第47話

▪️▪️▪️

 手が震えている。

 指に力はまったく入らず、自分の意志が反映しているようには見えない。

 呼吸は乱れ、心臓の鼓動が耳まで聞こえそうなほど脈打っている。


 そう、心臓の鼓動は止まっていない。

 それだけが私の安心材料だった。


 死の気配を濃厚に感じた。

 というか、実際に死んだと思った。

 今も私が生きているのは奇跡に近い。


 完全に予想外だった。

 ジークさんの強さは理解しているつもりだった。それは単なる勘違いで、私は彼女のことをまるでわかっていなかった。


 ジークさんが全身を水化したとき、私は何が起きたのかわからずに頭が真っ白になっていた。

 体は元々の意志の通りにジークさんに右手を伸ばしたが、それは他にできることがひとつもなかったからだ。

 私がようやく我に帰ったのは、右手の電流が弾かれて体ごと吹き飛ばされてからだった。


 致命的な隙だった。

 当然、それを見逃してくれる彼女ではなかった。


 水化された指先が槍のように私の心臓に発射されるのを、私は無防備に眺めていた。

 雷化したときよりも知覚がスローモーションに感じられ、走馬灯のように様々な想いが脳裏によぎる。

 回避などできるわけがない。死んだと思ったのは錯覚ではなかった。


 それでも今、私が生きているのはひとえに幸運だったからだ。

 小指の先ほどに残されたごくわずかな魔力を、私はほとんど無意識に操作していた。

 極小の魔力を触媒に、足りないところを生命力で無理やり補う。もしかしたら、若干寿命に影響したかもしれない。

 それでも今ここで死ぬわけにはいかなかった。


 私にできることで、彼女に見せていないひとつの魔導——部分変化。

 これだけは王都にたどり着くまでは一度も使用していない、ジークさんの知らない技だ。

 私は咄嗟に貫かれる心臓近辺だけを雷化することに成功していた。


 電流に水の槍を突き込む違和感に、今度はジークさんが硬直した。

 肉の体を貫くのとはまるで異なる、手応えのない感触だろう。しかし、私と違ってジークさんは立ち直るのも早かった。

 すぐさま水の槍を引き抜こうとする気配が感じられる。

 再度距離を取られればもう勝ち目はない。私は彼女の水化した腕を掴んだ。


 もちろん、液体である水を掴むことは、本来であれば不可能だ。しかし私は誇り高き魔導師——不可能を可能にするのが本業だ。


 雷化した胸の雷をそのまま流用して右手に流す。胸の中心がぽっかり穴が空いたような感触に襲われるが極力無視した。

 腕をコイル化するように電流を操り、強力な電磁力を発生させる。

 その磁圧を掌に纏い、ジークさんの腕を掴み取った。


 距離を取ろうとする白い死神が、私を振り払おうと魔力を高める。

 対抗するように、私は私に残された最後の力を使うことにした。


 すなわち、黄金瞳。

 私が大嫌いだった、私の瞳。

 雷の魔力を帯びた、唯一無二の視界。

 ナルカミと同じ黄金瞳。


 その瞳を持ってジークさんの水化の根源を見つけると、そこに目がけて最後の雷を叩き込んだ。


 びくん、と水化したジークさんが震える。

 純水は電気を通さない絶縁体だ。けれども、それを構成する魔力は違う。私の雷は、彼女を水化たらしめている魔力の中心点を撃ち抜いていた。

 数瞬後、元の体に戻った彼女は、力なく地面へと膝をついた。


 ……………………。

 ……終わった、のだろうか。

 冷や汗が滝のように流れ出ている。

 間違いなく死の寸前だった。私はもうすっからかんだ。これでダメならお手上げだった。


 ……いや。

 私は首を振って頭を切り替える。

 確かに戦いには勝ったかもしれない。しかし、私の目的は戦いに勝つことではない。

 彼女を——ジークさんを、止めることだ。


 ジークさんはもがきながらも、鬼の形相で立ち上がろうとしている。

 憎悪に満ちた彼女は、体がどれだけ傷つこうが止まらない。

 それでも私から見た彼女の赤い瞳は、寂しそうで、悲しげだった。


 そうだ。

 最初からそうだった。

 私はこの瞳に魅入られたんだ。


 ジークさんが片膝をついて、震えながら私を睨む。

 私は、改めて真正面から彼女と対面した。


 私にできること。

 それは戦って勝つことじゃない。私の願いを口にすることだ。


 ジークさんに歩み寄る。

 もう彼女もボロボロで、魔力の残滓も見えない。消耗しすぎて、しばらくは簡単な魔法すら使えないだろう。


 それでも、ジークさんは構えを取る。

 震える足で立つことすらできず、手を持ち上げるだけで力を振り絞っていたとしても。

 彼女は止まらない。


 だから、私は——

 そんな彼女を、正面から強く強く抱きしめた。


「……何のつもりだ」

 顔の横から、かすれた声が聞こえる。


「もう、いいんです」

 私は更にジークさんを強く抱きしめる。


「つらいとき、悲しいときは泣いていいんです。もう貴女を縛る者はどこにもいない。我慢しなくていいんです」

 私は彼女に語りかける。

 ジークさんが首を横に振った。

「……泣いたところで、私が殺した人間は戻ってこない。泣いたところで、母は帰ってこない」

「そうだとしても、です。人は涙を流して当然なんです。どんなにつらくても泣かないなんて人は、いつかどこかで壊れてしまう」

 そうだ。

 そんな人はあり得ない。

 けれどもジークさんは首を横に振る。

「殺された人間には関係のない話だ。私の中には、今も彼らの怨念がこびりついている」


 ジークさんの低い声が耳元で響く。


「なにより、私自身がそんな甘えは許せない。命令だったからと言えば、彼らは納得するのか? そんなはずはない。私が未だに王家のクズを許せないように。彼らも私を許すことはない」


 今度は私が首を振った。


「許せなくてもいいんです。ただ、これ以上に自分を追い込まなければ」


「なら、どうすればいいんだ! どれだけ時間が経とうとも、どれだけ涙を流そうとも、私の憎しみは収まることはない! 今回はお前が止めようとも、いずれ私はまた憎しみに囚われる! 私が死ぬまでこの憎悪が終わることはない!」


「……止めますよ。また、私が止めます」


「——何?」


「貴女がつらいなら、一緒に解決する方法を探りましょう」


「貴女が泣きたいなら、一緒に涙を流しましょう」


「貴女が間違ったことをするのなら、私が何度でも止めてみせましょう」


「私は貴女とそんな関係になりたい。ねえ、ジークさん」

 脳裏に親友の顔が思い浮かぶ。

「私は、貴女と友達になりたいんです」


 私は彼女を抱きしめたまま、自身の想いを口にしていた。


「……は。何を言ってるんだ、お前は」


 ジークさんの声が震えている。

 私はまた首を横に振った。


「いいんです。ここには私とナルカミしかいない。ここで泣くくらいのことで、お天道様にだって文句は言わせません」

「……なんだそれ。聞いたことない」


 初めて、ジークさんの口調がほんの少しだけ柔らかくなった。

 そして——


「…………ふっ」


 息を引き込むような声が、私の耳元で漏れた。

 堰を切ったように、ジークさんの湿った嗚咽が、私の胸元から聞こえてくる。

 私は言葉では答えず、ただただ彼女の背中を優しく撫でる。


 ジークさんに久しく訪れただろう穏やかな時間が少しでも長く続くように、私は祈り続けていた。

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