9章

 少し早い鈴虫が鳴く生ぬるい暖かさが続く春の終わりの夜。

 煌々と光る月の下、私は草の上に寝そべりテープレコーダーをききながら私の不安を吸い取った真っ黒な空を見上げていた。

 少し湿り気を帯びる葉と共にゆっくりと風が私の頬を優しく撫でる。それはくすぐったくて、それでいて心地がよくて、私の全身を脱力させる。

「こんな時間がずっと続けばいいいのに…」

 誰もいない空間でそう呟くと、その声は誰かに届く前に風に飛ばされる。

「あぁ!!ここにいたんだ、ニア。深夜まわっても部屋に帰ってこないから心配で寮内を探し回ったんだよ、もう…」

 そう言いながらミロクは草の坂を滑りながら私の元にやってくると、その勢いのまま私の上に覆いかぶさる。

 そのはずみでテープレコーダーが草の上を転がり、私の手元から消えてしまう。

「あんたのせいでテープレコーダーがどっかに飛んでいっちゃったじゃない」

 私は手を伸ばして、届くか届かないかのぎりぎりの位置に転がったテープレコーダーを取ろうとすると、ミロクは私の腕を重ねるようにして上からテープレコーダーを掴かみとる。

「私もこれ聞いていい?」

「いいけど…」

「やった」

 イヤホンの片方を私の耳に装着し、もう片方を自分の耳に装着すると、私の腕を枕にしながらテープレコーダーから流れるピアノの旋律に耳を傾ける。

 特に会話をすることもなくただ静かに、その音楽は風に乗って私たち二人の間を駆け巡る。

「ニア、最近眠れてないでしょ?私が隣にいるから寝ていいよ」

「別に眠くないから」

「強情だなぁ、眠れないならトントンしてあげようか?」

「ばっかじゃないの」

「いいから、いいから」

 そう言いながらミロクは私の背中に腕を回し、優しく子供を寝かしつけるようにとんとんと叩く。

 アホらしいと思っていたが耳から流れ落ちるピアノの音が次第に遠ざかり、私の意識も薄れていく。眠気が私を襲い抵抗できずに、瞼が完全に落ちきってしまう瞬間までミロクの瞳を見つめ続けた。

「かぁ…さん」

「おやすみ」

 その優しい手つきに誘われるまま私はゆっくりと瞼を閉じて、深い眠りへと落ちていった。

 また私は夢を見る。夢の中の私は、現実の私みたいな白髪じゃなくて蜂蜜色の長い髪を揺らしている。

 小さいころ誰かに読み聞かせてもらった絵本の中のお姫様のような真っ白なドレスを着ていて、頭にも綺麗なベールをかぶっている。

 そして隣を歩いているのは……私より6歳くらい年上の青年だった。顔はぼんやりとしててよく見えないけど、その人はいつも私を守ってくれた大切な存在だったはずだ。

 私の周りにいる大人たちはみんな顔がぼやけてて誰が誰かわからないが、私の背後で泣いている母さんの姿だけははっきりと見えた。

 そしてそんな母さんに寄り添うように立っていたのは、私の父さんだった。

 私は二人の元に駆け寄ろうと足を進めるが、なぜかいくら走っても距離は縮まらない。それどころかどんどんと遠くなっていく。

「待って!!行かないで…母さんっ!!父さん!!行かないで…」

 叫んでも叫んでも、その声は届くことなく二人は闇の中へと消えていく。

 そして闇を包み込むように炎がそこらじゅうから溢れ出て、全てを焼き尽くす。

 炎に包まれた真っ白な教会は一瞬にして黒い炭になり崩れ落ちた。

「ニア、こっちよ」

 燃え散った灰が舞う中、母さんが炎の中を歩きながら私に手を差し伸べる。その手を取り私は母さんをの体を抱きしめると、その体は徐々に灰になって崩れ落ちていく。

「ニア、愛はそばにいなくても姿かたちを変えていつもあなたを見守ってるわ。だから大丈夫」

「姿かたちなんて変えなくていいよっ、だからそばにいてよ!!」

「愛してるわ、この世界の誰よりも」

 私は必死にその体を抱きしめようとするが、母さんの体は私の腕をすり抜けて地面に散らばる灰と化す。そして私の足はいつの間にか地面から抜けており、そのまま深い闇の中へと落ちていく。

「いや……いやだっ!!やめてぇぇぇっ!!!」

 そこで私は目を覚ました。溢れ出る涙が頬を伝い、私の顔はぐっしょりと濡れていた。悪夢の後の嫌な頭痛を和らげるように額を抑えながら上半身だけ起こすと、目の前には心配そうに私を見つめるミロクの姿があった。

「どうしたの、ニア。嫌な夢でも見た?」

「夢じゃない。これは絶対夢じゃない…私が唯一思い出せる本当の記憶だ。学校から消された記憶を母さんは思い出させるために何度もこの夢を見せたんだ…」

 私の震える肩をミロクがそっと抱きしめてくれる。その心臓の鼓動が自分の心音と重なり合い、そして私の心は少しずつ落ち着いてくる。

「その夢に出てくる記憶よりも前のことは思い出せないの?」

「うん」

「じゃあニアの本当の記憶を私に教えてよ」

 ミロクのその言葉に私は静かに頷き、あの日の話をする。

 私の話を聞いている間ミロクは私に文句も言わずにただ黙って聞いてくれた。たまに相槌をうったり優しく微笑んでくれたりするけど、なにも言葉を発しない。

「私のファーストキスは血の味だったな…」

「よかった?」

「まさか。キスに少し期待してたからショックだった」

「そっか…じゃあ」

 ミロクはそこらへんに生えている花の中から、白い花びらに薄ら桃がかった花を摘み取ると自分の唇につけその後私の唇に当てる。

「初間接キスの味はツツジの花の蜜だね」

「私、もう初間接キスは済ませてる」

「こんなカッコつけていったのに、それ今言う?」

 私は「ふふっ」と小さく笑いミロクのくれたツツジの花の蜜を味わう。舌の上に溶けていく偽初間接キスはほんのり甘くて、少ししょっぱかった。

「なんであんたは私にだけそんな優しいの?」

「うーん…記憶がほとんど残っていない私の脳の奥にある何かが、ニアを愛おしいものと認識してるからかな」

「記憶?」

 ミロクは「そう」と頷くと、少し寂しい表情をしながら瞳を閉じる。

「なんて言えばいいのかな…昨日も言ったけど私の脳は誰かの体に移植し、脳にある記憶を削ることで超人的な能力を引き出すっていう実験をして成功した369番目の実験体なんだけど、実験のたび記憶が少しずつなくなっていって、今は…もう前の体の記憶は全くないんだ。自分の本当の名前も…自分の本当の容姿も…自分の本当の家族も」

 そこまで言うとミロクはゆっくりとまぶたを持ち上げ、瞳に再び私を映し出す。

「全てを忘れて空っぽだったのに、ミロクはニアを初めて見たとき心に燈がポッとついた。これって、ミロクにとって普通のことじゃないよ」

「ふっ、ミロクは私に会えて幸せっていいたいわけ?」

 私の意地悪な質問にミロクは優しく微笑んで、首を小さく縦に振る。

「なにを忘れてもニアと出会った出来事は人生で一番幸せなことだよ」

 ミロクは制服についた土を払いながら立ち上がり、私に手を差し出す。

「ニア!…帰ろっか?」

「そうね」

 私が差し出した手をミロクは私を立ち上がらせるためグイッと引っ張り、私はその力に流されるままミロクの腕の中に倒れ込む。

「ニアは本当によくよろけるんだから〜」

「べ、別にあんたがいうほど私は貧弱じゃないわよっ」

「いや私はそこまで言ってないんだけど。意外と自覚してるんだね」

「はぁ!?」

 私はミロクの肩から顔をあげて、挑発的な表情をするミロクの表情を睨み付ける。

「あははっニアが怒った。逃げろ〜」

「ちょっ、待ちなさいよ!?何が言いたわけっ」

 ゲラゲラと大声で笑いながら草の上を駆け抜けていくミロクを、私も少し笑いながら追いかける。

 全てが闇に飲み込まれてしまわないように、二つの影はその繋がりを強く握りしめながら寮へと走っていた。




 暖かい日射しと共に少し青みがかった空が広がり、太陽の光が中庭の花壇に咲き誇る花々を照らしているのが屋上から見える。

 屋上に備え付けられている貯水タンクの下で私たちは各自購買で買ったパンを頰張る。

「はっくしゅ!!昨日までポケットにずっと入れていたポケベルがなくなってるんだけど、ミロク知ってる?」

「知らないよ、部屋に置いてきたんじゃない?」

「そうかしら…はっくしゅんっ!!ああ…昨日外でちょっと寝たから風邪ひいたかも」

 ポケベルの代わりに入っていたポケットティッシュを取り出して、私は鼻をかむ。 「俺、レモンキャンディ持ってるけど舐める?風邪に効くかも」

「ありがたくいただくわ」

 サンドウィッチを齧っていたルボフはポケットに手を入れると、レモン色のキャンディを一つ私に差し出す。私はそれを口に含むと舌の上でじんわりとレモンの風味が広がり、甘いハチミツの味が鼻に抜ける。

「それにしても一体どうやって屋上に入れたのよ?誰にも脱走計画について聞かれたくないのはわかるけど、別にここじゃなくても私たちの部屋や他の空き教室でもよかったじゃない」

「鍵は管理人さんから昨日もらってきたんだよ。屋上に来たのは二人に、ちゃんと脱走ルートをわかりやすく見せたかったから。あれ見て」

 ミロクは口いっぱいに含んだサンドウィッチを飲み込むと立ち上がり、北の方向に指を指す。その人差し指は、人間の腕のような歪な形をした木々が鬱蒼と茂る森を指差していた。

 中等部のとき、入ることを禁止されていたが気になった私はルボフと共にその森に入ったことがあるが深く暗い森で太陽の光は一切射し込む余地はなく、その中でうごめく動物たちの影すらどこにも見当たらなかったのをよく覚えている。

 まるでその森自体に意思があるかのように、不気味な空気が漂っていて怖くて逃げ出したことは記憶に新しい。

「あの森を超えた先に校門があって、脳移植用生徒を国外に運ぶ汽車がある。それに乗って私たちは国外に逃げるよ」

「汽車ってでもそれは卒業生や入学生を乗せる…あっ」

「そう。私もあれに乗って学校に運ばれたよ、まあ箱の中に入れられてたから周りはよく見えなかったけど」

 ルボフの問いにミロクはケロっとした表情で、別に大したことでもないかのごとく答えた。

「よく見えなかったのに汽車だってどうやって判断できるのさ」

「でもずっとガッターンゴットーンって揺れてたし多分汽車に乗って学校に来たんだと思うよ」

「そんな曖昧な…アニアちゃんからも何か言ってよ」

 私の横で腕を胸の前で組みながらふんぞり返っているミロクをチラッと横目で見ながら、私は口に含んだキャンディを奥歯でカキッと嚙み砕く。

「とりあえず汽車があるとして、どうやってそれに乗るってわけ?汽車に勝手に乗ったらバレるに決まってるわ」

「一応管理人という強力な協力者を手に入れたんだから、かくまったりしてもらって隠れることくらいできるでしょ!それで汽車に乗って国外に行けるよっ…多分」

 根拠のない自信で自分を鼓舞しているミロクに、私とルボフは頭を抱えながら呆れのため息をつく。

「で、その肝心の管理人さんは今どこにいんのよ?一緒に屋上で計画を立てるって言ったのに何十分経っても来ないじゃない。まさか裏切った…?」

「違う違う。なんか教官たちから呼び出しがあったから遅れて来るって今朝言ってたよ」

「ならいいけど」

「問題はいつ脱走するかなんだけど、その汽車は生徒を乗せて3ヶ月ごとに動くらしくてここ一番最近だと明日…」

 背中の毛穴一つ一つに細い針を挿していくような、背筋がゾワッとする悪寒が私の体の中を急に這いずり回り、ミロクが何かをずっと話しているが私の耳には届かず、妙に自分の心がざわついていることに違和感を感じながらも、私は平静を装う。

 何か嫌な予感がする、今まで模擬戦で培ってきた指揮官としての勘が私の耳元にささやく。

「私がちょうど昨日入ってみて何もアラートとか鳴らなかったからおそらくそういう探知機みたいのはないんだと思う。それで先に私の超人的な能力について話といた方がスムーズかなって思うから話すけど…話聞いてるニア?」

「…ええ。ところで屋上で計画を練ろうって提案したのは誰なの?ミロク?」

「ううん、管理人さんだよ。ここなら脱走計画を誰にも聞かれずに話せるだろうって…あの白いモヤは何?」

「えっ?」

 ミロクの目線の先、私の足元を見ればいつのまにか白いモヤが足首を巻くように立ち込めていた。それは貯水タンクの上から発生し、あっという間に貯水タンクを埋め尽くし私たちの体をその霧が包み込む。

「絶対吸い込まないようにハンカチで口元を押さえてっ!!」

 私はポケットからハンカチを取り出すと、そのハンカチで鼻を押さえながら貯水タンクから距離を取り私は屋上の扉へと走る。

 しかし扉はいくらドアノブを回しても開くことはなく、ガチャガチャと虚しい金属音だけが屋上に鳴り響く。

「ちっ!!あの管理人はめやがったわっ、最初っから怪しいと思ってたのよ」

 扉を何度も叩いてもビクともしない様子に、私は勢いよく足で扉を蹴る。

 一体どうする?屋上にあるものでドアを壊せたらいいが、生憎ここにはそんな頑丈なものを壊せそうなほどのものは置いてない。

 管理人は最初からこれが目当てで私たちに近づいたのか?信頼させて脱走する前に私たちを嵌めて、教官たちに私たちを突き出す気だったのか?

 でもそれじゃあ何か違和感を感じる。

「ニア…息が…もうっだめ」

「ミロクっ!!」

 フェンスに体を預けながら必死に呼吸をするミロクの体が、膝から崩れ落ちそれをルボフが受け止める。意識を失ったミロクをルボフが抱き抱えながら、首元の脈を確認する。

「意識を失っただけみたい、今のところはわからないけど催眠ガスだから命に別状はないと思う。でもこのままだと俺たちまで…」

 ルボフも苦しそうに顔を歪ませながらその場に崩れ落ちる。私とルボフは視線を交差させ、互いが言いたいことを瞬時に理解する。

 私も意識が朦朧との淵を彷徨い始め、もう時間がないことを悟る。

「ルボフっ!!ミロクをおんぶできる力はある?」

「できるけど何?」

「一か八かの大勝負よ。屋上から飛び降りるわ」

「アニアちゃん正気なの!?ここ5階だよ」

「私の案以外にここから逃れる方法はあるって言いたいの?」

 ルボフは唾を飲み込むと、眉を顰めながら苦しそうな表情を浮かべる。

「アニアちゃんギャンブルは本当にやらない方がいいよ」

 そう言って大きく息を吐くと、ルボフは決意した表情でミロクを背中に背負い立ち上がる。

「ミロクを離したら殺すわよ。ルボフ」

「はいはい」

「3、2、1で行くわよ。3…2…1っ!!」

 私は口元を覆っていたハンカチを捨てると扉に体を預けながら立ち上がり、フェンスめがけて一直線に走る。フェンスの網目に手をかけると同時にルボフに手を伸ばす。

 差し伸べられた手にルボフは一瞬躊躇しながらも掴みその勢いのまま二つの影が体を空中へと投げ出す。

 体全身を冷たい風が包み込み、重力による強い力が私たちの体を引き寄せ空気の膜を突き破る。

 下にはクッションになるようなものはなく、あるのは硬い土と生い茂る木々のみだ。でも私はこの高さから落ちても死なない自信があった。

 それは私が超人的な能力を持っているからとかではなく、ただ単純に私の勘がそう言ってるからだ。

「やるっきゃないわ、ルボフ私の手をしっかり握ってよっ!!」

 落下していく中私は空中で体制を立て直し、私は自分の腰に手を当てるとベルトからワイヤー付きナイフを引き抜きその刃先を木に向けると、それを勢いよく枝に投げそのまま突き刺さる。

「止まれ止まれ止まれ止まれええええっ!!!」

 ワイヤーがキィィィッと甲高い金属音を上げ、私は落下衝撃を和らげるために力強く引っ張るとワイヤーが弓のようにしなりながら、偶然にも枝に巻き付きグッと私たちを引き寄せる。 

 地面との距離数十センチのところで落下していたはずの私たちの体は空中で止まる。

「はぁはぁ…セーフ。大丈夫、ルボフ?」

 ワイヤーに吊るされながら私は右手でルボフとミロク二人を落ちないように支え、腕が二人の重さに悲鳴をあげていたがとりあえず安堵のため息をつく。

「大丈夫だけど…アニアちゃんこそ俺とミロク生徒を二人も背負って大丈夫?」

「まあ重いけど普段鍛えてるからこれくらい大丈夫よ。それより枝が折れる前に降りな…あっ」

 急な私たち三人分の衝撃に枝はミシミシと悲鳴をあげながら木の幹が軋み上がる。

「今折れるな、折れるな…折れるな」

 しかし自然とは無慈悲なもので私たち3人の強烈な衝撃に耐えきれず枝はパキッと音をたてて折れてしまい、支えるものがなくなった私たちは重力に従って地面へと落下する。そしてドサっと大きな音を立て私たちは地面に打ち付けられ、その衝撃でルボフはミロクを手放してしまう。

「生きてる私たち…?」

「なんとか」

「ミロクは無事?」

「気持ちよさそうに寝てるよ、まったく」

 鈍い痛みが背中全体に広がり、思わず私は顔を歪めるもルボフとミロクの無事が確認できた私は胸を撫で下ろしゆっくりと上半身起き上がらせる。

 ミロクの様子を見ると息は落ち着いていて、顔色も先ほどよりも随分よくなっている気がする。

「馬鹿、呑気に寝てないで起きなさい」

 私はミロクの頰をペチペチと軽く叩きながら声をかける。

「…んぐぁ!ここはどこ?私は誰?」

「何、寝起き早々ふざけてんのよ」

 間抜けな表情でボケてるミロクの頭上に私はチョップを喰らわせると、ミロクは両手で頭を押さえながら涙目で私を睨み付ける。

「感謝しなさいよね。私が臨機応変に動かなかったら、今頃私たちあの屋上で3人仲良くお寝んねよ」

「だとしてもまさか急に屋上から飛び降りるとは思ってなかったよ。はぁぁ…もうこんな目に二度と逢いたくない」

 ルボフが深いため息をつきながら、立ち上がる。

「これも全てあのクソ管理人のせいよ。元凶のところ行って、どういうつもりか問いただす…ぐあっ!!」

 立ち上がろうとした瞬間、右足のズキッとした鈍い痛みが脳に伝わり思わず顔を顰める。

「いったぁ…どうやら落ちた際に足を捻っちゃったみたいね」

「だ、大丈夫?」

「あんな高さから飛び降りてこの程度の怪我ならまだマシよ」

 私はなんともないように微笑みながら、ゆっくりと立ち上がろうとするも右足に体重をかける度に稲妻のような鋭い痛みが体の中を駆け巡る。

「はぁ…ニア乗って」

 突然ミロクは大きくため息をつくと、私の目の前に背中を向け腰を下ろす。

「私をおちょくってるわけ?私がおんぶなんて素直に了承すると思うならとんだ勘違いよ」

「思わないよ。そもそもニアは素直じゃないんだから、強がって痛くないとかいうんでしょ。でもニアが我慢することで後々大変なことになるかもだしとりあえずのりなって」

 その言葉に図星を突かれた私は言葉を詰まらせる。ミロクのいう通り、私がもし痛みを我慢すればその行動自体が二人に負荷をかけてしまい脱走に支障を来すかもしれない。

 悩む私を見てミロクは痺れを切らしたのか、私の腹部に腕を回すとグッと自分に引き寄せ背中に背負う。

「私はまだ何も言って!」

「こんなことで揉めてたら埒が明かないよ」

 背中の上で騒いでもお構いなしに、私を背中に背負ったまま鼻歌を歌いながら立ち上がるミロクにすっかり毒気を抜かれ私の言葉も虚しく雲散霧消する。

「はぁ…じゃあ、管理人室へと向かって」 

「いやその前に保健室でしょ?怪我してんだから」

「別にそんな痛くないから、ルボフからもミロクに言いなさいよ」

 私はルボフに同意を求めるが、ルボフは私の言葉には反応せずただじっと私の右足を見つめると大きくため息をつく。

「悪いけど俺はミロク生徒と同意見だから。保健室へゴー」

「イエッサー」

「ちょっ、あんたたち私の話を聞きなさいよ!!」

 ルボフの言葉にミロクは元気よくニカッと白い歯を覗かせると、私を背負ったまま足早に歩き出す。

 保健室の扉の前に辿り着いた瞬間、ミロクの体力が底をつき扉にぐったりとしながら体を預ける。

「ニア筋肉かわかんないけど、意外と重いね」

「うっさいわね。あんたに色々言われる筋合いはないわ」

 言い争ってる私たちを見下ろしながらルボフは病室の扉をノックする。

 すると扉の奥から怠そうな声で「はぁい」と返事が返ってきたので、ガチャリと勢いよく扉が開けるとそこには白衣を着たおばあさんが一人椅子に座り、呑気にコーヒーを飲みながら本を読んでいた。

「あらまぁ大量に生徒が来て…一体どうしたの?」

 おばあさんは私たちの姿を見ると眼鏡を外しながら、シワがくっきりと刻まれていた眉間にさらに深く皺を寄せる。

「一年宙組のアニア生徒が右足を挫いちゃったみたいで…」

「あらまたあなた?1週間くらい前に足をくっつけてあげたばかりでしょ…よく足を怪我する生徒だねぇ」

「好きで怪我したわけじゃありません」

「とりあえずここ座りなさい」

 おばあさんはコーヒーを机の上に置き長い白衣の裾を揺らしながらゆっくりと立ち上がると、パイプ椅子を取り出し私にその一つに座るよう促す。

「右足をよく見たいからタイツと靴を脱いで」

「ぬ、脱ぐんですか?」

「当たり前でしょ。診察するんだから」

 私は頬と耳を赤く染めながら、恐る恐るブーツの紐を解きファスナーを下ろしブーツを脱ぎ床に置く。

「タイツ脱ぐから二人はあっち向いて。見たら殺すから」

 チラッとルボフとミロクの方を見ながら、私は念を押すように指を差す。

 二人が言われたままにそっぽを向くのを確認し、私は足を伸ばしタイツをスルッと脱ぐと蒸れた生暖かい空気が太ももやふくらはぎ、そして青紫色に腫れた足首に纏わりつき思わずブルっと体を震わせる。

「あらあ…これはひどいねぇ。一体何をしたらこんなふうになるの?」

「ちょっと高いところから落ちちゃって…」

 足首を丁寧に優しくおばあさんの手で触れられると、じっと観察するようにおばあさんは腫れた足首にトントンと中指の第二関節でノックをする。

 その瞬間、足首に太い釘を刺しその上からトンカチで叩いたかのような尋常じゃない痛みが体に響き私は思わず顔を歪める。

「ぬぁああっ」

「あっ、やっぱり痛い?」

「痛いですよっそりゃあ!」

 間抜けな叫び声をあげた私を見て、ミロクとルボフの二人が顔が逸らしながら「ぷっ」と吹き出し慌てて口を手で押さえる。

「ちょっと!?あんたたち、今私がこんな痛がってるのに笑ったわねっ」

「いや、いつもあんなに偉そうにしてるニアがそんな間抜けな声出すと思うとちょっと笑いが溢れちゃって」

「お、俺は別にそんなことを思ったわけじゃ…」

 ミロクはケタケタと口を押さえながら笑い、ルボフも必死に言い訳をしようとしどろもどろに言葉を並べるがその口元はピクピクと痙攣しており、明らかに笑っているのは明白だ。

「信じられない…私が命をかけて守ったのに」

「命って?」

 消毒液を浸したガーゼでゆっくりと患部を撫でていたおばあさんが私の言葉に反応し顔を上げる。

「あっ、いやえっと…」

「私たちが管理人室の掃除してたら、棚が倒れちゃって…それをニアが庇ってくれたんです。いや本当に助かった〜」

 私の慌てぶりを見て、ミロクは咄嗟に思い付いた嘘でおばあさんにかなり現実味を帯びた説明をし私も否定することなく「そうそう」と話を合わせた。

「へぇ大変だったわねぇ。あの人胡散臭いし、結構ガサツだからね。もともと管理人とか生徒に関係する仕事は向いてなかったんでしょ。管理人をクビになったのも納得だわねぇ」

「…クビ?クビって…そんなっ。あの管理人クビになったんですか!?」

 捻挫してることも忘れて私は思わず前のめりになり、おばあさんの両肩を強く掴む。突然肩を掴まれたおばあさんは驚きのあまり、目を大きく開きながら椅子ごと後ろに倒れそうになり、その拍子に机の上からコーヒーの入ったカップが床に落ちて黒い液体が床一面に広がる。

「ちょっ、何よ急に…コーヒーこぼれちゃったじゃないっ!!ああもう。そんな元気ならもう教室に戻りなさいよ」

 肩にのせた私の手をおばあさんは振り解くと、近くにあった雑巾を手に取りコーヒーがこぼれた床を拭き始める。

 しかしそんなことなど気にする余裕もなく、私はおばあさんに詰め寄る。

「なんでそんな急にクビになったんですか?お願いします、教えてくださいっ」

「そんなの私も詳しく知らないわよ…さっき職員室で聞いたのよクビになったって。学校からはもう出ていったらしいわよ?あなたたちあのブラークっていう管理人と知り合いだったの?」

「あっ、いえ。知り合いじゃないんですけどたまに話したりとかしてたからびっくりして…ねぇニア?」

 ミロクは私と同じく戸惑いの表情を浮かべながらも怪しまれないために、私に相槌を求める。

 しかし私はおばあさんに詰め寄ったままその場から動けずただ立ち尽くしていた。

 私たちとあの管理人が結託を決めたのは昨日。そして管理人がクビになったのは今日。今朝の管理人の話のそぶりから今までクビの話があったと思えない。

 バレてる…私たちが学校の本当の目的も私たちがなんのためにいるかも知ってること、私たちが脱走計画を企ててそれに管理人という王手を手に入れたこともおそらく学校にバレていたから先手を打たれた。

 じゃあなんで私たちに何も処分を下さないの?管理人をすぐクビにしたように私たちもすぐ人身売買に回せばいいのに、何故何もしてこないの?

 実は情報はそこまで漏れていない?いや、管理人がクビ…おそらく殺されている時点でそれはない。そもそもどうやって昨日今日の話なのに学校は私たちが結託したと知ってるの?私たち4人しか知らなかったことなのに情報はどうやって漏れてるの?

 ふとミロクの方に目をやると、扉に背を預けた状態で腕を組みながら宙を見つめている。

「ははっ。まいったな…こりゃ」

 俯きながら笑いを堪えきれず肩を揺らすミロクに私は胸騒ぎを覚える。

 これが先ほど私の耳に囁いた本当の嫌な予感だったのか?

 現状の情報だけでは何も判断できず私の頭はダムの放流のように色々な憶測が止まらなかった。私の脳はパンク寸前で、ダムからは絶えず混乱や困惑というドロドロとした泥水が流れていく。

 ただ一つ分かったことは手に入れた管理人という駒は王手に導くどころか、私たちが王手をかけられたという絶望に成ったということだった。

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