第32話

▪️急

 雲が物理的に私の視界を塞いでいる。

 周囲は見渡す限り一面の灰白。上を見上げれば、かすかな隙間から眩く輝く太陽が覗いている。

 空中庭園にいたころは空が手で掴めそうなほどに近いと感じたものだが、今この瞬間は実際にこの手に届いていた。


 両手を広げて、その光景を全身に存分に刻む。

 本来は生身の人間ではとても耐えきれない高空のはずだが、ナルカミの魔力が私の周辺の気圧や気温などの環境を保持してくれている。

 絶大な魔力と龍の契約があってこその行為だ。私だけに許された贅沢は、味わわなくては損だろう。


『あまりはしゃいで落ちるなよ。我でも拾いきれんかもしれん』

「いくらなんでもそんなに間抜けじゃない……と思うわ」

 足元から重低音で響くお咎めに、私は歯切れ悪く言葉を返す。流石にそこまでドジではないと思いたいが、これまでに犯してきた数々の失態が脳裏をよぎってしまった。


 足元——黄金色の鱗に、私はスカートを畳んで腰を下ろす。

 ナルカミの鱗はなんだか熱を発しているように暖かい。初めて乗ったときに、龍って恒温動物なんだなぁと場違いな感想をこぼしてナルカミの不況を買ったのは忘れたい過去だ。ぜひとも内緒にしておきたい。


 そう、私は今、空を飛ぶナルカミの頭に乗っている。

 龍の契約者である私でなければ誰も経験できない、未知なる空の旅の途上だ。


 最近は手乗りサイズのナルカミが目に馴染みすぎて半分忘れていたけれど、本来のナルカミの姿は大空を埋め尽くすほどの巨体の持ち主だ。元のサイズに戻ってしまえば、私を頭上に乗せることなど容易い。


 乗り心地は上々だ。

 庭園と同じくナルカミの魔力に守られた空の旅は、前世で乗った飛行機よりもよほど快適だった。

 元よりナルカミは私に対して気遣いが普段から手厚い。とても別種族とは思えないほどに人間の生態に詳しかったし、今も急激な方向転換などは極力抑えてくれている。

 ときおり帯電した鱗がバチっと弾ける音がするが、それも雷魔導師の私には何ら問題にならなかった。


 私は前世も今世も比較的乗り物には弱い性質だったが、この旅に関しては文句のつけようがなかった。


 ジークさんは、あの町に預けてきている。彼らなら町の英雄であるジークさんを無碍に扱うこともないだろう。


『そろそろ準備しておけ。もうじき到着するぞ』

「もう着くの? 相変わらずとんでもない速さねぇ」


 王都が近づいているのをナルカミが私に知らせてくれる。ボロス家の屋敷を逃げるように離れてからまだたったの数日だけれども、既に懐かしさを感じていた。


 だが、呑気に空の旅を楽しんでいられたのもここまでだった。

 異変に最初に気づいたのはナルカミだ。そして後を追うように私も異常事態を悟った。


 魔力が、王都周辺を渦巻いている。


 雲越しにもわかる莫大な量の魔力が、王都を中心に吹き荒れていた。

 私たちの位置はまだ王都周辺に差しかかったぐらいだ。充分に距離はあるというのに、見てわかるほどに魔力が暴れ狂っている。


 無論、魔力が荒れるだけでは物理的な問題は起きない。発現していない魔力は単なる不可視のエネルギーだ。しかし、それでもこれだけの規模で魔力が暴れていれば、じきに魔力飽和から直接災害が発生してもおかしくない。


 加えて、

「灰が……」

 頬の上を流れゆく風に白い物が混じり始める。服や頬を細かくまだらに染めていくそれは、先日の王都でも経験した灰だった。

 まだ雲中でもこれだけの灰が漂っているのであれば、地上はどのような有様だろうか。ここにきて私は一気にサリィへの心配が連なっていた。


『なるほどな、読めてきたぞ』

 ナルカミが渦巻く魔力の流れを観察しながら、ひとりごちる。

 その声色には、心なしか皮肉げな嘲りが含まれていた。

 ナルカミにしては珍しい。

 彼は契約者である私に対しても常々公正な立場を貫いているというのに。


『火竜が力ずくで秘術の束縛を破ろうとしているのは予想していたが、おそらく奴はまだ魔力が足りていないな。それにひどく苛立ってもいるようだ』

 今度は私に語りかけるようにナルカミが告げる。私も感じ取れる疑問を投げ返した。

「この魔力の光景だけで、そんなことまでわかるの? そういえば過去に付き合いがあるのだったかしら」

『ああ。単に炎龍の秘術を破るだけであれば、このような魔力の発散をしでかす必要性は全くない。だがあえてこうしているというのであれば、それは王家や王国を恐怖に陥れるためだろう。あの者はそういう竜だ』

「確かに、封印を破るのに魔力を強めるだけなら、この魔力や灰はむしろ無駄にしかなってないかもしれないわね……」

『事が上手く運ばない憂さ晴らしというわけだ。おそらく王子が立太子できていないのも、奴が苛立ちで拒否しているからだろうよ。王国そのものにも食糧問題を引き起こし嫌がらせをしている。相変わらず器の小さいことだ』


 かつてないほどにナルカミが辛辣になっている。その怒りを鎮めるように、私は彼の鱗を優しく撫でる。


 王都の状況は思ったよりも差し迫っていた。

 火竜は既に本格的に動き始めている。長年王家の人間に束縛された恨みつらみがあるのだろう。魔力の荒れ方からも憎しみの強さが見て取れる。

 それで飢饉が起きようものなら人間はたまったものじゃないのだけれど。


 そして、王国と王家。

 彼らはこの事態にいったい何をしているのだろう。まさか魔法使いも大量にいるはずなのに、事態を把握していないやけでもあるまい。

 彼らは私を捕らえようとしていた。それ以外に何をしているのか。王国の動きが見えていないのには強い不信感を感じる。


『到着した。このまま表に出るぞ』

「えっ? ちょ、姿を見せていいの?」

 考えに耽る内に、ナルカミはあっという間に王都へとたどり着く。そして、おもむろに私に告げるとそのまま雲を突き抜けた。


 はるか高みから見下ろす王都が目に飛び込んでくる。

 真っ白に染まった王城や王都の建造物が並んでいる。そしてその周辺の大地も積もる灰に埋もれていた。


「ひどい……。これじゃ農作物が育たないわ……」

 思わず嘆きが口から溢れる。

 それほどの有様だった。


 まるで雪のように、今もこんこんと灰が降り注いでいる。

 かつて見たことのない様相となった王都の上空に、私とナルカミは姿を現していた。

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