使命

 ───バルコニーにいたのは一人の少年、ノーラであった。


「……ぁ」


 美しい。

 エステリーナがまず最初に思ったものはそれであった。

 いつの間にかバルコニーに置かれていたグランドピアノから奏でられる音楽も、それを引くノーラも、その何もかもが美しかった。

 黒い羽が舞い、ノーラの背中には

 それが今の非現実性を、幻想の雰囲気を醸しだしていた。


「ノーラ、様」


 これが本当に現実なのか。

 幻ではないか、自分は夢を見ていて───今でも、あの暗い世界に一人なのかと思ってしまったエステリーナはふらふらと彼に歩み寄って、そのまま彼に触れる。


「暖かい……」


 エステリーナが触れたノーラは温かく、優しかった。

 確かにこれは現実だった。


「……ぁあ」


 ただ空で満月が輝くだけの夜に響く美しい演奏。

 そして、その演奏を今、自分だけが見ている、独り占めしているという事実はエステリーナにえも知れぬ高揚感と背徳感を与えた。


「ノーラ様」

  

 自然とエステリーナは演奏を奏でる彼の身体にそっと自分の体の体重を乗せ、彼の頬を撫でる。

 彼女の指先がノーラの唇に触れると共に、ちょうど彼が奏でていた演奏も終わる。


「幻想即興曲。僕の好きな曲だ」


 演奏が終わり、余韻が尽きると共にゆっくりとノーラは声を上げる。

 そして、ノーラはそのまま視線をエステリーナの方の向け、そっと彼女の頬に己の手を添える。


「一時でも幻想を、幸せで暖かな誰もが幸せになれるような美しい世界があるように思えるから」


 貴方こそが幻想だ。

 頬を撫でられ、恍惚とした表情を浮かべるノーラは自然と思う。


「でも、幻想とはあくまで現実には存在しないことだ。この世界はどこまでも暗く、冷たい」


 彼の手が離れると共にエステリーナから温かさが消える。


「世界は本来あるべき王者のものへと返るべきだ」


 月光を浴び、黒色の翼を広げるノーラ。


「あぁ……」


 その姿はまるで、神のようであった。

 いや、違うのだ。

 自分は今、本物の神を前にしているのだ。


「───ノーラ様」


 自然と、王族たるエステリーナは膝を折って跪く。

 これまで自分に向けて頭を垂れていた貴族たちのように。


「私が必ずやあなたにこの世界を……」


 やるべきことが、なすべきことが、己が使命が決まった。

 自分が生まれてきた理由を知った。


「期待している」


 彼女が顔を上げるよりも前に彼はその場から幻のように消えていく。ピアノも、羽も、ノーラがいた形跡の何もかもが。

 だが一つ。

 この場に残されていたのは今なお、ノーラから得た熱を頬に残す一人の少女だけ。



「あぁ───どうか、いつかは私を御身の側に」



 小さな少女の運命が狂い、狂愛が天へと伸びていく……。

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