8章

 カチャカチャと食器の音だけが食堂に響き渡る中、私はスクランブルエッグを口に含む。

 私は温かいコーヒーが入ったマグカップを両手に持ちながら、テーブルの向かい側ではミロクがサクサクとした食感に舌鼓を打ちながらフレンチトーストを食べている。

「それでわざわざ校長室まで行ったのに地図とかそういう脱走に関する情報を獲得できなかったって言いたいの?」

 ルボフはハッシュドポテトをスプーンで口に運びながら、目の前にいる私たちに呆れた表情を見せる。

 結局あの後、私たちはルボフに会って全てを話す気力がなかったため、次の日食堂で朝食を食べる際に詳細を話そうと提案し今に至った。

「悪かったわね…私たちの手際がよくなかったせいで情報を少しも取って来れなくて」

「あっ…いやアニアちゃんを責めたいわけじゃないんだ!俺だってさ…ちゃんと見張りができてなかったせいで校長室に人を入れちゃったわけだし…」

 ルボフは失言とばかりに自分の口を手で押さえる。

 私はクラッカーにナイフでバターを塗りながら昨日のことを思い出してため息をつく。

「でもさ昨日の校長室での私たちの騒動を見た目撃者がいるはずなのに、教官達はなにもせずまるで昨夜はなにもなかったみたいに学校内が穏やかって…なんかおかしくない?」

 ミロクはフォークに刺したプチトマトをコロコロと転がしながらふと呟いた。

 窓から朝日が差し込み外の木には鳥が羽ばたいており、生徒はみな朝食を食べながら他愛ない日常的な会話をして、教官達も食堂で新聞を読んだり書類に目を落としながら朝食をとっている。

 とても和やかでいつも通りの風景だ…だけどそれは、昨日のことの当事者である私たちにとって今という瞬間は不自然なぐらい穏やかでなんだか気味が悪い。銃やガラスが割れた音の件も誰も触れていないため最初は夢だったのかと思ったほどだ。

「もし昨日の目撃者は私たちの顔が見えなかったとしても、校長室に誰か侵入したという事実に変わりないんだから教官たちが生徒を一人一人尋問なり、学校を巡回なり、生徒を自分たちの部屋に軟禁状態にするなりこの学校ならすぐ処置を行うって思ったんだけどな…」

 ミロクの疑問にルボフはお手上げだと言わんばかりに、肩をすくめるとため息をつく。

「そうね。私も朝から昨日のことで持ちきりだってビクビクしてたけど、実際はいつも通り。これじゃあまるで…昨日の目撃者が私たちのしでかしたことをわざわざ揉み消しみたいだわ…」

「まさか。なんのためにそんなことするんだよ」

 ルボフは私の言葉に驚きを隠せないでいたが、私とミロクは何か核心に迫っているという感覚があった。

「俺はアニアちゃんもミロク生徒もそんな冷静に物事を考えれて正直びっくりしてるよ…俺はまだ実感湧かないや。生まれてからずっとこの学校に通ってるのに…まさかここが…アレ・・をするための学校だったなんて」

 ルボフは少し俯きパンをちぎりながら声を震わせる。

 そんなこと気づかなくて当たり前だ、この場所でほぼ生まれた時から育った私たちがこの学校の異常さに気づくわけがない。私だって、あの老人の言葉がなければずっと気づかずにいただろう。

「本当はルボフを巻き込むつもりはなかったけど、私にとってあんたはたった一人の友達だから…ルボフを死なせたくないって勝手な自己満で振り回してしまってごめん」

 私は頭を下げ頰に熱を感じながら素直に今の気持ちを口にする。

 頭を下げてるためルボフの表情は見えないが、なぜか沈黙が続きそれに違和感を感じた私は顔を上げ彼の顔を覗き込む。

「げっ、あんた何で泣いてるのよ!?」

「だって…アニアちゃんが俺のことをそんなに思ってくれてるなんて…普段言ってくれないから俺嬉しくて……」

「食堂で泣かないでよっ。怪しまれるじゃない」

 鼻水を垂らしながら大粒の涙を流すルボフに私は慌ててハンカチで彼の涙をふくと、隣にいたミロクが私たちを見てニヤニヤしながら頬杖をつく。

「えぇルボフ生徒がたった一人の友達なら私とニアは何なのさ」

「友達ではないことは確かね」

「ええ!?あんな話までは話したのにそりゃないよぉ」

 ミロクは椅子を後ろに倒す勢いで私に詰め寄り、フォークに刺したバターの垂れた小さく切ったトーストを私の目の前にさす。

「あっ…もしかして友達じゃないなら私たちは親友って言いたいってこと?」

「それはない」

 ミロクの淡い期待を打ち砕くように私は真顔で即答する。

「なんか私にとってあんたって友達とか同級生っていうより…うーん…よくはしゃぐおばあちゃんって感じ」

「お…おばあちゃん…え?」

 私が思ったことを口にするとミロクは信じられないものを見るかのように目を見開き固まる。

 隣で聞いていたルボフは私とミロクを交互に見て、しばらくして「プッ」と吹き出し笑いを堪えるために口を手で押さえる。

「まあおばあちゃんは言い過ぎとして、友達って感じではないのよね。なんかお母さんみたいな…?」

「いやそれはそれでなんでさ」

 そのツッコミに私もルボフと共に笑ってしまい、ミロクは納得いかなそうに頬を膨らまし不貞腐れるも少し照れた仕草で頭をかく。

 食堂の隅っこのテーブルから私たち3人の楽しげな笑い声が辺りに響きわたる。

 こんな他愛ない日常的な会話をしていながら三人とも自分たちが脳移植のために用意された実験体だということを知っていると誰が思うだろうか。

 ひとしきり笑いあった私たちはそろそろ授業が始まるため食堂を後にしようと立ち上がると、私のトレイの下にずっと挟まっていたと思われる紙切れがひらひらと床に落ちる。

「なにこれ?」

 私は紙切れを拾い上げる。メモ帳の切れ端のような小さな紙には特徴のない文字でこう書かれていた。

『昨日あなたたちがしたことを知っているのは私だけ』

 背筋が凍るのと同時に心臓が大きく脈打つ。私が持っていた紙切れをミロクとルボフは覗き込み内容を確認する。

「なるほど。わざわざこの紙を挟んでまで昨日の目撃者は私たちに接触を図ろうとしたわけだね」

 ミロクは私の手からその紙切れを取ると制服の胸ポケットにしまう。

「あんな騒動をもみ消すほどの力を持った人間…この目撃者が味方か敵かでこの脱走大きく変わるかもね」

 ふと、食堂の時計を見るとあと5分で授業が始まることに気づき私たちは急いで食堂を後にする。

 私たちが去った後、キッチンから私たちを見ていた一人の女性がそこにいたことに気づくことはなかった。




 春も終わり夏が身近になり、日は長くなったことで夕方だというのにまだ外は明るい。窓の下枠に体を預け片膝を立てながら座り、テープレコーダーを聴きながら空を眺めていると射撃訓練を終えたルボフが私の隣に腰を下ろした。

「訓練をサボるなんてアニアちゃんらしくないね。ここ最近ずっとそんな感じだ」

「前までは卒業した先に指揮官としての未来があると思ってたから真面目にできたのよ。今はそんな未来がないことを知ってるから…なんか今まで自分が頑張ったものが馬鹿みたいで」

 私はテープレコーダーを止めてイヤホンを外すと、両手を頭の上で組み大きく伸びをする。最近は授業を受けても内容は頭に全く入ってこないのに、習慣というのは恐ろしいもので無意識のうちにノートだけは取り続けてしまう私自身に呆れる。

「アニアちゃんが今まで積んできたものを俺は馬鹿みたいとは思わないよ」

 私と同じように窓の外を眺めながらボソッと呟くルボフの横顔を私は盗み見る。

「指揮官になれないとしても、今まで16年間積んできた実績が脱走した後何かに繋がるかもしれないじゃん。馬鹿みたいなんて言うなよ」

「何かって、何よ?」

「それは…わからないけどさ」

 ルボフの曖昧な反応に私は軽く吹き出して笑うと彼は照れくさそうに、自分の髪をくしゃくしゃと掻きむしる。

「アニアちゃんは、この脱走が成功するとか思ってる?」

「思ってるわけないでしょ…でも1パーセントを信じたいとは思ってる」

「1パーセント?」

 私は窓の外を見つめながらルボフの質問に対してゆっくり頷く。

「ミロクっていう考えが読めなくて意味がわかんない1パーセントに私は…なんでかわかんないけど賭けてしまってるのよね」

 私は軽く自分の口元が緩むのを感じながら、ルボフの方に顔を向ける。私と目が合った彼は少し驚いた顔を見せたがすぐに歯を見せて笑った。

「アニアちゃんはギャンブルに向いてないね」

 私は立ち上がり尻についた埃を手で払い落とし、ルボフを見下ろす。

「そうね、案外私にも向いてないものはあるみたい」

「おーい二人とも何してんの?」

 顔を上げると、窓の外から向側の校舎にいるミロクが身を乗り出しながら私たちに手を大きく振っているのが見える。

 私とルボフはそんな呑気なミロクを見て、お互い顔を見合わせるとどちらともなく笑いが込み上げる。

「私もそっち行くから待っててー!」

 ミロクはそう叫ぶと窓を閉めて、バタバタと走り去っていくのがこちらから見えた。

「アニアちゃんはミロク生徒に出会ってから変わったね。なんか少し寂しく思うよ」

「はぁ?なんであんたが寂しく思うのよ?」

 私の問いかけにルボフは、少し間を置いてから口を開く。

 そのルボフの表情はどこか寂しげで何か言葉を言いたげだったが、すぐに彼はいつもの明るい表情を見せると少し照れくさそうに人差し指で鼻の下をこすりながらはにかむ。

「なんでだろうね、俺もわかんないや」

 ルボフはそう言って立ち上がると、座っていた彼を見下ろしていた私が今度は見上げる番になる。

「ふーん。そう」

「ごめんなさい二人とも。ちょっとお願いしていいかしら」

 私たちの背後から急な声がかかり振り返ると、箱を何個も抱えた管理人のおばさんが私たちのほうを申し訳なさそうに見つめていた。

「本当は寮に送られる予定だった荷物が間違って学校の方に送られちゃって…もしよかったら手伝ってくれないかしら?」

 私とルボフは顔を見合わせ、そして再び管理人のおばさんの方を見ると彼女も困った表情のまま私たちを見つめていた。

「今ちょっと友達を待っていまして…その子が来るまでちょっと待っててくれますか?」

「ええ、もちろん大丈夫よ。本当にありがとう…助かったわ。この箱まあまあ重くて…」

 管理人は私たちに一礼すると、箱を床に置き額の汗を拭う。あまり話すことのない私たちは少し気まずい空気の中、ミロクが来るのをただ待つ。

 管理人も管理人で会話の糸口を探しているのか、そわそわと落ち着きがなく床に置かれた箱に目をやる。

「はぁはぁ…ああっごめん二人とも待った?」

 真っ赤な制服のスカートを揺らして息を切らしたミロクが走ってきた姿を見て、私とルボフは安堵のため息をもらす。

「あっ、管理人さん。どうもです」

「この方の手伝いをすることになったの。あんたも手伝いなさい」

「えぇ!?今こんな汗だくになって走ってきたのに…?そんなぁ」

 私とミロクのやり取りを見て、管理人はちょっと申し訳無さそうにしながら微笑んだ。

「本当にごめんなさいね。運び終わったらお茶でも出しますから」

「全然大丈夫ですっ、どんどん運んじゃいましょう!!」

 管理人のお茶という言葉にミロクは瞳を輝かせて、床に置かれた箱を二つずつ持ち上げる。

「女の子がそんなに持って大丈夫かしら?結構重いから気をつけてくださいね」

 心配そうに言う管理人をよそに、私とルボフはお互い2つずつ箱を余裕で持ち上げる。確かに少し重いがこのぐらいなら毎日訓練を受けている私たちにとって軽々と持てる重さだ。

「…なんか全部持たせて悪いわ。アニア生徒の箱を一個私が持たせていただけないかしら」

「いえ、これより重いものを毎日訓練で持っているので結構です。それより、この箱を管理人室まで運べばいいのですよね?」

 私は管理人にそう確認をすると、彼女は「そうですよ」と申し訳なさそうに頷いた。

 荷物を持ち管理人室に向かう途中、私より少し歩幅の大きいルボフに私は駆け足で追いつくと彼の横を歩きつつ軽く肘で小突く。

「悪かったわね。私と一緒に話してたせいで巻き込まれちゃって」

「アニアちゃんのせいじゃないよ。俺が選んで一緒に手伝うって決めたんだからさ」

 ルボフは横目で私を見て微笑むと、歩みを遅くし私の横に並ぶ。管理人室がある寮に向かうため、私たちは靴箱で靴を履き替え外に出る。

 ふと、前を歩くミロクに視線を向けると管理人と楽しそうに談笑しながら箱を運んでいた。

 私は人と馴染むのが苦手な上こんな性格だから友達と呼べる人はルボフしかいない。だけどミロクはあまり話したことのないルボフともすぐに打ち解けてあの管理人とも何気ない会話ができて、私は少しそれが羨ましかった。

 二人の背中を眺めながらそんなことを考えていると前を歩くミロクが急に立ち止まり振り返る。ミロクは私と目が合うと笑顔のまま私に向かって大きく手を振る。そんな仕草に少し気恥ずかしさを覚えながらも、私も小さく手を振り返した。

 ちょっと自分の考えていることが浅ましく感じた瞬間だった。

「はぁぁぁ疲れたぁ…ちょっとタンマ」

 ミロクは管理人室前に着くと、床に箱を置き扉の前に座り体を丸めるとそれを見た管理人は鍵穴に鍵を挿し込み、ガチャリと扉を開けると私たちに中に入るように促す。

「ごめんなさいね、疲れてるのはわかってるんだけどもしよかったら奥の部屋まで箱を運んでくれないかしら。その間に紅茶を作りますから」

「いえ、紅茶は結構です。ミロクあと少しだから箱くらい持ちなさいよ」

「えぇ〜そんなに言うならニアが持ってよ」

 ミロクと私は箱を間にしてお互いを押しのけ合うが、ルボフが間に入る。

「アニアちゃんは持たなくていいよ。俺が持つ」

 すると彼は軽々とミロクの分の箱を持ち上げミロクを見下ろして微笑む。ミロクはルボフを見上げながら自身の制服のネクタイを緩める。

「へぇ。ありがとう」

 私にはよくわからないがこの瞬間ミロクとルボフの間に異様な空気が流れたのを私は感じた。

「どっちが運ぶかはどうでもいいけど、早く箱を運ぶわよ」

 私は二人の間の空気に耐えきれず、そう急かすと睨み合いをやめ奥の部屋に荷物を運んでいく。管理人室の奥は倉庫になっており様々な物が雑多に置かれていた。

 倉庫の一番奥には、大きなテーブルがありその上にはノートや本が山積みになっていた。私はテーブルの上に箱を下ろすと、その横でルボフも持っていた箱を置く。

「思ったより整理されてないのね。あの管理人、神経質そうだからそういうの結構気にするって思ったから意外」

 初めて入った空間に少し興味を持ちふと周りを見ると、本棚の上に積まれた本やノートが今にも崩れそうな不安定な形で積まれていることに気がつく。私は安定させようと背伸びをして本棚の上まで手を伸ばすが、ギリギリのところで届かない。

 もう少しで届くというところで私はバランスを崩してしまい、後ろに倒れそうになる。

「危ないっ!!」

 倒れる寸前私は目を瞑ったが、瞬時に背後から伸ばされた腕に支えられなんとか倒れずに済む。一瞬何が起こったのか理解できなかったが、横を見ると少し息の上がったミロクが私の体を支えてくれていた。

「はぁはぁ、間一髪」

「あ…ありがと」

 私が体勢を立て直し床に足をつけると、ミロクもゆっくり私の体を支えていた手を下ろす。

「アニアちゃん大丈夫!?怪我してない?」

 慌てた様子で隣に立っていたルボフがこちらに駆け寄ってくる。私は床に置いた箱に腰をかけて、服についた埃を払い落しながら頷く。

「大丈夫よ、大袈裟に心配しなくてもいいから」

 それでもルボフは私の顔を心配そうに覗き込む。私はそんなルボフの頬を両手で軽く挟むと、彼は少し驚いた顔を見せる。

「大丈夫って言ってるでしょ」

「…うん」

 ルボフは私から離れると、少し照れた様子で頬をかきながら視線をそらしてミロクの方を見つめる。私はそんなルボフを横目で見て、軽く鼻で笑うと立ち上がりテーブルから乱雑に置かれていた本を手に取る。

 その本は表紙がかなり色あせており、年季が入っていることがわかる。パラパラとページめくると、中には見たことのない言語で書かれた文字や人の体の構造が書かれているものや、地図のようなものが描かれていた。

 私が本に興味をなくし閉じようとした瞬間、本の隙間から一枚の写真が落ちる。

「私も最近よく物を落とすわね…」

 ため息をつきながらその写真を拾い上げると、私はしばらく思考が停止してしまう。

 何故ならそこには脳がむき出しになった二人の人間が写っていたからだ。脳は暗い闇のような空間に浮かび上がり、その周りには複数の管がつながれていた。二人とも生きているとは思えないような見た目で私は恐怖を覚えると同時に疑問が頭によぎる。

「ミロク…これを見て」

 私は緊張で震えた声を精一杯振り絞り、写真にうつる脳を指差してミロクに見せようと前を向く。しかし、その視線の向こうにいたのはティーカップと砂糖入れをお盆にのせた管理人だった。

「あら?一体何を見つけたのかしら、アニア生徒」

 ミロクの隣に立っていた管理人がカウンターテーブルの上にお盆を置いて、ゆっくりと私の顔を見ながら微笑む。その微笑みに私の背筋が凍り付くように冷たくなるのを感じた。

「いえなんでもありません。次の授業が始まるわ、二人とも教室に戻るわよ」

 私はこの場から早く立ち去りたかった。ミロクとルボフの返事を聞くことなく、写真と本を管理人室に置いて倉庫から出ていこうとする。そんな私を管理人は引き止める。

「そんなに慌てて出なくてもいいじゃないですか。紅茶くらい飲んでいったらどうです?」

 カップにポットで紅茶を注ぎながら、椅子に座るよう私たちを促すがルボフは椅子に座らず私を庇うように前に立つ。

「いえ俺たちはもう行かなきゃいけないんで……失礼します」

「そうですか…あっ!でももう次の授業まで時間ギリギリじゃない。せっかく手伝ってくれたのに、3人共遅刻させたら申し訳ないですよ」

 そう言って管理人は近くにあったメモ帳をちぎり、ボールペンでサラサラと文字を書き込む。そしてその紙を折り畳むと私に差し出した。

「私を手伝ったせいで授業に遅れたとしっかり書いたから、次の授業の教官に見せてください。これでお咎めはないはず」

「ありがとうございます」

 私は紙を開き中身を確認すると、管理人の字で書かれたその文にどこか奇妙な違和感を持った。この字はどこかで見たことがある、それもここ最近…今日見た。

 私は紅茶を呑気に飲んでいるミロクの胸ぐらを掴かむと、制服の胸ポケットに強引に手を入れる。

「あっ!ちょっニア、待って」

 ミロクは頬を赤らめながら私に制止するよう呼びかけるが、私は無視して胸ポケットにしまい込んだあのメモを無理やり引っ張り出す。

 取り出した紙に書かれた文字と今目の前に広がる文字が重なった時、私の記憶のパズルは完全に噛み合った。

 そして全てのピースが合わさり、私の中で一つの答えが浮かび上がる。

「あんたがこんなふざけた紙を私に送った目撃者なのね」

「え?え?」

 ミロクとルボフは状況が全く理解できていない様子で、困惑した様子で私と管理人を交互に見る。

 先ほどまで自信がなさそうな表情をしていた管理人は、今は不気味な微笑みを浮かべて私を見つめている。

「そうです。あなたたちの犯行を全て目撃し、それを揉み消した目撃者は私よ」

「えっ?まじで?」

 ミロクが素っ頓狂な声を上げ、管理人は楽しそうに「ふふっ」と笑う。

「感謝してほしいですよ。たまたま校長室の掃除に来て鉢合わせしたのが私でよかったけどですけどねぇ、これがレスキナ教官や他の教官だったら一発であなたたちの計画は…ドンよ」

 そう言いながら私が握りしめていたメモ用紙を優しくぬき取り、その紙をいれたばかりの紅茶の中にポチャと捨てた。

 メモ用紙は小さな泡を立てながらみるみる変色していき、そして最後は黒い紙クズのように変わっていった。

「で、わざわざ揉み消してあなたになんの得があるってわけ?一体何が目的なの?」

「取引を行いたいのですよ。あなたたちと」

 管理人はティーカップに僅かに残った紅茶をゴミ箱に流すと窓から外を眺める。

 空はもう陽が傾き始め真っ赤な夕焼けが空を支配しつつあった。そんな光景を一瞥して、管理人はゆっくりと私の前に立つ。

「この学校の情報も脱走経路も全て教えます…だから私も脱走に付き合わせて」

 微笑みを消しまじめ腐った瞳を向ける管理人は、いきなり私に右手を差し出す。

 突然のことに私は目を見開き困惑しミロクとルボフに助けを求めるため視線を送るが、二人は私以上に困惑した様子で立ち尽くしていた。

 わざわざ私たちがやったことをもみ消すくらいなのだから、何かを求めてくるとは思ったがまさか寮の管理人という安定した地位を捨てて私たちの脱走に加担するどころか、自分も脱走するつもりでいるなんて予想していなかった。

「校長室からたいした情報を盗めてないんでしょ?昨日のあなたたちが荒らした資料を見たら一目瞭然。でも私の取引を受け入れてくれるなら私が持ってる脱出に必要な資料を全てあなたたちにあげるわ。脱走するなら私の情報が必要よっ!!」

 懇願にも似た管理人のその叫びに私は唾を飲み込む。もし管理人が言ったことが本気なら、私たちはかなり心強い協力者を得れる。

 本当に管理人が脱走の計画に加担する気なら……でもそれは罠かもしれないという不安に私は襲われる。

「おっけーじゃあ取引を受け入れましょう」

 脳を酷使してまでこれを受け入れるべきか悩んでいる私を差し置いて、ミロクは管理人に差し出された右手を躊躇なく握る。

「はぁ!?こいつが裏切らないって保証できないのに、あんたマジで言ってんの?」

 私は管理人に聞こえないようにミロクの耳元まで顔を近づけ小声で叫ぶと、ミロクは私と管理人の間で視線を行き来させる。

「うん。だって毎回校長室に忍び込むより、こっちの方が圧倒的に簡単に大量の情報を得られるじゃん。それにこの取引…管理人さんの方が有利だもん」

「えっ?」

「だってこの取引断ったら、私たちがやってきたこと全てこの管理人さんは多分校長や教官たちに言うよ。そしたら校長室侵入どころか脱走計画までバレて私たちは卒業する前に脳移植に回されちゃう。だから私たちにできることは一つだけ」

 人差し指を私に見せつけるように立てて、ミロクは流し目で管理人を見つめる。

「管理人を私たちの共犯者にする」

 ミロクの立てた人差し指は、そのまま管理人を指す。

「どうやらアニア生徒よりあなたの方が賢いみたいですね、ミロク生徒」

「ニアは私より賢いよ。ただ用心深いだけ」

 差し出されたお互いの手を握りしめた管理人とミロクは、まるで昔からの友人のような親しさで微笑み合う。

「ただこの脱走は私だけのものじゃない、3人のものだからもちろんニアとルボフ生徒が嫌なら断る。だから二人の答えを教えて」

「それが最適解なら別に俺はいいよ。アニアちゃんに合わせる」

「ニアはどうする?」

 3人の目が私を突き刺す。刃物のように鋭く、鈍器のように重く、注射器のように冷たい視線に私は耐えられず視線を反らしてしまう。

 でもどうせもう後戻りはできないのだ、だったら最後までやるしかない。

「いいじゃないっ、やってやるわよ」

「交渉成立ですね」

 管理人はミロクの手を一度強く握り返すと、私の目の前に手を差し出す。私はその手を握り返すと管理人は嬉しそうに微笑む。

 そうやって私たちは共犯者になったのだった。

「一つだけ質問させて。なんであんたはわざわざ管理人という安定した地位を捨ててまで脱走を選ぶの?」

「ああ、そんなことですか」

 窓の外を眺めながらポットに入った紅茶を淡々と捨てる彼女は夕日の光で顔に影を作り、その表情を私たち悟らせないまま答える。

「許せなかったのですよ、私だけ脳の移植を認められなかったことが…」

「は?」

「この学校にいる教官や校長はみんな脳の移植をして若々しい体を永遠に手に入るのに、私はあいつらより地位が低いからってこの毎日少しずつ老いる体と向き合わなければならなかったっ。この苦しさがあなたたち若い子供にわかる!?」

  怒りを含んだ管理人の声に、私とミロクは無意識に一歩後ろに下がる。

 だが、そんなことには目もくれず管理人はテーブルをバンっと叩き、その瞳には涙が浮かび上がり頬を伝って流れるのが見えた。

「私がほとんど寮を管理して生徒が逃げ出さないように監視してるのに…私が一番大変なのにあいつらは若い体への脳移植を許してくれなかった。それならもうグレイス帝国に住んでいる息子のもとに帰りたいんです」

「グレイス帝国?あんたの息子グレイス帝国に住んでいるの?」

 管理人の瞳に溜められた涙がこぼれ落ち、スカートに涙の跡を残すのを見てため息をつきながら乾いた笑いを浮かべていた私だったがグレイス帝国という言葉を聞いて管理人に詰め寄る。

「ええ、そうですよ。まあ正確にはシュテーレン連邦特別経済特区第13区仮称グレイス帝国に息子と家族は住んでいます。そしてここはシュテーレン連邦特別経済特区第11区仮称ドルトニア王国。今起きている戦争は全部シュテーレン連邦という国内で行われている小さな戦争にすぎないんです」

「そんなに区があるってことは他の区にさえ行ければ脱走はそんなに難しくないんじゃ……」

「確かにっ。管理人さんの協力があるなら脱走は容易に!」

 ボソッと漏らすルボフの言葉に、ミロクはテーブルから身を乗り出してルボフの目の前に顔を突き出す。

 その表情には先ほどのような冷静さはなく、鬼気迫る何かが表情に満ちていた。

 管理人はそんなミロクを見てとっさに間に入る。

「無理よ、不可能に近いわ。例えこの学校を脱走できても、シュテーレン連邦自体が人身貿易国。だからたとえ他の区に逃れてもすぐ捕まって、このドルトニア王国に戻されて人身売買は続行されるわ」

「っ……そんな」

息の詰まる音がミロクから聞こえ、力なく椅子に腰を落とす。私もルボフももちろんミロクのように落胆し、どんよりとした暗い空気が私たちの間に流れる。

「上が実験で唯一成功させた実験体って聞いたから期待してたけど、そんなことも知らなかったんですか?」

管理人の瞳には先ほどの涙の跡など跡形もなく消え去り、私たちを見下す冷たい視線が心に強く突き刺さる。

「上が実験で唯一成功させた実験体って聞いたから期待してたけど、そんなことも知らなかったんですか?」

管理人は見下すというよりかは、ただただ知識のない私たちに呆れそして困惑したような視線が心に強く突き刺さる。

「シュテーレン連邦は他の区で子供達や赤ちゃんを取り上げたあとこの学校に連れてこられて子供の元の記憶を抹消してあたかも学校に最初からいたみたいに操作して、質の高い体を育成するの。私も最初は息子が取り上げられそうになって、身代わりとして私が来たんです」

「だからあんたは私たちと違ってただグレイス帝国に帰れたらそこでゴール。つまり私たちと違って脱走のリスクが少ないってことね」

 束ねられていた白髪が少し混じった茶髪を解く管理人にもう先ほどの涙の跡など跡形もなく消え去り、その顔には余裕めいた笑みさえ浮かべている。

「ええ。どうせ脱走をした後学校は、高値がつくはずだった『体』あなたたち3人を血眼になって探すはず。どうせ私がいなくても誰も気にしません。つまりあなた達を『囮』として使いたい。そう言ってるんです」

 管理人の正直すぎる物言いに、私は嫌味の一つでも言ってやろうかと思ったが逆上されても面倒なのでやめておく。

 私たちとこの管理人とは背負うリスクが違いすぎる。

 たとえこの脱走が途中でバレても私たちに脅されて仕方なく従ったとでも言えばいいし、そもそもさっきから言っているこの息子とかの話自体が嘘で私たちを教官達に突き出すための材料が欲しいがために協力など言っているのかもしれない。

 どちらにしろ背負うリスクが違いすぎる計画はうまく行かない。これは模擬戦を指揮してきた指揮官としての経験から言えることだ。

「私は共犯である以上あなた達に正直でありたいんです。でもリスクが違う私をあなた達は受け入れることはできるんですか?」

 人差し指を私たち一人一人の顎に当てながら管理人はわざとらしく唸り最後に私を指す。全員の視線が私に向き沈黙が広がる中、私はただ一言だけ発する。

「できるわ、それが必要なことなら」

 その答えが私の考えであり、この3人の答えであると信じて。

「なら、いいです。安心しました」

 これが好手と転ぶか悪手と転ぶかは今の私にはわからない。

 ただこの取引によって3人だけではどうにもできないほど大きな壁を打ち破る王手を手に入れたということだけは確かなことだった。

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