18. アイリス・パルドサム
「クランベリーのパイを一つ、もらえますか?」
女が足首がのぞく褪せた蒼いスカートを揺らし、上品に捲った袖から菓子を指した。
屋台の下で補充をしていた大柄な中年女性が顔を出した。
「おやヴァイオレットちゃん、連れと一緒なんて珍しいねぇ!」
「連れ?」
ヴァイオレットの背後から黒髪の女が小さく手を振った。
「おばさーん、パイは二つにしてくださいねぇ」
「…ネラ」
屋台通りの近くにあるアンティークなカフェは、この街の隠れた名店でありヴァイオレットの行き付けだ。
「相変わらずの猫被りね。あの天然キャラはどこから来るのかしら」
「あなたこそ、相変わらず私にだけ厳しいよね。デイジーちゃんにはそんな顔しないくせに」
「悪かったわね。前にも言ったけど、あなたみたいなタイプは苦手なの」
「あぁ似てるからでしょう、あなたに」
ヴァイオレットは指を掛けたティーカップを置き、黙ったままネラを見つめた。
「あーもーごめんって。これあげるから機嫌直して!」
ネラは二つの封筒を差し出した。ヴァイオレットは一つ目の封を解き、いくつか文書を取り出した。
「皇族サマのことだし流石に時間かかったけど。一応あなたに頼まれたところまでは間に合ったから、足りないならまたその都度ね」
「すごい…よく捕まらなかったわね」
文書を捲って軽く目を通しながら言った。
「素直に感謝できないのー?冗談じゃ済まないくらい危なかったんだから」
「はいはい、ありがと。埋め合わせは必ず」
「当たり前よ。今日のお代の分も含めてね」
ヴァイオレットはピンときていない様子だ。
「私と呑気にお茶してる暇ないんじゃないの?何をしでかすつもりかは知らないけど、事を起こすまでそんなに時間はかからないってのいうは分かるわ。まだ、材料は揃いきっていないようだし」
ヴァイオレットは緩んだ表情で笑った。
「そうね、ありがとう」
そして、鞄を開けて薄い二つの封筒を手に取った。
「でも、お代は置いて行くわ。借りは増やしたくないもの。あと、今度からはあなたの家で良いんじゃない?ここだと誰が見てるか分からないわ。だから連絡だけよこしてね」
ヴァイオレットは大きめの銅貨を6枚置いて店を出た。歩に合わせて揺れる陽光のような髪はいつもながらに優雅だった。
「カッコい‥‥‥あっ、無花果のタルトをあと、3つおねがいしまぁす」
市に行き交う人混みを進む中で、ヴァイオレットは‘記憶’に更けていた。
『似てるからでしょう?』
その声が頭の中でこだました。
4歳になったばかりのある平民の少女は、突然貴族になった。彼女は『アイリス・パルドサム』と名付けられた。
親と呼べる人がいなかったアイリスは人生の転機だと心躍らせた。だが、幼い少女の期待は早々に打ち砕かれることになる。
新しい両親はアイリスに子どもとしての関心など一切持ち合わせていなく、彼女を引き取ったのは‘駒’としてでしかなかった。伯爵は顔も見せず、夫人は実の娘と一緒になってアイリスを苛めた。そして使用人でさえ彼女を蔑んだ。唯一彼女に悪意を向けなかったのは病気がちで会うことのできなかった弟、ウィリアムだけだった。だから彼女の居場所はあの広い屋敷にたった一か所、閉じ込められたその冷たい部屋だけだった。
アイリスは朝から晩まで淑女教育漬けで、夜になると曇った窓ガラスの向こうの庭園に憧れていた。昼間に聞こえる笑い声からは、外を見なくても姉がどんな顔をしているかがすぐに分かった。そうして寂しい思いが胸を締め付けても、アイリスは笑顔でいることを諦めなかった。眩しいほど愛されている姉に自分を重ねて、夢見て。
7歳。屋敷の中に聞き覚えのない声が出入りし始めた。ジェイドという辺境伯令息が姉との婚約のために来ていた。時々聞こえるその声がアイリスの楽しみになった。そのうちどうしても会ってみたくなってしまった彼女は、失望の恐怖と背中合わせにとうとう窓から抜け出した。
緑だけだと思っていた庭園には色とりどりの花が咲いていた。アイリスは内側から体が軽くなるのを感じた。生まれて初めての爽やかな空気、記憶の中とは違う鮮やかな植物、その全てがアイリスの心を満たした。
夢中になっているうちに男の子の声が聞こえてきた。
『どこですかクオレ嬢ー?』
ジェイドはいつの間にかはぐれた姉をつまらなさそうに探している。興奮のままに生垣に隠れたアイリスは声をかけるのを躊躇っていた。
そうこうしている間にジェイドが彼女を見つけてしまった。
『あっ…』
彼と目が合う前に、アイリスは咄嗟に深々とお辞儀をした。
戸惑いはしたがジェイドもすぐに貴族らしい面持ちになった。
『僕はジェイド・アルファス、辺きょう伯の三男です。君もここへ呼ばれたのですか?』
『その…私はアイリスともうします』
控えめで遠慮がちな声には先程までの爛漫さはなかった。
『パルドサム伯爵家のご令じょうでしたか。お体が弱いと聞いていたのでこんなところでお会いできるとは思いませんでした』
『からだが弱い…?』
アイリスは全く身に覚えがなかった。しかしその意味は分かりきっていた。彼女を屋敷から出さない口実として両親がそう言っているとは 容易に想像ができた。
『違うのですか?』
『あっいえ、そうです…』
アイリスの肯定の言葉が妙に寂しくて、気まずい雰囲気になってしまった。
『…ではお部屋までエスコートしてもいいでしょうか』
ジェイドは子供にしては美しく右手を差し出して、そう言った。アイリスもマナーに従って自分の手を重ねようとしたが、先程の高揚感が心に浮かんで引っ込めた。そして振り絞るような声で言った。
『あっあのっ…!もう少し…もう少しだけここで私とお話ししていただけませんか…?』
アイリスは顔を真っ赤にしていた。完璧な振る舞いをしていた彼女の突然の言葉にジェイドは驚いた。心臓が一瞬高く跳ねた原因が仮面を被らないその表情だということに、彼はまだ気づいていなかった。
『…もちろんいいですよ』
ジェイドがぎこちなく返事をすると、アイリスはやっと笑顔を見せた。
アイリスの目に初めて映ったジェイドは、彼女の想像よりも清涼な目をしていた。悪意も嫌悪もない眼差しはアイリスにとって特別な景色になった。
それからは、ジェイドがパルドサム邸に訪れるたびにこっそり会うようになった。一緒にいられる時間は10分にも満たなかったが、それでも、2人の子どもたちにとっては心が休まる特別な時間だった。
3年が経ち、その日もまた1ヶ月ぶりの再会だった。しかしジェイドの表情はどこか暗かった。アルファス辺境伯家とパルドサム伯爵家は婚約を取り下げることになったのだ。もちろん、ジェイドは婚約するはずだったクオレのことを思っていたのではない。屋敷から出られないアイリスとは会えなくなることを憂いていたのだ。
『アルファス家の家紋を刺繍してみたの』
アイリスが広げた白いハンカチの隅には、大きく紋章が縫われていた。縁の独特な縫い方はいつかジェイドが何となしにあげたものとそっくりだった。
『すごいな…』
ジェイドは口が開いたまま、刺繍に見とれている。
『ありがとう!これはあなたへの誕生日プレゼントなの。少し早いけど、おめでとう』
アイリスは寂しい気持ちを隠しきれずに、満面の笑みでハンカチを手渡した。
『…ありがとう、ずっと大切にする』
ジェイドは耳まで赤くなって言った。
『君もパーティーに来て欲しかったな』
『ごめんなさい…私は…』
『あっいや、そんなつもりで言ったんじゃないんだ…!君は大事な友達だからその一緒にいれたらって』
『ふふっ分かってるわ、私も同じ気持ちだもの』
そしてしわ一つ付かないように丁寧に折りたたんで内ポケットにしまった。
『じゃあ僕からはお返しに』
アイリスの髪の上に淡い色が涼やかに調和する花冠を乗せた。その優しい華やかさが、たった10歳の彼女を妖精のように美しくした。
『花かんむり…紫色の花…?』
ジェイドは思わず目を逸らして言った。
『アイリスって言うんだ。君は誰より…いや、花束にしたら良かったかな』
『ううん!今までもらった何よりもうれしいわ…!ありがとう、ジェイド』
アイリスは涙が溢れ出してしまいそうに笑って言った。ジェイドの顔は熱でぼーっとしてしまっている。
『何だかお返しじゃなくなったな』
彼はなぜその言葉が出てきたのか、自分でも分からないでいた。
2人はお互いにさようならとは言えなかった。また会おうとも言えなかった。しかし、悲しいばかりではなかった。全てが元に戻るだけだと、割り切れはできなくても整理はついていた。それに今度は心の支えがあるから頑張れる、そんな2人の思いは互いの目を見ればはっきりと分かっていたのだ。
夕陽に染まった庭園の影にアイリスは立ち止まっていた。静寂になったその場所で馬車の音が消えるのを待っていた。本当に風の音だけになってしまって、アイリスは部屋の真下に走った。鍵を外しておいた窓を開け、物音がしないように靴を履こうとしたその時、廊下に通ずる扉が開いた。彼女の目にまず飛び込んできたのは赤黒い上質なドレスの裾だった。アイリスの顔から血の気が引いていく。
『お…お母様…』
伯爵夫人は三人のメイドを後ろに腰を抜かしたアイリスを睨みつけた。そして、鋭く、威圧的な声で言った。
『随分と楽しんできたようね。』
『あ…いえ…あの…』
アイリスは瞳孔が開き、口を震わせた。その状態でも目を逸らすことができなかった。
『言い付けを守らず勝手に外へ出て、挙げ句身の程も弁えずに
高圧的な視線がアイリスを突き刺した。
『もっ申しわけございません…!!』
アイリスは反射的に跪き、額を床につけた。
『ねぇ馬鹿な思い込みでつけ上がるんじゃないわよ?婚約の話がなくなったのは単に都合が合わなかったから。お前のような愚図に私の娘が劣るわけがないからねぇ。だけど、恩を仇で返したのは間違いないのよ。』
『申しわけございません…!!二度と…二度とこのようなことは…!ですからどうかお許しを…!』
アイリスは必死に声を張った。
『本当に頭の悪い子。裏切り者が慈悲を与えて貰おうだなんて、そんな話はないわ。』
伯爵夫人は冷淡にニヤついていた。
『どっどうかっどうかお許しを…!』
『連れて行きなさい。』
アイリスの訴えも虚しく、二人のメイドが彼女を取り押さえた。
『お許しを…!お母さま!お母―!――!――!』
捻ったハンカチを噛まされ両手を封じられて、アイリスは倉庫へと歩かされた。
『やっと憂さ晴らしができるわぁ。』
伯爵夫人は華美な扇子で狂気じみた笑いを隠した。
こうしてアイリスは、思いを押し殺してただ必死に冷静を保つ、笑うことのできない操り人形になってしまった。
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