第1話

 老後に物忘れが激しくなるかもしれない自分のためにも、この物語を手にした誰かのためにも、まずは彼女について記しておく。僕については読んでいれば理解できるだろうから詳しく説明することは特にない。

 彼女の名前はカミーユ・ド・マグノリア。マグノリア公爵家の一人娘。しかし、彼女は死の数年前に公爵家に縁を切られ、ただの「カミーユ」として過ごしていた。

 マグノリア公爵家は国内有数の名門貴族であり、歴代の公爵らは宰相になることも多かった。聡明で、博識で、それでいて狡猾。誰の敵にも回らない、誰も敵に回せない。王家に対しても同様の振る舞いをするため、王家には逆に好かれている。「一般的な貴族と違って裏表がない」と。

 マグノリア公爵家についての説明はこのくらいで良いだろう。カミーユの話に戻ろうか。

 カミーユは幼い頃から信じられないほどの勉強量をこなしていた。何故なら公爵夫人は体が弱く、これ以上子供を産むのは危険だと言われていたため、未来をカミーユに賭けるしかなかったからだ。

 地理、歴史、外交、礼儀作法、ダンス…。目には隈を、足には酷い靴擦れを作りながらも、彼女はひたすらに勉強に励んだ。幼い彼女には何故自身がこんなことをしているのか全く分かっていなかった。でも、周りの子供達も同じだと思い込んでいた。

 僕がそんな彼女と出会ったのは彼女が8歳で、僕が10歳だった頃。

 僕の父はマグノリア公爵家で執事として働いていた。母は城下町でパン屋を経営していたので、家族でパン屋の2階に住んでいて、父もそこから出勤していた。

 僕は物語に登場した騎士のようになりたくて、城へ足を運んでは騎士団の方々に稽古をつけてもらっていた。そんな時に彼女と出会ったのだ。

 僕が庭園で迷子になっていた時に、数少ない休憩時間を庭園で過ごしていた彼女と出会った。

 彼女の第一印象は「壊れてしまいそう」だった。10歳の少年が抱くような印象ではないかもしれないけれど、それ程彼女が壊れてしまいそうだったということだ。

 全体的に体が華奢で、日にあまり当たらないからか、不健康からかは分からないが、肌は今まで出会った人物の中で一番白かった。そして日々のストレスからか目からは完全に光を失ってしまっていて、真顔で涙を流していた。

 僕はいけないとは分かりながらも庭園の花を一輪もぎ取り、

「泣かないで」

と、彼女に差し出した。その一言で彼女の瞳に一瞬光が戻ったかと思えば、僕に抱きつき勢いよく泣き始めた。それぐらい色々と溜まっていたのだろう。

 何をしたら良いのか分からなかった僕はただ彼女の頭を撫でたり、背中をさする事しかできなかった。僕が泣いた時、近所のお兄ちゃんがこうしてくれたから。

「カミーユ様!そろそろ次のお勉強の時間ですわよ!」

 彼女を呼ぶ年配のご婦人の声が聞こえるまで、彼女はずっと僕の胸に顔を埋めて泣いていた。声が聞こえた瞬間彼女はハッとして、急いで涙を拭って僕に一礼してから立ち去ろうとした。

「あ、明日もここに来るよ!」

 僕は思わず彼女にそう叫んだ。すると、

「うん、待ってる」

と、彼女から少し小さい声で返事を貰った。声は小さかったけれど、出会った時よりは随分と楽な表情をしていて僕は安心した。それに彼女の声はとても聞き心地が良く、次に会った時はおしゃべりでもしたいなと思った。

 この庭園には迷い込んで来てしまった僕だったが周りの景色を頼りに騎士団の訓練場へ帰ることはできたし、庭園の場所も覚えた。

 実を言うと、僕はご婦人が彼女の名前を呼ぶまで彼女こそがカミーユであると分かっていなかった。僕と年が近いお嬢様がいるということしか聞かされていなかったからだ。だからその後数日、不敬だと罰を与えられないかと少しビクビクしながら過ごしたし、彼女と会った。

 最初は妹でも出来たような心地だった。まだお互いに子供だったということもあり敬語は使わなかったし、僕は当時妹が欲しいと常々思っていたからだ。

 彼女がカミーユだと分かったので、僕は騎士団での稽古に益々気合が入るようになった。成人して騎士団に入れるようになったら彼女を護れるようになる。僕が彼女を護りたい。そう思った。

 僕はあの日から毎日彼女に会うようになった。決して長い時間ではなかったけれど、日に日に彼女の表情が柔らかくなっていくのを見ると、とても安心できた。それに、僕も彼女と過ごす時間を凄く楽しめた。最初は自己紹介がてら好きなものだとか嫌いなものだとかそういう話ばかりしていたけれど、途中から僕なんかが聞いて良いのか分からないような踏み入った話もするようになり、彼女からの信頼を感じられた。

 この逢瀬は僕が騎士団に入団するまで続いた。騎士団に入団してからはその時間に抜け出すことができなくなったからだ。ただ、自分の希望通りに彼女の護衛として配属されたので時折2人きりになった時には昔のように会話することもあった。

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