3. 冷雨の記憶
皇家の威厳ある黄金の髪に冷たいライトブルーの瞳。ジェイドはやっとその相手が帝国の第二皇子、リビウス・ウィン・ラナンキュラスであることに気づいた。皇子の後ろには聖女様が不安そうに隠れていた。そして二人の視線の先には動揺し僅かに表情を崩したアイリスがいた。彼女はこの状況を理解できないでいるようだった。そして褪せた紫の瞳を不規則に揺らしながら言った。
『…どういうことでしょうか』
『本来ならば舞踏会が終わり次第速やかに済ませる予定だったのだが…やむを得ない。』
皇子はアイリスを見下ろしながら淡々と続けた。
『アイリス嬢、あなたは私の婚約者という立場を横暴に利用してきた挙句、聖女カルサの命まで脅かした。聖女暗殺は、重罪だ。本来ならば、永久投獄または死罪に相当する。私の婚約者だからと今まで散々目を瞑ってきたが、この国のためにもこれ以上静観することはできない。』
アイリスは皇子の言い分を理解できない様子だった。あまりに突然の事に耐えられず、開いたまま閉じない小さな口からは弁明の言葉も出なかった。
皇子がその凛々しい表情を崩すことは無かったが、その眼は完全にアイリスを蔑んでいた。
『しかし、伯爵家のこれまでの忠義と聖女の説得を踏まえて減刑とし、アイリス・パルドサム、あなたを地位剥奪の刑に処する。その後の処遇は伯爵に任せよう。』
皇子は怒りを秘めた真剣な表情のまま、はっきりとした声で言った。そんな彼を見上げて、アイリスは震える声を精一杯振り絞って言った。
『まっ…お待ち下さい。暗殺など一体何のお話ですか。全く身に覚えがありません私は…そのような事を、断じてやっておりません——』
アイリスはリビウス第二皇子の婚約者として相応しいようにと、幼い頃から、他の令嬢の比にならない量の勉学や稽古に勤しんでいた。大きなパーティー以外での外出が全く許されなかったアイリスに、皇子の言う横暴や暗殺など、出来るはずもなかった。しかし、ここ数ヶ月間で急激に広まったスキャンダルが彼女の犯してもいない罪を肯定した。そして当然の如く、体を震わす彼女に手を差し伸べようとする者は誰一人としていなかった。そしてそれは、ジェイドも同じだった。
『衛兵。』
皇子の合図で衛兵たちがゾロゾロとアイリスを取り囲み、腕を強引に後ろへまわした。綺麗に飾られていたはずのクリーミーブロンドが乱れていった。
『待って下さいお願いっ聞いてください——きっと何かの間違いです———』
必死に飛ばす彼女の言葉など誰も聞き入れようとはしなかった。アイリスに弁明の余地はなく、衛兵達に強引に連れ出されようとしていた。
『身の程知らずが…』
『———当然の結果だな』
『沈黙の悪女も、いつか痺れを切らすとは思っていましたけど…』
『——いくらあのパルドサムでも流石にアレは手放すしかないでしょうな!』
『——減刑だなんて…寛大すぎですわよねぇ…』
周りから飛んでくる非難や嘲笑がさらにアイリスの首を絞めた。彼女もついさっきまで自分たちと同じように並んでいたというのに、その光景に異議を唱える者はいるはずもなかった。
『誰か……』
アイリスは絶望を堪えて瞳を濡らし、まるで最期の言葉かのように掠れる声でそう言った。一瞬、ジェイドは彼女と目が合ったような気がした。彼はアイリスが必死に助けを求めていると感じた。しかしそれでもジェイドは動くことができなかった。ただ理不尽に連れていかれるアイリスを目で追うことしかできなかった。
それを最後に、ジェイドがアイリスの姿を見ることは無かった。
アイリスを助け出すチャンスはいくらでもあったのに、声を出すことさえ出来なかったと、自分にはひとかけの勇気もなかったと、ジェイドは深く後悔した。
ジェイドにとって、アイリスは初めての友人だった。交流の少なくなってしまってもそれは変わらなかった。しかし騎士団に所属するジェイドは簡単には皇家に逆うことはできない。それに、今の本当の彼女を知っていると言えない彼にはとても答えが出せなかった。それらは全て言い訳でしかないことを彼は分かっていた。分かっていながらそうやって自身を正当化し続けた。だから、アイリスが遠くへ行ってしまう前にもう一度会ってきちんと話そうと、ジェイドはまだそんな風に考えていた。その甘い考えが苦い結果に繋がるとも知らずに。
翌日、ジェイドはアイリスがいる伯爵邸へ向かった。しかし、到着する前に門番の話し声が聞こえてきた。
『見たよな?』
『何をだよ』
『ほら、昨日のあの怪しい荷車だよ』
『ああ、あれか。庭の手入れの道具が入ってるとか言ってたな。それがどうしたんだ?』
『バッカ、普通あんな時間に運んだりしないだろ?どう考えても怪しいから俺、中を少しだけ覗いたんだ…そしたらそこに…ドレスの女が横たわってたんだよ。しかも金髪の…!』
『———っ!…おいおい嘘だろ…この邸宅内で金髪の貴族って言ったら、アイリスお嬢様しかいないんじゃ…』
『そうなんだよ!ここにきて間もないつっても、金色の髪を見間違えるわけがないだろ?だからおそらくお嬢様は———』
『バカッやめろ!それに…そんなことあるわけないだろ。いいかげんにしとけよ!』
『…おう』
『それで?その馬車どこへ行ったんだよ』
『晦冥の森さ』
『…だったらやっぱりお前の見間違いだよ。義理堅く寛容なあの名門パルドサムだぞ。しかも伯爵や夫人はお嬢様に、最高の教育を受けさせていたというじゃないか。いくら昨日の騒ぎがあったとはいえ、そんな人たちがお嬢様を森へ送るなんて…想像できないだろ』
『そうだよな…!俺昨日は徹夜だったから寝ぼけてたのかも』
『やっぱりそうじゃないか、ったくそんなんだからいつまで経っても昇進できないんだよ』
『お前に言われたくはないさ、この前だって————』
その後の会話なんてジェイドの耳には入ってこなかった。突然の衝撃に彼の頭の中は真っ白になって、その事実を拒絶した。ジェイドはやっと自分の考えが浅はかだったと気付いた。地面に落ち始めた雨粒の跡を見つめたまま、その場に座り込んだでしまった。雨音が激しくなるにつれ、後悔と罪悪感が倍にも増して彼を襲った。もう明日の予定など頭の片隅にもなかった。
ジェイドはアイリスの笑顔がもう二度と見られないことが一番悲しくて堪らなかった。だが、不本意にも彼女のいない日常に、少しずつ慣れていった。そして慣れれば慣れるほど、後悔だけが膨らんでいった。
「ずっと…後悔していたんだ。あの時、俺が迷わず行動していたらと」
ジェイドの両手は型が付くほど握り締められている。
「ねぇジェイド。あなたは知らないでしょうけど、私は自分が受けたことは忘れられない性格なの。だから、あなたが初めての友だちになってくれたことも初めて心から笑わせてくれたことも、全部覚えてる。あなたが後悔ばかり並べていたら、私の立場がないじゃない?」
ヴァイオレットが晴れやかな声でそういうと、ジェイドはぎこちなく頭を上げ、ようやく彼女と目を合わせた。
「アイリス‥‥」
7年間背負い続けていたものから解放され、ジェイドは初めて出会ったあの頃のように軽やかに微笑んで見せた。その目には堪えきれなかった涙が浮かんでいる。そんな彼を見てヴァイオレットも少し安心できた。
安堵と充足感からか、しばらく2人は動けなくなってしまった。
人々の声や音楽だけが、うっすらと二人の沈黙を埋めた。ジェイドはその不思議な時間に数年ぶりの心地よさを覚え、できるならここから指一本も動きたくないと思った。しかし、同時に彼には聞きたいこともたくさんあった。そして考えに考えて、やっと口を開いた。
「…君は今この町に住んでいるのか?」
「随分考えてその質問なの?ふふっおかしい」
「しっ仕方がないだろう、今の君のことは何も知らないんだ…」
「ふふっごめんなさい。そうよ、私は今この町に住んでいるの。それで小さなお店もやってるわ。結構充実しているのよ?」
「そうか……よかった…それなら良かったよ、アイリス」
ジェイドはほっと胸を撫で下ろした。
「そういえば伝えそびれていたけれど、私の名前はもう『アイリス』ではないの。今の私は‘ヴァイオレット’。そう呼んでくれるかしら」
「…ヴァイオレット…よく似合うな」
彼は密やかに笑ってそう言った。その笑みには想いと寂しさが秘めている。
「ええ。よっぽど気に入っているの」
ヴァイオレットは誇らしげに星を見上げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます