23. 疎通のきっかけ

黒い蹄が草を蹴散らし、風を切っている。


「これ長時間はしんどいです…」


「もうすぐ森は抜ける。あと少しだ」


手綱を握るジェイドにもたれかかるデイジーの顔は青くなっている。


「町に入ったら屋台通りに寄りませんか?」


「串焼きを三本もたいらげたところだろう」


「ずっと走ってたらまたお腹すいちゃってー…少しだけ?」


「ダメだ。時間がない」


「想定より早いって言ってたじゃないですか!」


デイジーはジェイドの前で組んだ手を強く揺さぶった。


「早いに越したことは無いだろう」


「もー」


デイジーはさすがに疲れて、せめてもの反抗にふくれ面をしてジェイドに体重を乗せた。


「出るぞ」


生い茂る木々の隙間から漏れ出た光がデイジーの視界を覆った。

ジェイドは徐々に馬のテンポを落とした。

眩しい光が通り過ぎるとデイジー目に美しい建築物の集合と木々の青い空のコントラストが飛び込んできた。丘の上からは皇族や教会の者が住う格別な都であることが俯瞰して取れ、デイジーはヴァイオレットの計画の壮大さを実感した。


「うわっ…都会だ…」


「皇都は初めてか?」


「あの街からほとんど出たことないですよ!平民は普通そうです!」


「なるほどな」


「何に納得したんですか!」


やはりジェイドは答えず、急ピッチで馬を走らせた。

商業地区に入ってやっと鞍から降りることができたデイジーは、喜びと安心と疲労がごちゃ混ぜになった顔をしている。


「だめだぁ…腰痛いぃ…」


「ここで待っているか?」


デイジーが腰を伸ばしている間に、ジェイドは馬を繋ぎ場に留めて支度を終えていた。


「ううん‥行きますぅ…」


子鹿のような足取りを見かねて、ジェイドは手を差し出した。




“時計 コレズ”


一段と店の密集する通りの中から感じの良い看板を見つけた。開店の文字は見当たらない。


ゴンゴンッ——


返事は返ってこなかった。ヴァイオレットのメモに従ってドアノブを強く押すと、重くはあるがその扉は簡単に開いた。


埃の匂いとともに白けた空気が吹き抜けた。


「…いらっしゃい」


隅の方に部品のような物を観察している老人がいた。


「店主か?」


「はい…いかにも」


「我々は‘クレシフェル’の使いだ。仕事を依頼したい」


老人は背の傾いたまま中央のカウンターに歩いた。シミ一つないカウンターをサッと拭き上げた。


「…拝見しましょう」


デイジーがやっと入り口から追いついて隣にしゃがみ込んだ。


「筆跡と文章だ。この紙に書いてもらいたい」


ジェイドはザラついたムラのある紙の方を丁寧に置いた。


「…時間はいかほどで?」


「早くてどれくらい掛かる」


顔色も戻って立ち上がったデイジーは、ジェイドが掛けている鞄の中を漁り始めた。


「…一時間弱ほど」


「十分だ」


デイジーが手のひらサイズの巾着を差し出した。


「これ代金です…前回の分も入ってるって言ってましたぁ…」


「…これはご丁寧に」


老人は両手を出して受け取って言った。それを横目に、ジェイドは鞄を閉じて扉の方へ動いた。


「あと」


デイジーは足先を立てて老人に近づき、ささやいた。


「‘なおった’って」


「…本当か?」


老人はデイジーの目を凝視した。


「もちろんっ!」


デイジーは曇りなく笑った。


「そうか‥‥‥お嬢さん、コレズは例の頼みをきくことにしたと伝えてくれ」


老人の声は色付いていた。


「?わかりました…?」


デイジーはとにかく返事をした。


「デイジー。行くぞ」


ジェイドは開けた扉を抑えている。


「はぁい、じゃあまた後でです!」


「頼んだ」


店のドアは単調に閉まった。



「あれ?そっちですか?」


ジェイドは来た方と逆に歩き始めている。


「屋台通りまでは歩きだぞ」


「いいんですか!じゃあ早く行きましょ!」


デイジーは彼の手首を掴んで走り出した。


「おっおい!」


ジェイドは前屈みになって足を速めた。



「あっ!ジェイドさん!あれにしましょう!」


デイジーの足取りは弾んでいる。


「腰が痛いとか言っていなかったか?」


「そんなの食欲で吹き飛んじゃいましたよ!」


デイジーが屋台まで軽々と走りだした。


「おばさん!串2本ください!」


「はいよ!」


店主は慣れた手つきで具材を火にかけた。


「2本も?」


「?ジェイドさんも食べるでしょ?」


「…ああ。店主」


ジェイドは硬貨を差し出した。


「ほんとに紳士だったんですね、ジェイドさんって」


「疑っていたのか」


「そりゃぁ私に対する態度からは想像つきませんよ!でもそういう態度なら、ちょっとは脈ありかもですね」


「!…なっ何の話だ」


ジェイドは分かりやすく振り向いた。


「いや無理ですって、誤魔化せてませんから。というか分かりやすすぎるんですよ!」


「はい!串焼き2本だよ!」


デイジーは一秒も待たせずに受け取った。


「ありがとう!また来るね!」


串を一本手渡されてジェイドは言った。


「ヴァイオレットには…」


「まだバレてないんじゃないですか?ヴィオさん意外とそっちの方は鈍感な感じがするし」


「それなら良かった」


安堵したジェイドは一番上の野菜に口を付けた。


「何で良いんですか!進展させようとは思わないんですか?」


デイジーは戸惑った目を覗き込んで訴えかけた。

思わずジェイドは目を逸らした。


「…彼女に‥酷いことをした過去がある。そんな男からの愛など迷惑だろ」


その声に意を通す力はない。

デイジーの頭の中にヴァイオレットの緩やかな声が流れた。


『私はまだ諦めきれないでいるの。だって彼がね、約束をしてくれたんだもの…』


「それは分かんないですよ、本当はもっと‥そういうのじゃなくて嬉しかったことを大事にしているかもしれないじゃないですか…!」


デイジーは必死に向き合った。ジェイドはその言葉を受け止めたのか否定しているのかはっきりしない表情で彼女をじっと見た。


「何ですか?」


デイジーは気まずく感じて返事を求めた。ジェイドは慎重に口を開いた。


「…串から汁が垂れてるぞ」


「…えっ!うわほんとだ!エプロン付けたまま来ればよかったぁ!」


デイジーは慌ててスカートを揺さぶった。


「目立ちますかこれ?」


「動いていれば分からない」


「そうですか?」


デイジーはいじけてシミを見つめている。


「冷めるぞ」


「そうだ!せっかく買ったのに」


へこんでいたのが嘘のように、すぐさまデイジーは元気を取り戻した。


「買ったのは俺だ」


「いっただっきまーす!」


デイジーは一口に入る分だけ一気にかぶりついた。


「んっ…んーまい!やっぱり串焼きに限る!」


片手をほっぺたにぎゅっと添えて幸せそうに食べている。


「ヴァイオレットもこういうものを好きだったな」


「そうなんですか?食べてるところ見たことないですけど」


「港にも屋台通りはあるだろう?」


「そりゃ一人で食べに行くのかもしれないですけど、ほんとに私は見たことないですよ?知り合って間もないっていうのもありますけどねー」


ジェイドは明らかに困惑している。


「?…長い付き合いではないのか?」


「え?違いますよ!知り合ってまだ一年も経ってないですよ?というかそもそも私たちが出会ったのはジェイドさんが私のお店に乗り込んできて困った!っていうのを相談したからですし!あなたの方がヴィオさんのことよく知ってるに決まってるじゃないですか!」


「いや…そういうわけでもないんだが。彼女と出会ったのは7歳の時で、その一年半後には突然交流が途絶えてしまったし、15から16歳で学園の中で言葉を交わすことはあっても特に親しくはなかった。それにそこから再会したのも君と同じタイミングだ。だからよく知っているとは言えない‥な」


ジェイドは自分の解説に一撃を食らって落ち込んだ。対してデイジーは純粋な面持ちで言った。


「はぁ、なんだかお互い誤解してましたねー…これで嫉妬の種も消えました?」


「嫉妬?」


「心当たりがないって言うんですかー?」


「当たりま‥‥ないとは言わないが」


ジェイドは反転した意見を咳払いで誤魔化した。


「認めちゃうんだ!」


「…冷めるぞ」


「また話をすり替えましたよね!」


デイジーは楽しそうに串焼きにパクついた。




時計屋の扉が開いた。


「やっぱりそっちの方が似合ってますよね」


手入れの完璧な革靴に上質なジャケットがジェイドの気品を際立たせている。


「平民服はおかしかったと?」


「いや服は問題ないんですけど…」


(雰囲気から綺麗すぎて違和感が…)


「何でもないです」


「そうか」


ジェイドは偽造した紙を胸ポケットにしまった。その所作でさえ眩しいとデイジーは目を細めた。


「そういえば、帰りの当てはあるのか?」


「もっちろん!ちゃーんとヴィオさんが馬車代をくれたので!」


デイジーは花の刺繍が入った小ぶりで可愛らしい巾着を突き出した。


「周到だな」


ジェイドは肩から降ろした鞄をデイジーに掛けた。


「気を付けてって伝えてください!」


デイジーはガッツポーズに力を込めた。


「了解した」


彼も口元に浮かんだ自然な笑みで応えた。


ジェイドが道沿いからいなくなったとき、時計屋のドアが再び開いた。

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