29.食欲が戻った男
個室とはいえ、防音加工の壁などない普通の居酒屋では多少の声は漏れてしまうもので、泣いていた蓮を心配した女性店員が温かいおしぼりをいくつか持ってきてくれた。
「うー、格好悪い……恥ずかしい……しかも色んな方面に申し訳ない……。せめて明日には目の腫れと充血が治っていますように……」
「いいじゃん、旅の恥は掻き捨てって言うし」
上を向いておしぼりを目に乗せている蓮に、さらっと白井が言う。
「旅じゃなくて出張だけどそう思うことにします。あ、そうだ、ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
「ん?」
「僕、もしかしてけっこう目付き悪いですか? 何か最近やけに通りすがりの人に見られるんですよね」
「目付き? 三白眼でもないし悪くは見えないよ。どちらかというと黒目がちだと思うけど。けっこうお姉さんと似てるよね」
さくらを思い出したのか、へらりと白井が笑うが、蓮には見えていないため特にツッコミは入らない。
「そうですか。じゃあ何でだろ」
「見られるって、どんな感じで?」
「新幹線に乗り込んだ時とかじろじろ見られたし、工芸館行った時なんて、すれ違った女性にちょっと離れたところから指差されたんですよ。考えてみても不審な動きはしてなかったはずなんですけどね……腫れと充血が引かなかったら、本当に不審者っぽくなりそうで」
「えーと、それって……」
「ただ自分の席探してただけ、展示品見てただけで、別に不審者じゃないのに。キャップかぶったらいいかな……ああ、でもよけい不審者に見えそうですね」
まだ上を向いたまま鼻詰まりの声で話す蓮に、白井は少々呆れた目を向けた。
「あのさ、それ、あの人格好いい! みたいな視線じゃなかったか?」
「え? 誰がですか?」
「いや、誰が、じゃなくて……はぁ……人間って、自分のことはよくわからないものなんだね。勉強になるよ」
「何ですかそれ?」
蓮の問いには答えず軽く息をつくと、白井が席を立つ。
「とりあえず、今日はもうホテルに戻ろう。しっかり休まないとな」
**********
翌朝、よく眠れて無事に目の腫れと充血が引いた蓮は、朝食を大いに食べた。この二日間で心労が続いて食欲が落ちていたのが元に戻ったようだ。
「気持ちのいい食べっぷりだったな。うちで食べる昼食の量、増やしてもらうように頼んでおこうか?」
「いいんですか? お願いします!」
白井のうれしい提案に、朝食を食べ終えた蓮はほくほくしながらおしぼりで口を拭く。その後、一旦二人で蓮の部屋に戻ってこれからのことを相談した結果、ホテルを出たらお土産を買いに行くことになった。
「お土産、さくらに渡すんですよね? もう箸置きは買っちゃいましたよ。九谷焼の」
「えっ」
「一昨日寄ったカフェに良さそうなのがあったので」
「……九谷焼のを何か買おうと思ってたのに……」
「同じ九谷焼のでもいいじゃないですか。あまり重くない小皿でも買っておけば……まあ、食事用意するの僕なんで、僕が気に入らなかったら使いませんけどね」
不満そうな白井に「この小姑が」と言われ、蓮が「かわいい弟なのに」と応戦していると、蓮の仕事用のスマートフォンに電話が入った。
「この電話番号知ってるのは……倉田さんかな……はい、青山です」
下を向いて緊張の面持ちで電話に出た蓮が「まだ金沢にいます」「上司が一緒でもいいですか?」「あ、そのお店知ってます」などと話している。電話が終わると、蓮は白井の方を向いて真剣な顔つきで言った。
「予定変更です。これから倉田さんと会うことになりました。用件はまだ言われていません。場所は僕が一昨日行った工芸館近くのカフェなんですが、白井さんも一緒に行けますか?」
白井は「もちろん」とうなずき、一旦自分の部屋に戻った。
**********
「ところで一昨日から気になってたんですけど、ビジネスホテルだけあってビジネスマン多いですよね。自分が浮いてないか心配です。せめてジャケットくらい持ってくればよかったかな」
フロントでチェックアウト手続きを済ませてから時間調整のためにロビーで談話している最中、蓮はシンプルなポロシャツとデニムパンツという自分の服装が気になった。白井は東京に着いたら仕事があるとのことでスーツを着ており、髪型もきちんとセットして上から下まで決めている。どうやらそれに合う靴も持ってきていたようだ。
「浮いてはいないよ。他に観光客もいたし、気にすることはないだろ」
「観光客、いたけど少なかったな、と。できれば白井さんも仲間になってほしかったですね」
「今日は秘書に会うからなぁ。こういう格好してないと怒られるんだよ」
「えっ、怒られるって、怖っ! でも東京に戻るまでは、昨日の服でもいいのでは?」
「あれは、クリーニングに出さないと」
「えー、いいじゃないですか、あと一日くらい」
「昨日泣いた人がいて」
「ごめんなさいクリーニング代給料天引きしてください」
「天引きも請求もしないけどね」
「ほんとすみません」
気恥ずかしさが戻ってきて少し頬を赤くしながら蓮が謝ると、白井は蓮の目をしっかりと見て言った。
「今はこの服と靴を持ってきてよかったと思ってるよ。戦うのに便利なんだ」
「え?」
「白井様、タクシーが到着いたしました」
チェックアウトの時に頼んでおいたタクシーの到着をホテルスタッフが知らせてくれ、白井が礼を言う。
「さあ、決戦だ」
それまでいつもの穏やかな笑顔で話していた白井が、急に本気の顔になった。何と戦うのかわからないなどと軽口を叩ける雰囲気ではなく、蓮は何も言わずに白井とタクシーに乗り込んだ。
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