5. 調査の雲行き

カランカラン————


太陽の昇る随分前、まだ人通りも確実に少ないこの時間に一人の客がやってきた。客人は非常にゆっくりとした足取りで一歩ずつ店の中へ入っていく。


「こんにちは」


客人の目に、店主らしい女性が座っているのが見えた。そして彼女は穏やかで落ち着いた声で続ける。


「朝早いですね。お客さんですか?」


「あぁええ。少し相談に…」


「こちらへどうぞ?」


ヴァイオレットはマントをかぶったままの客人に何の詮索もせず、紅茶を出した。それを受け取ろうともしないの見て彼女は早速本題に入った。


「相談というのは?」


「友人に勧められたんだ。ここなら信用できる、安心して私の頼みを聞いてくれるとね。」


「頼みですか」


「私では…どうにかしてもらいたいと思ってね。突然変わってしまった彼女を出会った頃のように戻してほしい、なんていう自分本位な話なんだが」


丁寧な話し方をする客人の声は弱々しく、ヴァイオレットには薄暗く照らされたその外套のシルエットが霞んで見えた。


「変わってしまった?」


「ああ、以前はよく笑う楽しい人だった。だけど、三ヶ月ほど前にこの町に来たときから様子がおかしくなった。夜遅くまで外出するようになり、理由を聞いても適当な嘘でごまかされてしまって…次第に屋敷の中ですら会話をすることも会うこともなくなってしまったよ」


「浮気を疑っていますか?」


「そうだね、だけど私はそんなことどうでもいいんだ。今の彼女は苦しそうで…その原因が私の方なら別れを切り出してもいい。彼女がまた笑うようになれればそれで」


客人の声が温かくなった。


「…なるほど。だからその決意をする前に、確証が欲しいというわけですね」


「その通り。恥ずかしながら私では調べられないからね」


「分かりました。ではその頼み、引き受けさせてもらいます」


ヴァイオレットははっきりとした声でやさしくそう言うと、客人が最後まで一口も手をつけなかった紅茶を下げた。


ヴァイオレットが戻って来ると、客人はフードを取っていた。そして淹れ立てのカモミールティーのような温かい眼差しを彼女に向け、


「……ありがとう」


と一言だけ残して店を出ていった。


カランカラン———




「浮気か‥‥」


傍から見れば客人がかわいそうだと擁護するような話だが、ヴァイオレットにはそう判断することはできない。それは誤った評価で塗り潰されることがどんなに苦痛であるかを一番知っているからだ。彼女の過去がその最も分かりやすい例だろう。

ともかく、証拠をそろえるための時間、つまりスターチス伯爵がこの町を離れるまで、あと二日しかない。ヴァイオレットは今日は寝る暇もないことを予感し、日が昇るまでの間しばし休息を取ることにした。





「よし」


ヴァイオレットは長く美しい髪を束ねてマントを身に羽織り、準備を整えた。


カランカラン———


店の外はいつもと特に変わったことは無く平穏だ。昼になればもっと賑わいが増すだろう。


「基本は聞き込みよね」


ヴァイオレットは人通りの多い広場や港、市場なんかを順に回っていく。しかし、そのほとんどで有力な情報は得られなかった。

日も傾く中、ヴァイオレットが次に声をかけたのは猫を看板にしている屋台だ。


「すみません、伯爵夫妻のことで聞きたいことがあるんですけど…」


「領主様かい?」


屋台の店主は野菜を整理していた手を止めて話を聞いた。


「ええ、実は私、伯爵の執事さんに依頼されて最近出回っている不穏な噂について調査していて。他の——」


「じゃあやっぱりあの噂は嘘っぱちだったんだね!」


店主のおばさんが身を乗り出して聞いた。その揺れで白猫は飛び退き、台から飛んだリンゴをヴァイオレットがキャッチした。


「はい!」


「そうだよねぇあの方たちがそんなわけないわねえ?みんなして心配したけどホント良かったよ!」


「ですね!私も安心しました!あっでも…」


ヴァイオレットは両手に包まれたリンゴを見つめて言う。


「何だい?どうしたんだ?」


「その変な噂を流した人がまた何か企んでるらしくて…だから他の噂とか、お二人を見かけたとか、知っていることがあれば教えてほしいんです」


「そうねぇ…でもねえ、見かけたって言っても2日前に視察で来られたときぐらいだし、他の噂もねえ思い当たるものが…そうだ、酒場へ行ってみなよ!今朝来た常連が作戦会議をするって息巻いてたからねえ、あたしよりは知ってると思うよ!」 


「分かりました!行ってみます!あっこれお返ししますね」


ヴァイオレットは思い出したようにリンゴを差し出した。


「あぁいいよ持ってきな!その代わり調査をしっかり頼んだよ!」


「もちろんです!行ってきます」


ヴァイオレットは活力溢れるまま、手を振って行った。




酒場に着いたころにはすでに賑わっていた。夜も始まったばかりだというのに、ほとんどの席が埋まり酒のにおいが充満している。若い娘が1人で入るには少々気が引けるが、情報収集の場としてはもってこいだ。

ヴァイオレットは入口から少し離れたところに一人分空いたテーブルを見つけた。四人の男達が何やら楽しそうにビールを飲んでいる。ヴァイオレットは迷わず彼らのもとへ行った。


「すみません、スターチス夫人の事で聞きたいことが———」


「——おーなんだぁ姉ちゃん一緒に飲むかぁ?」


「ねーちゃんキレーな顔してんなぁ、結婚してくれよー」


「なぁに言ってんすか!あんたみたいなのとはムリに決まってるっすよぉ!」


「どーゆー意味だ?コラ」


(完全に酔いがまわってるわね。気は進まないけど私も合わせて——)


ヴァイオレットがそう考えた矢先、唐突に酔っぱらいの一人が彼女の肩を組んだ。


「ねーちゃんこのあと予定ある?俺んちすぐ近くなんだよ、よかったらさぁ——」


ダンッ


テーブルに木製のフォークが刺さった。


「そろそろ大人しく私の話を聞いてくれませんか?」


フードを取ったヴァイオレットは鉄壁の笑顔で言った。あまりの迫力に男たちは固まってしまった。


「いっいや、すみませんっでしたっ」


男は体格に似合わないか細い声を出した。


「まったく…それでさっきの話なんだけど、ここ三ヶ月の間にこの町でスターチス夫人を見かけなかったかしら?もしくは変な噂を聞いたとか」


ヴァイオレットはすぐさま奥へ詰めた男達の隣に座り、砕けた感じで訊ねた。


「うーん、視察んとき以外はべつに見てねーよな。うわさも近々離婚するかもしれねえってことぐらいしか…」


「やっぱりそうよねえ」


「でも、三か月前っていったらちょうどが出始めたころっすよねぇ?」


「海賊って?」


「たまに港に現れる気味の悪い連中だよ。まあ今のところ、船から使えねぇ地図とか手紙とかが盗まれたぐらいだから特に問題にはなってねえけど。でもまあほんとに気味わりぃから俺らはって呼んでんだよ」


「もしかしてその手紙が何か重要なものだったとか?」


「いぃや?大事な手紙つったら領主さまにもらったのぐらいだけど、その内容も別に見られてまずいもんじゃなかったぞ?えーたしか俺たち港の人間で、でっかい花束を送ったときのお礼の手紙だったかなぁ」


「じゃあどうして…」


海賊と呼ばれるその集団と夫人の変化には何の関係も見えなかったが、同じ三カ月前ということにどうにも引っかかってならなかった。


「他に知っていることは?」


「つってもなあー他にはこの前の視察んときに夫人に花をプレゼントしてたとかそんなんだし…」


「俺もねーよ」


「同じく」


「女の子の話ならいくらでもあるんっすけどねぇ!」


「惨敗した話しか聞いたことねーよ」


「うっせーっすよ」


若めの男がいじけて丸まってしまった。

ヴァイオレットはしばらく考え込んだ後、鞄から硬貨を取り出してテーブルの真ん中に置いた。


「色々教えてくれてありがとう。私がここに来た事を誰にも言わないなら、今度来た時に好きなだけ奢ってあげるわ」


「本当か嬢ちゃん!!安心しな、俺らは約束だけは破らねぇからよ!だぁら嬢ちゃんも絶対来いよ!」


「待ってるっすぅ」


「ええ、私も約束は守るわ。それじゃ、お先に失礼するわね」


同席の四人は、意外にも扉が閉まるまでヴァイオレットに酒を掲げていた。

外の人通りは少なくなっていた。扉の内側で騒ぐ声が静かに響いている。


「海賊か…思ったより面倒なことになりそうね…」


ヴァイオレットは港へ歩き出した。本当な調を続行しなければならないのに、その足が止まることはない。何かある、彼女の直感がそう言っているのだ。


「そろそろ出てきたらどう?」


ヴァイオレットは突然に立ち止まって言った。

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