせてもらった、あの味そのものになっていた。
時刻はちょうど午後0時。
奇跡が起きた。祖母が作っていた魔法のスープが、完全な形でここに再現されたのだ。
「隠し味に使うのは、砂糖じゃなくて、蜂蜜だったんだ……!」
さっそく、その気付きを、吾妻さんに連絡しようと思って、スマホに文字を打ちかけたところで、僕は指を止めた。
なんで、祖母は、そのことを吾妻さんに教えなかったんだろう?
最後に残された疑問。
その答えを考えているうちに、僕は、かつて祖母が語った言葉を思い出した。
『魔法のある人生と、魔法のない人生。どっちが幸せだと思う?』
それは、どういうタイミングで言われたものなのか、細かくは思い出せないけれど、不思議な言い回しゆえに、内容だけは記憶に残っている。
『私は、魔法のある人生が幸せだと思うわ。だから、魔法使いは、魔法を解いたら駄目なの。解いていいのは、次に魔法使いになる人間だけよ』
何が言いたいのか、あの時の僕にはさっぱりわからなかった。
でも、こうして祖母が作った魔法のスープの秘密を解いたことで、あの祖母の言葉の意味がなんとなく理解出来たような気がした。
そして、僕は、吾妻さんへ答えを送るのをやめた。
代わりに、こういうメッセージを送った。
今度、うちへ遊びに来てください。僕も魔法のスープを作ってみてるので、食べてもらいたいんです――と。
なんだか楽しくなってきた。
吾妻さんは、僕が作った魔法のスープを食べた時、どんな反応を示すだろう。きっと驚くに違いない。その瞬間が、いまから待ち遠しい。
魔法のスープを振る舞うのは、午後0時がいいだろう。
午後0時の魔法。それこそが、祖母が残した魔法のスープを食べてもらうのに、一番ふさわしい。
この日、僕もまた、魔法使いの一人となった。
午後0時の魔法 逢巳花堂 @oumikado
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