34.戦闘服に身を包む男


 注文したスーツが出来上がる日、蓮は一人で店に行った。試着するととても体に合っていて、手足を動かす時にも体への負担が少ないのを感じる。


「やはり少し細身に作っておいて正解でしたね。姿勢もいいですし、とてもお似合いで素敵ですよ」


「そ、そうですか、ありがとうございます」


「若い方は体型が変わることが多いため、当店ではそのあたりを考慮してお作りしております。イージーオーダーでもある程度お直しできますので、今後体型が変わりましたら遠慮なくお申し付けください」


 店員の丁寧な褒め言葉に戸惑いながらも説明をしっかり聞いてから、蓮は元の服に着替えた。スーツが入った紙袋を受け取るとやはり物理的なもの以外の重みも感じられ、身が引き締まるような思いだ。


 帰りの電車の中で蓮が白井にスーツへの礼のメッセージを送ると、すぐに返信が来た。


「蓮のスーツ姿見たかった……約束して一緒に行けばよかった」


「そんなに早く見なくてもいいですよ、まだ板についてないし」


「それがいいんじゃないか。で、コンテストいつだっけ?」


 白井の返信がとても早い。早すぎて少々引き気味になるが、電車の中だと蓮も他にすることがないため、やり取りが加速していく。コンテストの日時は一週間後だと伝えると、「前々日に家でネクタイとかも含めて全部試着しておくといい。その時に、一緒に買ったカバンに必要なものを入れて準備すると尚良し」とアドバイスが来た。さすが慣れているだけあると感心し、素直に礼を伝えておく。


「ゼミで一人だけ二年生でいじめられたりしてないか?」


 ルーティン操作でメッセージを開くと、突然ベクトル違いの話に変わっていて、蓮はどきっとした。


「何ですか、突然。大丈夫ですよ」


「それならいいんだけど。じゃあ、がんばれよ」


 ここで蓮と白井のメッセージのやり取りが終わった。


「何でわかるんだろう」


 通知が来ないスマートフォンの画面を見つめながらぽつりとつぶやく蓮の小さな声は、車内アナウンスに消されていった。


 蓮がゼミ室を訪れて挨拶しても、返してくれる人は少ない。特に男性陣からやっかみを受けており、教授の瀬川が不在の時は、聞こえるように悪口や嫌味を言われたりもする。近くを通るだけで眉をひそめたり、時には嘲笑ったりする彼らをやり込めてやりたいと思う気持ちはあるが、蓮は何も言わずに無視していた。今は共同研究もないため、ゼミ室や図書館の文献を漁り、わからないことは瀬川に尋ね、コンテストの原稿やお試しで書いている研究論文を睨む日々を送るのみだ。


 すっかり暗くなった帰り道を自転車で走る。帰りが遅くなることが多くなったせいで最近は夕焼けを見ていないことに気付き、蓮は寂しさを覚えた。



**********



 コンテスト当日の朝、さくらが会場に蓮の雄姿を見に行くと言い出した。


「えー、小学生じゃないんだから、来なくていいよ」


 蓮がネクタイを絞めながら渋い顔でさくらを見ると、「もう服買っちゃったし、絶対行く」などと浮かれている。その左手の薬指にはめられている細い指輪を見て、蓮はふっと表情をゆるめた。


「言い出したら聞かないさくら発動……。まあいいや、僕はもう出るけど、さくらはどうする?」


「順番、七番目だよね? 十一時くらいに行けばいいかな?」


「うーん、たぶん。じゃあ行ってきます」


「行ってらっしゃーい。気をつけて」


 からっと明るく言いながら洗面所を占領するさくらを横目に、蓮は家を出発した。


 国際スピーチコンテストは蓮の大学で開かれる。いつものように自転車で行ってもいいのだが、この日は高価なスーツを着ているため、バスに乗った。開始の一時間ほど前に控室に到着し、まずはスピーチの原稿を眺めてみるが、緊張感からか全く頭に入ってこない。どうせ原稿を見ながらスピーチするのだからと、蓮はカバンに原稿をしまった。すると控室に、蓮を敵視していつも嫌味を連発している男子学生の山下が入ってきた。背が高く体格が大きいため、その挙動がよく見える。彼はコンテストには出場しないはずなのに蓮から少し離れた椅子に座り、キョロキョロと周りを見渡し始めた。


「ナツミちゃんまだ来てないのか……」


 山下の大きな独り言が聞こえてきて、蓮は察した。彼はナツミちゃんとやらを狙っているのだろう。


「あれ、青山? おまえも出るの?」


「おはようございます。僕も出ますよ」


「へぇ」


 山下に見つかってしまい、眉間にしわが寄るのを感じながらも、蓮はしっかり挨拶と返答をする。下卑た笑いを隠そうともせずに蓮をじろじろと見る山下が鬱陶しく思えてきた時、瀬川が入室してきた。


「ああ、青山くん、おはよう。もう着いてたんだね」


「おはようございます。出番はまだまだなんですけどね」


「いいスーツ着てるな。ネクタイもよく合ってる。これは優勝間違いなしだ」


 ははは、と瀬川は明るく笑うと、蓮を廊下に誘い出した。どうやら他の教授からの伝言と届け物があるらしい。蓮は席を立って瀬川と一緒に廊下へ出た。


 蓮が瀬川から本を受け取って席に戻ると、もう山下はいなくなっていた。ほっとしながら本を入れようとカバンを開けたところ、中に入っていたはずの原稿がないことに気付いた。


「確かにさっき入れたはず……」


 何度もカバンをごそごそと漁ってみたが、やはり原稿だけが見つからない。蓮が廊下に出ている間に山下がすり取ったのだろうが、そんなことはどうでもよかった。原稿がないということは、スピーチの間ずっと、原稿なしで話さないといけないということだ。


「……嘘、だろ?」


 ただでさえ緊張しているというのに原稿がないとなると、途中ミスをしてしまっても、気付かずにスピーチを進めてしまう恐れがある。ただ壇上で自分の主張を伝えるだけならそれでもいいが、これはコンテストであり、優勝しないと意味がないのだ。


「どうした? 何かあったか?」


 蓮の慌てた様子を見に来たのか、山下がまた控室に入ってきた。いやらしく笑みを浮かべるその口元を見ていると、蓮の気持ちが急激に冷えていく。罠にかけた獲物を見に来るのは狩猟者として当然だが、あいにく蓮はまだ罠にはまり切っていないのだ。詰めが甘いと言わざるを得ない。


「いえ、特に何も」


 山下の目を見て発した言葉は、自分でもびっくりするくらい冷たく響いた。彼のトートバッグが蓮から見えづらい場所に置かれていることから、原稿はその中にあるのだろうと推察する。山下は笑みを引っ込めて「ふん」とそっぽを向き、またあたりを見回し始めた。お目当てのナツミちゃんはまだ来ていないようだ。


 蓮は何も言わずに席を立ち、会場の外に出てベンチに座った。視線の先には快晴の秋空が広がっている。白井の言うところの戦闘服に身を包んだ蓮は、膝の上の両手をぎゅっと握りしめた。

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