8. 蹄の響き

その時地面が振動した。どうやら残りの賊が帰ってきたらしい。


声の代わりに床を鳴らす雑音が大きくなっていく。

突然、足音が止まった。静まり返った小屋の中に得体のしれない緊張感が走った。


「明朝絶つ。それが、我らの這い上がる時だ」


唸るような低い声が染み渡った。仲間達は終始無言で、微塵も動かない。殺気ではない、強い執念のような重い何かが空間を支配する。その棘は壁越しにまで伝わり、マルベリーを蒼白にした。ジェイドは扉の向こうを睨み、彼女の傍に付いた。それが普通の反応だ。しかしヴァイオレットだけは強張った顔をしていない。それどころか口角を上げ、まるで笑っているようだ。いつもと違うのは一つ、その目つきから香るのが自信からくる余裕ではなく、挑戦的な意思であることだ。


「今のうちに逃げましょう」


「ああ」


「…逃げる?…へ‥ヘナはどうなるのですか?置いていくなんて私には‥‥」


マルベリーはしがみつくようにヴァイオレットの袖を引いた。


「どの位置にいるかも分からないこの状況ではヘナさんを救出できません。今はあなたを逃がすことを優先します」


ヴァイオレットは膝をついて彼女の両手を取った。


「ですが…!私が逃げたと知れたらあの子に何をされるか…」


「大丈夫です。あなたがいなければ人質は彼女だけ。彼らだってそう易々と害したりしませんよ」


マルベリーは無意識に手を握り締めていた。


「…わかりました」


彼女は納得いかないようだった。

足元のふらつくマルベリーをジェイドが抱え、外に出た。彼女をジェイドの馬に乗せ、行きよりも速く森を駆け抜けていった。

ランタンの明かりが照らす一瞬の視界に違和感を覚えた。


「‥‥‥あの‥どこへ向かっているのですか?」


夫人はジェイドに寄り掛かりながら不安げに言った。


「港です」


「港‥‥!いけません。港は海賊が一番よく現れた場所です。そこに逃げ場はありません!」


「しかし彼女が…」


「大丈夫ですよ、港へ行くのは私たちだけです。あなたは私が信頼する友人の家に送り届けます」


「ですからどうして港へ向かうのですか」


「彼らは今から港を襲撃するつもりでしょうが、それを止められるのは私たちしかいないでしょう」


「事、というのはそれか。しかしそんなことのためにスターチス夫人を盾に使うとは思えないが」


「盾じゃないわ。身代わりよ」


「何が違う」


「夫人に一連の襲撃事件の黒幕という汚名を被せるつもりなのよ。…私の勝手な推測ですが、真の目的はスターチス伯爵家の醜聞を偽装すること。あなたが生きて手元にあるのに、ヘナさんの首を切らなかったのは、万が一にも夫人が自害したら困るからでしょうし」


「どうしてそんな…」


「何のためかは分かりませんが、否が応でも彼らを止めなければならないのは、確かですね」


「…しかし逆に言えば、港を襲わせる前に止めることができればそんなことにはならないんだろう?」


「ええもちろん。ですから安心してください、スターチス夫人」


ヴァイオレットは振り返らなかった。柔らかな声は風に飛ばされ、夫人の心に届けられた。ジェイドは夫人の背中が大きくなるのを感じた。


「話を戻して悪いがなぜ貿易船を襲うと分かるんだ。印象操作なら他にもっと効率の良い方法があるだろうに」


「まあ…それは追々ね。今は私を信じて」


「ああ、君がそう言うなら」


森での賊の態度によれば、彼らが港に向けて出発するのにそう時間はかからない。


(囲むには時間がない…)


ヴァイオレットは手綱を握り直し、森の先を見据えた。

一層速くなった馬の上で夫人は祈るように両手を握り締めていた。



港は静寂していた。貿易船の船首に忘れられていたランタンの火が、水平線からはみ出た陽光に吹き消された。


「降りられますか?」


息を切らすマルベリーにヴァイオレットが手を伸ばした。しかしマルベリーはその手に体を預けようとして鐙に足をかけ損ね、宙に放り出されてしまった。ヴァイオレットは咄嗟にその手を引いて彼女を抱え、ゆっくりと地上に降ろした。

ジェイドは彼女の横で中途半端に出た手を引っ込めて、袖を直すふりをした。


「商人は俺が避難させよう」


「待ってジェイドそんな時間はないわ。それより早く夫人を連れて行って」


マルベリーは呼吸に集中してヴァイオレットの支えに身を預けている。


「いや、君が一緒に行くべきだ。俺は賊を制圧するために残らなければならないんだろう」


「今すぐ行けば戻ってきても間に合うわ。それに私は別に確かめたいことがあるのよ」


「何をするつもりなんだ?」


ヴァイオレットは予想外のことを言われたとでも言うようにジェイドの顔をじっと見た。彼ははいつもと変わらない真剣な表情だ。そしてなぜ彼女がそんな顔をするのかと戸惑ってもいた。

ヴァイオレットはくすりと笑った。


がついたら教えてあげるわ」


「それでは危険か判断できないだろう」


「あら、私は騎士じゃないのよ副団長さん。あなたに確認してもらう必要はないんじゃなくて?」


ヴァイオレットは目に見えない扇を突きつけて揶揄った。


「それは…間違ってはないが。タイミングが悪くなる可能性もあるだろう…」


「信じてくれるんじゃなかったかしら」


剣を携えた大柄な男が覇気なく困った顔をしているのが面白かったのか、ヴァイオレットはまた笑った。


「あの、時間がないのでは…」


マルベリーが声をかけた。すっかり息も整って“伯爵夫人”を装っている。


「えぇそうですね。また前に乗っていただけますか?」


マルベリーがエスコートを受けた。


「ほらジェイドも」


ジェイドは促されるまま軽々しく馬に乗った。

今度はジェイドがマルベリーを鞍に引き上げて、手綱をまわした。


「気をつけてくれ」


「もちろんよ」


ヴァイオレットは迷う隙もなく答えた。

彼女は駆け出す馬を見送って、出番を待つ黒鹿毛に跨った。

港は再び静まり返った。



ヴァイオレットが港に戻ったときには、貿易船を背に立つ男の姿があった。その手には本部の物置で見つけた剣が見事に馴染んでいた。


「さすが、早いわね」


「なぜここにいるんだ?賊の相手は俺だけのはずだが」


ジェイドは持ち場を2歩離れた。


「そうね。でも私もここに戻らないなんて言っていないでしょう?」


「確かにそうだが…」


「安心して、ちゃんと隠れているから」


「それなら良いんだが」


ジェイドは冷静な表情を取り戻した。


「気になって戻ってきたの。ジェイドって今日は仕事はないの?今更だけど」


「あるにはあるが…こちらが片付いてからで問題ない」


「本当に?ここから皇城までは遠いわよ?」


「今日の仕事は城ではないんだ。それにこの件にはとことん付き合うと決めたからな」


「あら、副団長様がそう言ってくれるなんて嬉しい。じゃあ、一つ注文しても良いかしら?彼らを一人も殺さないで。もちろん、致命傷もダメよ」


その言葉に重く鋭いは感情は乗っていない。

ジェイドは剣の柄頭を握って彼にしては温かい声で言った。


「君は優しいな」


「そう思う?」


ヴァイオレットは笑った。   

それから30秒も経たないうちに港の空気が冴え切った。  


「‥‥‥時間だな」


波の音とは違う蹄が地面を叩く微かな振動が近づいてくる。


「じゃあね。健闘を祈っているわ」


ヴァイオレットは足音の先を見つめてそう言った。ジェイドも彼女の影を見届けた後、船の前に無造作に並べられた荷物の中に身を隠した。


ダダダダダダッ——


海賊達がリーダーを先頭に駆けてきた。蹄の音が大きくなっていく。しかし人々が目を覚ますにはその音は速く小さかった。

賊が遂に港へ入った。その時ジェイドにははっきり全員の姿が見えていた。彼らは貿易船の目の前で次々と馬を降り、船に近づいて来た。全員が馬から十分に距離を取った時、彼らの前に、ジェイドが姿を現した。

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