38.モンブランを食べる男たち


「……蓮、大丈夫? まだ熱下がってないかな?」


「ん……」


 紺色のブレザーの袖から伸びてそっと額に乗せられる手は、細く柔らかい。


「着替えとお水持ってくるね」


 翻る制服のスカートが目の端に映り、これは高校生のさくらだ、記憶を夢でなぞっているのだと蓮は夢の中で気付く。ドアが閉まる音でさくらが部屋を出ていくのがわかり、ほんの少しだけ寂しさを覚えたことまで思い出せる。


 かちゃりとドアを開ける音がして、さくらが入ってきた。


「持ってきたよ。机の上に置いておくね」


「……お姉ちゃん、学校は……?」


 さくらを「お姉ちゃん」と呼んでいたのは小学生までだった。小学校六年生の冬に風邪を引いて寝込んだ時のことかもしれないと思い至る。


「今日は行くのやめちゃった。何か食べたいものある?」


「……冷たい、もの、食べたい……」


「じゃあ何か買ってくるね」


 ふふ、と笑って柔らかい声で言うさくら。そうだ、さくらは優しかった、昔から両親がいない時もそばにいてくれたのだと、懐かしく温かい記憶が蓮の心に甘い痛みを残し、消え去っていった。



**********



「……蓮、大丈夫? まだ熱下がってないかな?」


「ん……」


 大学卒業を控えた二月下旬の寒い日、蓮はひどい風邪を引いて自室で寝込んでいた。そっと額に乗せられるさくらの手の薬指には、美しいエンゲージリングがはめられている。


「着替え持ってくるね。あと何がいるかな、お水持ってこようか」


「……う、ん……」


 さくらの声が耳に届く。蓮は返答しようとするが、のどがつかえてうまく言葉が出てこない。さくらがドアを閉めるぱたんという音にほんの少しだけ寂しくなったが、ドア越しに聞こえる足音を聞いているとすぐにまたドアが開き、安心感を覚えた。


「どこに置こう? 机の上でいい?」


「……お姉ちゃん、学校は……?」


 さくらは一瞬目を見張り、洗濯が終わったパジャマとミネラルウォーターのペットボトルを机の上に置いてから蓮の髪を優しくなでた。


「今日はお休み。蓮、何か食べたいものある?」


「……冷たい……もの……」


 ふふ、と笑って「じゃあ買ってくるね」とさくらが部屋を出る。蓮は朦朧とした意識の中で夢の中とは違う種類の痛みを心に感じながら、ゆっくりと目を閉じた。



**********



 国際スピーチコンテスト優勝と語学検定試験合格によって単位を取得できたおかげで、蓮は時間に余裕を持って卒業論文を書き終えることができた。早期卒業についても無事に認定され、あとは卒業式を待つのみだ。


「よし、卒業式用のスーツ作ろう」


 蓮が三月下旬に卒業式が開かれると話すと、白井がこれでもかと笑顔を振りまいてうれしそうに言う。


「いりませんよ、前に作ってもらったもので十分です。何で白井さんって僕にそんなにスーツ作りたがるんですか?」


「できる男は何着も持っておくものなんだよ」


「あー、そういうのは何となくわかります。いらないけど。そんなことより結婚式のこと考えましょうよ」


「結婚式か。もう粗方決まってるんだが」


 風邪を引いて家から出られない日が続いた蓮は、この日久し振りに元気な状態で外出することができた。バイトしていた頃は毎週数回は会っていた白井とも、二ヶ月ぶりの再会だ。


「それにしても白井さんのご両親って、なかなかこう……奇抜……いや違う、珍妙……それじゃ深海魚みたいだな……えーと、うまく言えないけど、ちょっと変わった人たちですね」


「奇抜と珍妙で大体合ってるよ。深海魚っぽくはないけど」


「白井さん、よくまともに育ったなと思いました」


「うん、僕も我ながらすごいと思ってる」


 二ヶ月前、蓮とさくらは白井の両親に会った。結婚を考えている人がいると白井が両親に伝え、顔合わせの食事会が開かれたのだ。高級中華料理店での食事会に決まったと知らされた時はさくらと二人でマナーなどを懸命に覚えたが、それはほとんど無意味に終わった。白井の両親は底抜けに明るくて気取ったところが微塵もなく、蓮たちを快く受け入れてくれた――のはいいが、食事はマナーなど気にせずおいしければ何でもいいという人たちだったのだ。


「でも、全然下品に見えなかったのがすごいです。何でだろう……」


「本当にね……あれ、何なんだろうな……」


 彼らは日本にいる時の方が少なく、今もどこか海外を飛び回っているらしい。二ヶ月前の食事会は、年末に日本に帰国することがわかっていたために開くことができたとのことだった。


「あのご両親じゃ、白井さんの言うところの魑魅魍魎どもなんか全員一瞬で灰になりそう」


「蓮、よくわかってるな。何せ攻撃力がすごくて……何度も一緒に会社回りさせられたけど、僕にはあの二人の真似は無理だね」


「ですよね、白井さんは攻撃力あるけどダークな微笑みを浮かべながら偉そうに一人一人潰していくタイプですしね」


「……僕のことを何だと思ってるんだ……」


「んー……陰陽師? あ、それだと僕が式神になっちゃう」


 流行のスイーツ店で大きなモンブランの皿を前にもぐもぐと口を動かしながら、蓮と白井は話し込んだ。周囲の女性たちが白井の笑顔を見て頬を染める様子を数回見ることができ、蓮はとても機嫌がいい。


「ところで蓮、もしかしてちょっとやせたか?」


「そうなんですよ、この間ひどい風邪引いちゃって……」


 風邪を引いた時のことを思い出し、蓮は心のどこかにわずかな痛みが蘇るような感覚に襲われた。蘇るということは既にその痛みを経験していることになるが、考えてみても記憶にない。


「……どうした? まだ体調悪いのか?」


 急に無言になった蓮を心配し、白井が顔を覗き込んできた。


「……ああ、いえ、大丈夫です。高熱が出ちゃって大変だったんですよ。ゼリーしか受け付けなくて」


「それでやせたのか。モンブランも食べられるようになってよかったな」


「ほんとに。食欲がわかないって、人生の半分くらい損してる気分になりますね」


 そんな他愛のない会話をしながらモンブランを食べ終えると、白井は真剣な表情で、蓮にとってはうれしい提案をした。


「で、今後のことなんだけど、そろそろ話を詰めておかないといけないだろ。これからうちに来ないか?」


「行きます!」


 白井家の家政婦さんに会いたいという一心で、蓮は元気よく即答した。



**********



 基本の移動手段が車のため、白井は蓮を乗せて車で帰宅した。本当は着いてすぐに今後のことについて話を始めたかったのだが――


「白井さん、家政婦さん絶対探し出してきてくださいね。屋根裏にいるかもしれないけど」


「屋根裏……うちのこと何だと思ってるんだ……。まあとにかく、探してくるよ」


 ――数分後――


「蓮、家政婦さん今日は早退したんだって」


「えっ……じゃあ今日も、会えないんですか……」


「うん……具合悪そうだったって」


「そうですか……。早くよくなるといいですね」


 ――という会話を経て、やっと本題に入れるようになった。以前蓮から託された家政婦さんへの手紙については特に触れられることはなかったのだが、白井は蓮がいつ思い出すかとひやひやしていた。当然、手紙は破棄済みだからだ。家政婦さんが絡むとポンコツになる蓮については謎が多すぎて、白井は考えることを放棄した。



**********



「……で、今後のこと。色々考えてみたんだけど、この事務所は移転させようかと」


「えっ、移転って、どこになるんですか? 大都会の高層自社ビル……?」


 白井とさくらの結婚式は五月下旬に行われるが、二人が籍を入れて新居に引っ越すのは四月上旬予定になっている。新居は事務所がある白井家から徒歩十五分ほどという近さのため、白井も通いやすいだろうと蓮は思っていた。


「いや、蓮の自宅がベストかなと思ってるんだ」


「うち、ですか? ああ、さくらがいなくなるから?」


「そうそう。調べたらあのマンション、事務所利用可能だったんだよね。この事務所でもいいんだけど、これから蓮がメインで業務遂行することになるから、それなら蓮の自宅でいいだろうと思って」


「あー、まあ、僕は一人暮らし用の部屋を探す手間が省けるのでありがたいですけど……白井さんはこの事務所の方がやりやすいのでは? あっちの会社も大変そうだし」


 四月から完全に任されることになったと白井が言っていた会社は、輸出入貿易や国内卸売業などを行う商社だ。蓮には白井がどんな仕事をするのか具体的には想像できないが、今よりずっと忙しくなるだろうという予想はできた。


「実はこの間、その件での話がついた。商社の方は兄がやってくれる」


「お兄さん!? どちらの……? 激似の方ですか?」


 蓮は白井の兄二人に会ったことがある。長兄はそれほど似ていないのだが、次兄の方は聞いていた通り双子と見間違うばかりに似ていて、ついじーっと見つめてしまった。「何この子おもしろかわいい」と言われてはっと我に返り、謝り倒したのは記憶に新しい。


「うん、下の方。『何か大変そうだからやってあげる』って言ってたよ。といっても、僕は役員で名前が残ることになるけど」


「えっと、僕は助かりますが、本当にいいんでしょうか?」


「うーん、まあ、大丈夫なはず。一応役員だから、呼び出されることもあるとは思うけど。もともと兄二人の方が向いてるんだよ。あまり感情的になることもない人たちだし」


「なるほど。向き不向きってありますよね」


 確かに白井は感情的になることが多い。理不尽なことを許せない質なのだ。それを補う表情コントロールは身につけているようだが、大きな会社の経営者ともなればそれだけでは不十分なのかもしれないと、蓮は察した。


「これで卸問屋メインでできるようになったと思うとうれしいよ」


「そうですね、白井さんと一緒にできるのは僕もうれしいです」


 にこっと白井が笑顔になり、蓮もつられて口元をゆるめた。

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