19. 因縁

11歳。

アイリスに婚約者ができた。相手は第二皇子、リビウス ・ウィン・ラナンキュラス。帝国に2人しかいない直系皇子との婚約は全貴族令嬢の憧れだったが、彼女にしてみればプレッシャーの掛かる要素が増えるだけで全く喜べたことではなかった。

皇子の婚約者として完璧であるようにと、作法に加えて知識的な教養の授業も始まった。その厳しさは一層増し、翌日の授業でミスをしないように寝る間も惜しんで勉強をする日々が続いた。役に立てなければ簡単に捨てられる、毎日唱えられたその言葉で彼女自身を脅迫して。

そんな中、皇子と初めて対面する日が訪れた。彼はアイリスが予想していたよりも丁寧で優しい人だった。お手本のような返事しかできない彼女との会話を、まるで楽しんでいるかのように交わしてくれる人だった。そして何度も交流を重ねるうちに、アイリスは彼との時間を心の拠り所にするようになった。もちろん、彼女が笑顔になれるわけでも感情を開放できるわけでもない。ただ、彼と一緒にいるときは誰にも怒られることはないし、何にも圧力を感じることもないから、アイリスはその時が早く来ることを思うことで頑張れたのだ。だから義母と義姉の当たりが強くなり、『どんな困難なことがあっても、信じ続ければきっと望みは現実になる』という皇子の言葉がいつも心にあったから。

しかしそんなアイリスにもどうしても泣き出してしまいそうになる時はあった。孤独に耐えきれなくなる夜が。そんなときは服のどこかに隠した小さな紫花のネックレスを胸に当てて握り締めた。そうやって希望の火が消えていかないように守り続けた。



14歳。

アイリスはフォントマグナ皇立学園に首席で入学した。しかしそこにも称賛の声をかける者はいなかった。

学園は寄宿学校だったためにアイリスの行動制限は幾分か弱くなった。だがそれは逆に彼女の心を縛り付けた。伯爵邸では認められたことこそないが、義家族家族に言葉をかけられることはあった。それなのに長い間合わなくなってしまえば、それこそ本当に関心さえ持たれなくなってしまうのではないかと、不安がアイリスの心を支配したのだ。だからせめて失望させないように、パルドサム伯爵家の名に泥を塗らないように、アイリスはそれだけを胸に学業に励んだ。

しかし、彼女にかかるプレッシャーをさらに強めるものがあった。それが、カルサ・パルスリスの存在だった。清楚な短い茶髪に、黄金の瞳。誰にでも優しく、慈悲に満ち、太陽のように眩しく笑うその姿はあらゆる生徒を惹き付け、常に人気者だった。そんな彼女を、アイリスだけは好きなることはできなかった。

カルサは10歳まで孤児院で過ごしていたところを、パルスリス侯爵に迎え入れられて養女となった。その後神殿に聖女と認められ、社交界でも注目の的となったのは有名な話だ。アイリスがどんなに頑張っても手にできなかったものを簡単に手に入れているのが、どうにも消化できなかった。その一つが、アイリスの婚約者のリビウス第二皇子だった。アイリスとは婚約者として適切な距離を取っていたのに対し、カルサに会った時の彼の目は温かく、やさしく、輝いて、感情があった。アイリスが見たことのない目をしていた。その隣に相応しいように、心を殺して両親の言う通りに全てを完璧にこなせるよう努力してきたアイリスのその全てを、一瞬にして薙ぎ払われてしまった気分だった。アイリスはこのままでは数少ない全てを彼女に奪われてしまうと焦った。ただそれに対応する術など知っているはずもなかった。

そんな時、カルサがアイリスに話しかけた。彼女はアイリスが思うより落ち着いた人物だった。最初こそ警戒したものの、カルサが何度も‘友達’と呼ぶうちにいつの間にかアイリスもその言葉に馴染んでいった。

アイリスは彼女から、初めての楽しさをいくつも教わった。陽だまりのようなカルサが隣にいるときだけは、アイリスも自然に笑むことができるようになった。笑顔を取り戻してくれたカルサと過ごした日々は、彼女にとってそれまでで最高の時間になった。



そうして15歳になった。


『どうしてアイリスなんて名前‥‥』


アイリスは誰もいない中庭の花壇に手を伸ばしてしゃがみ込んでいた。


『似てるからでしょう?』


後ろから明るい声がした。


『カルサ…!』


カルサは足音が廊下に響かないように歩いて近づいた。


『可憐で可愛らしいくて、賢くて雄弁なところが花言葉通りじゃない?あとはそう、瞳のその紫色も、ほんとに良く似てるじゃない!』


カルサの曇りない目が朝日のようにアイリスの心を照らした。


『そんな風に言ってくれるのは、あなたぐらいね』


アイリスは少し寂しそうでほっとしたようだった。


『そんなこと言うのもアイリスしかいないわ。さ、早く行こう!授業に遅れちゃうわ!』


カルサはアイリスの手を軽々と引いて無邪気に笑った。その手の温かさがゆっくり伝染していくのを感じて、アイリスの顔はほころんだ。




学園の一大イベントであるフォントマグナ武芸大会が開幕した。大会では芸術部門・武術部門に分かれ、それぞれ部門で最も秀でた者を決める。その結果は世間・社交界での評価やその後の職への融通にも関わるため、参加生徒は皆力の限りを尽くして競った。


『カルサ…!これ、剣術大会の御守りよ』


アイリスは胡桃色と菜の花色で編まれた組み紐を差し出した。


『え…』


カルサの口からは瞬発的にその一文字しか出てこなかった。


『そんなに驚くことなの…?友達にはあげるものだって聞いたのだけど…』


アイリスが子犬のように沈むと、カルサは嬉しそうに笑った。


『ははっ違うそうじゃないわ。私も作ってきたの、コンクールの御守りに。普通には渡すと思って』


カルサはポケットから紫とクリームイエローの組み紐を取り出した。先端に小さいリボンが結ばれている。交換した御守りを見つめて、二人は喜びをかみしめた。

コンクールの優勝者は当然の如くアイリスだった。揺らぎのない完璧な演奏は拍手喝采を浴びた。みんなが自分を認めてくれているような気分になって、アイリスはその賞賛に包み込まれようとした。だが舞台から見つけたパルドサム伯爵夫妻と義姉の表情は、いつもと変わっていなかった。

それでも、その幕引きはカルサのおかげで悲しいものになることはなかった。アイリスは彼女が組紐を見せるように手を振っているのを見た。そして、らしくなく糸が切れたように笑った。忘れていた心を満たす温かい感覚がアイリスの目に光を灯した。




武芸大会が終わって間もなく、次の行事の準備が始まった。学期末に開催される舞踏会のために、生徒は3ケ月も前から準備を始める。この舞踏会の主催は学園ではなく、皇帝だ。そして、学園の生徒だけでなく成人した家族や後見人、場合いによっては支援者までもが招待される。つまり、この舞踏会は単なる学校行事ではなく、デビュー前であっても社交活動のできる唯一の機会であり、広く関係を築くための大舞台なのだ。

普通は実家でその準備を進めるものだが、アイリスの場合は違った。義姉であるクオレは他の生徒と同じように両親と準備をしているが、その邪魔になるからと帰ってくることを禁じられてしまったのだ。その代わり、‘娘’を大切にしているという体裁を守るために寮のアイリスの部屋には大量のサンプルが並べられていた。


『どちらが良いのかしら…?鮮やかなグリーンか、落ち着いたラベンダーのドレスか…』


『そうね…ここはやっぱり、ライトブルーに明るいゴールドが良いわよ』


カルサは机に並べたものの中から二つを取り上げた。


『えっ…でもこれって…』


『そう。第二皇子殿下の色よ。あなたいつもそうやって遠慮してるから。あの‘舞踏会’なのよ!今回くらい婚約者らしいことをしなきゃ!』


カルサはアイリスの両手をとって訴えた。


『でも…前に言ったときだってお父様は…』


それでもアイリスは自信が持てずにいた。


『おじ様にはもう私から話を通しておいたから今回は大丈夫、ね?』


カルサの声は柔らかく、彼女を安心させた。


『…ありがとう。本当にありがとうカルサ…!』


アイリスは頬は桃色に染め、目を潤ませた。


『大袈装なの、アイリスは』


カルサはアイリスの横に座り、何も言わずにそっと寄り添った。言葉にはできない信頼がそこにはあった。




肌寒い1月の最後に学園の舞踏会は開催される。


『3ヶ月もあっという間ね…』


開催が近づき、学園内はその話題で持ちきりだった。


『ドレスはもう合わせたのよね…?』


カルサの声にはいつものような張りがなかった。


『ええ、昨日フィッティングしたから明日にはお直しも終わると思うわ』


落ち着いた口調に反して声色がいつもより弾んでいるのに、アイリスは気付いてないようだった。


『そうなの…』


カルサは落ち着きなく手を握って、下を向いていた。


『どうしたの…?』


アイリスが顔を覗こうとしても、カルサは立ち止まるだけだった。


『話して、私たち友達でしょう…?』


『…親友よ。あのね、私のドレス、ダメになっちゃって…』


カルサは声を震わせた。


『そんな…侯爵様は何と仰ったの?』


『まだ私からは言えてないわ…だって今からなんて間に合わないもの…』


『カルサ、大丈夫よ。この前見せてくれたドレスを覚えてる?お披露目していないあのドレスなら、少し手を加えれば舞踏会の品格に合うものにできるわ。だからまずは侯爵様に相談してみましょう…?』


アイリスは爪の形が付いたカルサの手をそっと解いた。


『だけどあのドレスは薄い青なのよ。あなたのと被ってしまうわ…』


『装飾や形が違えば誰もそんなことを気に留めたりしないわ。大丈夫よ、だから早く侯爵邸に向かって』


アイリスは力が入らないように優しくカルサの手を引いて歩きだした。


『…ズルい。』


カルサの呟きは誰にも聞こえなかった。



それからすぐのことだった。

年に一度の特別な日のために、学園中が晴れやかな雰囲気に包まれていた。毎年の如くアイリスだけを除いて。だが、そんな当たり前に光が差していた。

完成した水色のドレスが無機質なアイリスの部屋を彩っていた。初めて自分の意見を取り入れられた、両親からの贈り物はアイリスの心を照らした。彼女が一途に望んでいた未来が少しずつ歩み寄ってきたのだ。だがそれは長くは続かなかった。

その日、自室の扉を開けたアイリスの目に飛び込んできたのは、引き裂かれて光を失ったドレスだった。思考が停止し息の仕方を思い出せなくなったアイリスは、トルソーから剥がれ落ちた布を握りしめた。力の入らない目は涙を堰き止められず、押し殺した泣き声がこの部屋の希望を掻き消した。


『ッ——!?』


そんな時に限ってすぐにメイドがやって来た。何かを口走って煩い足音が出ていった。

アイリスの目に布片に混じった光るものが入った。彼女は手のひらに置いて虚な目でじっと見た。指輪だった。いや違った、ただの指輪ではない、内側に文字がびっしり彫られた銀の指輪だった。途端に血の気が引いた。


カッ———


そのとき、不幸にも指輪の持ち主が現れた。


『アイリス——!』


聞き慣れたその声はアイリスの傷心に火をつけた。


『カルサ……?』


アイリスの頭の中にたわいもなかった記憶がたたみかけた。

この部屋の鍵を彼女も持っていることいつの間にかリビウス皇子と恋人のように笑うようになっていたこと朝から何度も避けられたこと最後にすれ違ったのは彼女だったことそして、あの日彼女が『ズルい。』と言ったこと。


『…そんなはずない…そんなはずは…』


アイリスは疑念を振り払おうとした。


『泣いているの?』


背を向けて座り込む彼女の肩にカルサが手を置いた。その手はいつもと違って冷たかった。

その一瞬がタガを外した。アイリスは振り返り錯乱状態のまま肩を掴んで止められない言葉を吐いた。


『返して…返してよ…返して…!返して!——』 


『っ痛い』


『裏切りって…!もう何なの!——』


カルサの声はもはや聞こえていなかった。


『やめて!どうしてそんなことを言うの?私は親友だって信じてるのに…お願いだからもうやめて…!』


カルサはアイリスの手を下ろして涙を流した。いつの間にか集まったメイドたちが2人を引き離した。騒ぎを聞いて様子を見に廊下に出た生徒たちの間を通り、カルサを客室へ送って行った。その後ろ姿を追うにも立つことのできないアイリスは、また孤独な部屋に取り残された。




『ほらいらっしゃったわ…』


『カルサ様を犯人扱いしたそうじゃないですか…それも激しく責め立てて』


『今度はパルスリス令嬢が愛読されていた本を破り捨てたとか』


『本当ですか、あんなに仲良くしてらしたのに…恐ろしいこと』


『パルドサム家の者とは、とても思えませんね』


結局、ドレスを裂いた犯人は使用人の1人だった。アイリスはカルサにしたことを悔いて何度も謝ろうとしたが、避けられるばかりだった。

しかしその話は学園中に広まってしまい、彼女は肩をすくめてその場を去ることしかできなかった。


アイリスは思わず図書館に逃げ込んだ。王都最高の貯蔵数を誇る大図書館ではあるが、休日以外に利用者が訪れることは多くない。勤勉なアイリスにとって唯一落ち着くことができる空間だった。

中央の広い階段から足音が降りてきた。分厚い本を片手に降くだる少女は蜂蜜色の目が印象的だった。


『カルサ…!』


アイリスに気付くと、彼女はまた上階へ戻ろうと急いだ。


『待って…!』

 

咄嗟にアイリスは追いかけた。淑女のマナーも忘れて階段を駆け上がり、カルサの左手に届いた。


『本当にごめんなさい…!あの時私…気が動転していて、あなたに八当たりして…許して欲しいなんておこがましいのは分かっているわ。だけど——』


『離して』


カルサは前を向いたまま振り向こうとはしなかった。


『本当にごめんなさ—』


『離してって…言ってるのよ!—』


カルサはアイリスの手を無理やりに振り解こうとした。しかし、アイリスは話をするチャンスを逃すわけにはいかなかった。学園での評判はすぐに貴族社会に直結している。悪女とまで呼ばれてしまったら伯爵邸でどんな仕打ちを受けるか、彼女は知っていたのだ。しかし心の底からの一番の理由は、友達を失いたくないそんな焦りだった。


『お願い…!もう一度だけ…!』


アイリスは手を離せなかった。

そのせいでカルサは手を解くことを諦めた。そして逆に引っ張って耳元でこう囁いた。


『本当は、私の敵になったから誰にも愛されないって焦ってるんでしょ?』


『え…?』


そのとき、力の衝突で足を踏み外したカルサが宙に投げ出された。


『カルサ…!』


瞬発的な擦れた声は叫びにもならなかった。アイリスが必死に伸ばした手は彼女には届かず、落ちてゆくのをただ見ることしかできなかった。

アイリスは信じがたいものを見たように目を強張らせていた。


ドンッ———


『怪我はありませんか?』


カルサは冷たい床ではなく、リビウス第二皇子の腕の中にいた。間一髪、難を逃れた。


『で…殿下』


リビウスは驚く彼女の顔を見て、温かい笑顔でまた質問した。


『どこか痛むところは?』


『…大丈夫…です』


カルサは声を震わせた。そして涙に満ちた目に力を込めてアイリスを見上げた。

そんな彼女への温和な態度とは一変し、皇子は感情のこもっていない口調をアイリスに向けた。


『あなたが突き落としたのですか、アイリス』


『いっいえ私はただ…』


ほっとしたのも束の間に、混乱がアイリスを襲った。


『あの様子では全て真実だったということだろう…』


『私は最後まで信じておりましたのに。…』


『カルサ様‥お可哀想なこと…』


『さすが、だ。…』


静かだったはずの図書館が不穏にざわめいている。彼らの視線は冷たく、捕り囲むようにアイリスに突き刺さった。


『違うのです…カルサお願いよ私がわざと突き飛ばしたなんて思っていないでしょう…?』


『殿下…』


カルサは目を合わせることさえしなかった。そしてリビウスに身を寄せ、顔を伏せた。


『令嬢…アイリス、この件は後程改めて聞かせてもらいます。今日はもう自室に戻ってください。』


リビウスはカルサを抱えてその場を去った。手を伸ばしてもきっと届かない気がして、アイリスは後を追いかけることもできなかった。

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