第36話

▪️▪️▪️

 私が家屋の中に飛び込むと、声の主人が素早く扉を閉めて閂をかける。

 直後に大勢の足音が響く。どかどかと走る者の気配が近寄ってくると、それぞれが怒号をあげるのがこちらまで届いてきた。


「どこに行きやがった!?」

「一本道だ、このまま追え!」

「どけてめえら、懸賞金は俺の物だ!」

「ええい貴様ら、命令を聞かんか!」


 複数の男と兵士らしき者たちがわめき散らす。どうやら私が建物内に潜んだのに気づいてはいなそうだった。

 やがて再び足音が鳴り、気配が徐々に遠ざかっていく。ひととおり落ち着いてから、私はようやく息をついた。


 改めて、誘い込まれた家屋の内部を見渡す。

 品のある落ち着いたテーブルや椅子などに、木造ごしらえのカウンター。その向こうでは、火にかけられた鍋がぐつぐつと湯気を放っている。


 食堂……いや、料理店だろうか。

 それも貴族向けの高級店のような様相だった。


 そして、私を招き入れた男。

「お久しぶりです、お嬢様。まさか再びお顔を拝見できるとは思っておりませんでした」

 そこには、かつて関わりを持った、顔見知りの顔があった。


 彼はマイク。元はロッゾ侯爵家で働いていたコックだ。

 そう、かつて私がマヨネーズの作り方を教えた彼である。


 彼はマヨネーズを侯爵家が販売しないと決まった段階で、コックとしての職を辞していた。それは私が製造法を彼に教えて試作品を作成した段階で相談していたことだった。


 私の父の性格を考えれば、マヨネーズでの商売に乗り出すとは考えづらい。しかし、この簡単に作れる品物を完全に手放してしまうのはあまりに惜しかった。

 そのため、マイクに頼んで王都で独立し、マヨネーズを中心に商売を広げるのはどうかと提案していた。

 彼は私が父に断られると、提案通りに動いていたのだった。


 正直、私も貴族学園の件でそれどころではなくなってしまったため忘れてしまっていたが、彼はしっかりとマヨネーズを販路に乗せ、その資金を元に料理店を開いていたのだった。


 地上に降りた際に小耳に挟んだ私にも、彼の店の評判は聞こえている。なんでも斬新な調味料と繊細な味付けが貴族にまで絶賛の嵐が轟いているとの話だった。


「ご無事ですか、お嬢様。事情はわかりませんが、きな臭い雰囲気でしたのでお招きしました。余計なお世話でしたでしょうか?」

「いえ、助かったわ。あれだけの人数を相手にしていたら、私も流石に危なかったかもしれない」

「そうですか、お役に立てたのであればよかった。どうも最近の王都はおかしな天気以外にも、人々が殺気立っていますから。挙句の果てには、あんな化け物が現れるときたもんだ。一体何が起きているのやら……」

 マイクが窓から空を見上げる。そこには私の相棒であるナルカミが巨体を泳がせていた。

「お嬢様はなぜ追われていたか、ご自身でご存知ですか? そもそも亡くなったと聞いておりましたが……」


 ここは彼が長年かけて切り開いた、彼自身の料理店だ。そんな大切な場所に、追われた女を入れてくれたのは感謝しかなかった。


「ええ、あいにくピンピン生きているわ。追われているのは、ロッゾ家に懸賞金をかけられたからね……」

「なんと……ご実家ではないですか! なぜ実の娘であるお嬢様にそのような仕打ちを……この未曾有の事態であれば、我が子を保護するのが普通でしょうに」

「そこは聞かないで。詳しいことを話すと巻き込んでしまうかもしれないわ」

「む、左様ですか……」


 マイクが顎に手を当て、眉をひそめる。

 彼のような常識のある人間からすれば、子に懸賞金をかけて捕らえようとする親の気持ちがわからないのだろう。

 それでいい。家の繁栄と富のためなら、王家に子を生贄として差し出す貴族の心境など、彼は知らなくていい。


 私は話を続けながらも、窓から顔を覗かせて外の様子を伺う。

 大多数の追っ手は過ぎ去ったようだった。

 マイクの店は大通りからわずかに逸れた小道の入口にあった。繁盛店としての立地は、そこまで良い場所ではない。一度通り過ぎてしまえば、戻ってくる可能性は低いと言えるだろう。


 空の様子はよくわからない。雷が止まないことから、ナルカミ側でも何かしら行動しているのは確かなようだった。


 私は息を整えながらも、体に巡る魔力を正確に知覚する。空から落下したとき以外は省エネで動いてきたため、さほど消耗はない。

 しかし、これから敵だらけの王城に向かうのであれば、わずかな油断も許されなかった。


「……行くのですか、お嬢様」


 私の気配を感じ取ったか、マイクが問いかけてくる。そこにはサリィと同じく純粋に私を案じる色が現れていた。


「何をなさっているのかは知りませんが、これほどに危険を犯す価値のある行為なのですか? 民衆から追われている死んだはずの貴族令嬢など聞いた試しもありません。このまま店に隠れていただいても全く構わないのですよ」

「……そうね。でも、私は行くわ。そのために望んで王都に帰ってきたのよ。死んだことにされたのも含めて、ね」

「俺は貴女のおかげで夢だった自分の店を王都に開くことができた。貴女が死んだと聞いたときには、もう恩を返すことすらできなくなったと嘆いたものです。今こそ恩を返してはいけませんか」

「……恩なんて感じる必要はないわ。マイク、貴方は貴方自身の力でここまで辿り着いた。私はお金になる話をしただけよ」

「そうだったとしても、です。お嬢様はまだ若い。貴女が全てを背負う必要などないでしょう」

「全てを背負ってなんかいないわよ。私は私のために征くのよ。気に入らない王家の連中をぶん殴りに、ね」

「王家を……?」


 マイクが目を丸くする。

 喋りすぎてしまったようだ。

 それを見た私は、彼に礼を告げる。

「ありがとう。ひと息つけて助かったわ。もし暴徒や私兵に私のことを咎められたなら、私は王城へ向かったと正直に言いなさい。おそらく危害は加えられないわ」

「——お嬢様……」

 私は思考を魔導師としての意識に切り替え直す。

 ここから先は常に戦地だ。休息をとれるのはこれが最後だろう。


 マイクがかけた閂を外すために、私は扉に手をかける。そこで背後からマイクに声をかけられた。

「——お嬢様、お待ちください」

 私はゆっくりと振り返る。

「……何? 行くなと言うのは聞けないわよ」

 戦闘モードに入った私は、若干の棘が出てしまう声色で返す。

 マイクはそんな私に首を横に振った。


「これ以上お止めはしません。しかし——」

「しかし?」

 片眉を上げる私に、マイクは深々と頭を下げた。

「せめて裏口からお向かいください。その方が人気も少なく、見つかる可能性も薄くなるでしょう」


 その様は、客を席へと誘う店の主の仕草だった。


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