31.オファーを受ける男
金沢出張から帰った蓮は、普段通りの生活を再開させた。家事とバイトの事務作業をこなしていく日々で、課題はまだ少し残っているが、夏休み中に簡単に終わらせることができそうだ。
「あれ、青山くん? きみもここらへんなんだ?」
蓮が自転車を最寄り駅前の駐輪場に停めて買い物に行こうと歩き始めた時、後ろから名前を呼ばれて振り向くと、大学の教授がいた。
「あ、瀬川先生、お久し振りです。うち近いんですよ、ここから」
蓮が専攻コースの授業で世話になっており、学生に人気のある教授だ。大柄な体と明るい話し方が特徴で、わかりやすい授業をしてくれる。
「そうか、うちのご近所さんとは知らなかった。そういえばさ、夏休み終わったらすぐ言おうと思ってたことがあって」
「えっ、何でしょうか?」
「悪い話じゃないんだ」
瀬川は朗らかに笑い、蓮の背中を軽く叩いた。
「あのさ、きみ、早期卒業してみない?」
「……早期卒業……?」
「時間ある? ここだと熱中症になっちゃうから、喫茶店でも行こう。おごるよ」
**********
瀬川が連れてきてくれた喫茶店は、数年前までは紫煙をくゆらせてのんびりと寛ぐ人が多かっただろうと易く想像できる、昔ながらの純喫茶だった。店内の照明は暗めで、程よい音量のクラシック音楽と業務用空調機の音が混ざり合い、不思議と落ち着ける空間になっている。
「ここのプリンアラモードおすすめだよ」
「先生はちょっと甘いもの控えた方がいいのでは……。僕はプリンアラモードとカフェオレで」
「じゃあ僕もプリンアラモードとブレンド」
「いいんですか? 先生倒れたらみんな悲しみますよ」
「え、えっと、今日は車じゃないから……歩いて帰るから、大丈夫……」
瀬川は汗を拭きながら店員に注文を告げると、蓮の方を向き直した。
「さっきの話だけど、二年次後期からうちのゼミ来ない? 後期始まって一週間以内に届け出すれば大丈夫だから。で、三年生終わったら卒業」
「先生……すっごく簡単に言ってますけど、できる気がしません……」
「だってきみ、スピーチコンテストで優勝したりして、上限まで単位取ってるじゃない。来月も国際スピーチコンテストあるし」
瀬川の言う通り、蓮は一年次に英語スピーチコンテストで一度優勝している。それにプラスして英語資格試験で高得点を取れて単位をもらえたのが、バイトを始めようと思ったきっかけだった。
「確かに来月のも出る予定ですが」
「成績も出席率もいいし。決断するなら今のうち」
「決断……。あの、早期卒業したら大学院に進まないといけないですか?」
「進まないといけない、っていうのはないね。卒業後は大学院進学でも就職でも留学でも好きにできるよ。ただ、忙しくなる。特に三年次」
「ああ、忙しくなるのかぁ。そうか、そうですよね」
「それでも早期卒業できれば意味はあると思う。あ、でもね、企業によっては早期卒業した学生は採用しないところもあるんだよ。これは完全なデメリットだな。だから留学したい学生が利用することが多いね」
「なるほど。全然考えたこともなかったので、ちょっと決断するまで時間がかかりそうです」
ここで店員が注文品を運んできてくれたため、二人はしばらくプリンアラモードを堪能する時間を過ごした。
「おいしいですね。こういうの初めて食べたかも」
「初めて!? うそだろ……」
「もう昭和は遠いなぁ」と苦笑いする瀬川を、他の多くの学生と同じように蓮も慕っている。この教授のゼミなら楽しそうだとは思うが、あまり気軽に決めていいことではないと、気持ちを引き締めた。
「そうそう、大事なこと言うの忘れてた。三年で卒業すれば一年分学費が浮くよ」
「学費が浮く……!」
学費の話に食いついて目を輝かせる蓮に瀬川は一瞬目を見張り、豪快に笑い飛ばした。
詳しい話は夏休み明けすぐに瀬川のゼミ室を訪れて聞くことになった。それまでに、このことをさくらと白井に伝えておくべきだろうと蓮は考える。青山家にとって学費が浮くというのはとても大きなメリットだ。また、一年早く卒業すれば白井の下で本格的に働き始める時期が変更になる。とはいえ、今はまだ大きい決断を迫られていることに戸惑う気持ちの方が強い。
とりあえずは今日の夕飯を決めないといけない。人生には様々な決断が必要なのだ。スーパーで悩みに悩んだ末に白身魚をカゴに入れると、蓮の頭の中は”簡単おいしい☆アクアパッツァ”のレシピでいっぱいになった。
**********
「白井さん、もう自分で普通に見える服装を選べるようになりましたよね。この間がんばってましたもんね」
「選べない、だめ、できない、無理」
一緒に服を買いに行くと、白井と約束した日が来た。買い物をするなら荷物が多くなるだろうと白井が出してくれた車に同乗している蓮は、運転しながら駄々をこねる白井に呆れてため息をついた。
「僕が言い出しっぺだし一緒に行くのはいいんですけど、ずーっと男二人で行動するって何かちょっと……。お昼まではバラけて、途中どこかで合流するとかどうですか?」
「嫌だ、一緒がいい」
「二歳児ですか」
いくら蓮が説き伏せようとしても白井は頑なに蓮の提案を受け入れない。デパートの駐車場に車を停めて店内に入ると、白井はその言葉の通り、蓮にくっついて歩き始めた。
「本当に二歳児みたいなんですけど。まさかデパート来たことないわけじゃないですよね?」
「そのまさかで、あまり記憶にないんだ。外商担当が一緒にいる状態でなら、店内を歩いたことはあったかも……子供の頃だけど」
「えっ、それっていつもは外商担当が家まで来てくれるってことですよね? うわぁ、そこまでセレブだとは……国産車乗ってるのに……」
「車は、国産車が一番好きだからなぁ。部品の取り寄せもスムーズにしてくれるし」
驚く蓮に、物珍しげに周囲を見回しながら白井が真面目に答えた。
「……しょうがない、わかりました。じゃあくっついてていいんで、メンズフロア見に行きましょう」
**********
二人はデパート内の色々な店舗に入り、高価すぎるものは避けて真剣に服を選んだ。蓮が「白井さん何でも似合うから選ぶのつまらないです」などと悪言を放っても、白井はその垂れ目の目尻をより一層下げてニコニコしながら蓮についてくるのだ。無下にはできない。
「そういえば今日着てる服はどこで買ったんですか?」
白井が着ているのは、普通に見えるオフホワイトのオックスフォードシャツに、普通に見えるネイビーのパンツだ。
「シャツは二番目の兄のお下がり。下は自分のだけど、確か……えーと、二越の外商が」
「ああ、いえ、もういいです。普通に見えるだけで高級品なんですね。というかシャツはお下がり! お金持ちなのに!」
「上の兄は高級路線のかっちりした服ばかり着てるけど、下の兄はそういうのが好きじゃないみたいで、こういうシャツをたくさん持っててね。僕と体型がほぼ同じだから、たまに服をもらったりしてたんだよ。ちなみに僕は三番目、末っ子」
「へぇ……下のお兄さん、もしかして顔も似てます?」
「似てる似てる、声も」
「……これが二人いるのか……遺伝子ってすごい……」
蓮にじろじろ見られても、「これ」呼ばわりされても、白井は相変わらず機嫌良さそうにニコニコしている。
「白井さん、楽しそうですね」
「うん、すごく楽しい。来てよかった」
紙袋を複数持ってストレートな感想を言う白井が何だかかわいらしく思え、蓮も笑顔になった。
「じゃあそろそろお昼食べに行きましょうか」
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