33.上司を焚き付けるお仕事


 夏休みが終わって最初の授業の日に、蓮は瀬川のゼミ室を訪れて早期卒業することを決意したと報告し、履修科目などの様々な調整を行った。


「というわけで、平日は今日が最後の出勤になります……すみません……」


 出勤した蓮が白井にそのことを報告しバイトに出られる日が少なくなると謝ったが、白井は相変わらず飄々としている。


「そうか、わかった。まあ、この卸問屋はしばらく休業するから大丈夫だよ」


「……休業……? …………ええええええーーー!?」


 蓮の驚く声が部屋中に響いた。



**********



「白井さんって人を驚かせる天才ですよね」


「ごめんなさい」


「休業するならするで早く言ってもらわないと。こちらはもうゼミの方とか調整終わっちゃってるんですよ」


「はいごめんなさい」


 床に正座させられた白井が、頭上から冷たく見下ろす蓮に叱られている。


「そもそも、契約不履行です。労働基準監督署に駆け込みはしませんが」


「はいごめんなさい」


「僕がバイトにあまり来られなくなるって言ったら、そっかー困るなーみたいに言ってたじゃないですか」


「はい」


「だから殊勝な態度で謝ったのに。そんなに簡単に休業なんて言われたら驚くに決まってるじゃないですか。大体、白井さんはいつもそういう場面であっさりしすぎなんですよ」


「でもさぁ」


「でも、何ですか?」


 しゃべりながらもキャビネットに次から次へと処理済みの依頼書を束ねて規則的に詰め込んでいく蓮の説教に謝るだけだった白井が、薄群青の着流しの膝で手を握りしめ、顔を上げて反撃に出た。蓮は眉根を寄せながら迎え撃つ。


「いつも言ってるだろ、蓮のおかげで成功したとか、助かったとか。蓮がいないと仕事にならないから、休業するしかなくて……寂しいけど、僕も忙しいし……」


「うっ」と押し黙る蓮。


「僕は蓮に、何も心配せずコンテストの準備とかしてほしいんだよ。蓮が優勝するって信じてはいるけど、今度のは難易度高いんだろ? 大変だろうと思って先手を打ったんだ」


「そ、そうですか……」


「検定試験もあるって言ってたじゃないか。それだって事前に何かしら対策を練っておかないといけないだろ? バイトしてる場合じゃないかなって」


「ええ、まあ、そうですけど……」


 ふぅ、とため息をつき「それはありがたいんですが」と言ってから、蓮は続けた。


「僕は自分がやりたいから、忙しくなってもコンテスト優勝して検定合格して早期卒業しようと決めたんです。万が一優勝や合格を逃しても、何かの単位を取れなくて早期卒業を逃しても、それはバイトのせいではなく自分の責任です。バイトしてる場合かどうかは僕が決めます」


 今度は白井が「うっ」と押し黙……らなかった。「お姉さんそっくり! さすが弟!」などと言いながら感動している。蓮の迎撃は失敗に終わった。



**********



「まあそうは言っても忙しくなるのは事実だから、ちょっと休業くらいでちょうどいいんだよ。人間ってあまり忙しくなると病気になりやすいって言うし。再来年の四月に再開予定ってことで」


「わかりました、この職場がゆるいってことちょっと忘れてました。そういえば白井さんって年齢いくつでしたっけ?」


「僕の年齢言ってなかった? 今年の四月で二十七になったよ」


 蓮が怒涛の勢いで書類整理をしたため、部屋の中はすっかり片付いてきれいになっている。他に仕事もなく、二人は椅子に座ってただ話すだけの時間を過ごしていた。


「さくらと結婚しないんですか?」


「えっ、け、結婚? ……直球で来たな……。する気はあるけど」


「今のうちに何かしとかないと、誰かに持って行かれますよ」


「……誰か、とは」


「白井さんも検索エンジンに入力するみたいに聞くじゃないですか。えーと、ちょっと聞いただけでは有能な上司三十一歳、隣の花形部署のエース二十八歳、同窓会で久し振りに会ったイケメン二十四歳ですね。僕その人見たけど、人気俳優みたいですっごく格好良かったです。まあ、そこは白井さんも負けてないですけど」


 蓮が指折り数えながら「誰か」を挙げていくと、白井の顔がだんだん青ざめていくのが手に取るようにわかり、少し気の毒に思えてきた。が、白井がさっさとプロポーズしないのがいけないのだと、心を鬼にして言い募る。


「モテ期ってやつらしいです。友達にそう言われたって。白井さんが早くプロポーズしないから……。何で普段は有能なのに、さくらが絡むとポンコツになるんですか?」


「くっ……言い返せない……」


 白井が目を伏せて固まってしまっている。あまりいじめるのも良くないかもしれないと、蓮は作戦を変えてみることにした。


「僕、白井さんが兄だったらいいな、って思ってるんです」


 蓮は小首をかしげ、白井の顔を下から覗き込んで上目遣いで言った。


「白井さんの弟になれたらうれしいです。他の人は嫌だな」


「がんばります」


 蓮の言葉尻をひったくる勢いで、白井がやる気を見せた。これでうまくいきそうだと、蓮はほっとする。一年早く卒業する予定になり、一人暮らしを始めるタイミングなど色々なことを事前に考えるのが前倒しになってしまった。そんな状況では、様々な事情をわかっている白井がさくらの結婚相手になるというのが一番の理想なのだ。


「その言葉を待ってましたよ。じゃあ、きちんとプロポーズしましょうね」


「……かなわないな」


 にっこりと笑う蓮に、白井が苦笑いしながら白旗を揚げた。


「……ところで白井さん、休業前に一つ、お願いがあります」


 すっと笑顔を引っ込め、緊張をはらんだ声で重々しく切り出した蓮に、白井が不安そうに尋ねる。


「え……、何、かな……?」


「家政婦さんに会わせてください」



**********



「今日はもう帰っちゃったみたいだな。残念だったね」


「……そうですか……。すごく、すごく残念です……。この先もう二度と会えないのでしょうか……何で僕たちはすれ違ってしまうんだ……」


「何そのセリフ。安い芝居じゃないんだから。別にすれ違ってるわけじゃないだろ、昼食を持ってきたあとの彼女の退室が素早くて会えないだけで。たぶん気を遣ってくれてるんだと思うよ。社外秘がどうのこうのって説明したことあるし」


「あの人はやっぱり諜報部所属ですか? 素早い身のこなしですしね。忍びの者を子飼にしてるんですね?」


 普段からそんなことを考えていたのだろうか、どうせ来る頻度は下がるのだから気になることは全て聞いておきたいと思っているのだろうかと、白井は蓮の心の奥底を見てしまったような落ち着かない気持ちで、質問に答える。


「白井家にはそんなのありません。いつの時代の話だっての。ていうか僕の話聞いてる?」


「ご両親どちらかの私設部署ですか? 服の下に暗器持たせてますよね?」


「いやそういうのないから本当に。うちを何だと思ってるんだ……お願いだから話聞いて……」


 蓮とまともな会話ができない白井が、こうして人は病んでいってしまうのだろうかと虚空を見つめ始めた時、蓮がまた口を開いた。


「じゃあ手紙書きます」


「またずいぶん古風な手を……。まあでもいいアイディアかも。料理のレシピ教えてもらいたいんだもんな」


 白井の言うことを聞かないことに変わりはないが、蓮はおとなしく自分のルーズリーフの用紙に手紙を書き始めた。最初にしっかり自分の名前や電話番号、メールアドレスなどを書いているあたり、蓮の本気が窺える。


「楽しそうだね、何て書いてるんだ? どれどれ……? 『金沢に出張に行かされてビジネスホテルで一人になった時に恋しくなってしまいました』? ちょっ、待て待て、それ却下! あの人、既婚者だぞ!」


「邪魔しないでください」


「いやだから、そういう誤解を招くようなことは……」


「僕は真剣なんです」


「……わかった、邪魔しないから好きにしていいよ……」


 蓮には悪いが、手紙を渡しておくと言って受け取り、破棄すればいいだけなのだからと白井は自分に言い聞かせた。蓮は家政婦さんが絡むとポンコツになるのだということを、この日初めて知った白井だった。

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