20.よけいな一言を漏らす男


 一方その頃、蓮はお隣のお宅で出された鍋焼きうどんを食べ終え、牛乳をごくごく飲み、食パンをむしゃむしゃ食べていた。


「あ、そういえばね、バイト始めたんだ」


「あら、えらいわね」


「いやー、それほどでも」


 バイトの中身は言えないんだけど……などと考えながら食パンをかじり続ける蓮に、ばあさま(と蓮は呼んでいる)が静かに話しかけた。


「もう大人なのね」


「まだまだだよ」


「そう? まあ、疲れたらまたうちに来ればいいわ。さくらちゃんにもそう伝えておいて」


「うん、言っとくよ」


 会話はここで終わった。じいさま(と蓮は呼んでいる)はキッチンでお茶を入れ直してくれている。猫が蓮のそばを離れ、あくびをしてからその優しい沈黙にそっと乗せるように「にゃ」と鳴いた。



**********



 二時間を数分過ぎたところで蓮が家に戻ると、玄関にもう白井の靴はなかった。


「ただいま……あれ? 白井さんもう帰ったの?」


「蓮、ちょっとそこに座りなさい」


「はい」


 蓮の方を向いてダイニングに立つさくらは、非常に怒っている。笑顔なのに、機嫌が良さそうな声なのに、怒っているのがわかる。これは「はい」もしくは「イエス」しか返答が許されず、返答に少しでも間が空こうものなら最大級の雷が落ちるパターンだ。大人しくしているに限ると蓮は覚悟を決めて椅子に座った。


「あのね、あんな時間に突然の来客は困るの」


「はい」


「そういう時は電話しなさいって、いつも言ってるよね?」


「はいごめんなさい」


「『原因連れてきた』とか言って自分だけお隣に逃げて……」


「はい」


「ちょっとは何か事情話してくれてもよかったんじゃない?」


 仮に「でも電話しておいたらさくらが逃げてたじゃん」なんて言い訳をしようものなら、それはもう災害級の大惨事になる。「はいごめんなさい」が正解……なのだが、うつむきがちで聞いていた蓮は、ついうっかり口に出してしまった。


「照れ隠しで僕が怒られるって……」


 蓮のつぶやきは言い訳ではなく愚痴だったが、しまった!と、しんと静まり返った室内で数秒の後に目の前を見上げると、そこには仁王様も裸足で逃げ出す形相でさくらが立っていた。


「いい度胸ね」


「ごごごごめんなさいっ!」


「……まあ、いいわ」


 表情をゆるめて大きく息をつくさくらに蓮は驚きの目を向ける。


「蓮がお隣に時々逃げてるのは知ってた。知ってて、何もしてなかった。ごめん」


「え、それはさくらが謝るようなことじゃ……」


「照れ隠しも図星だし。どうしたらいいかわからなくて」


 さくらは意地っ張りなところがあるが、こうして率直に自分の思いを吐き出すこともできると蓮は知っている。ふとした時に姉が弟に見せる弱さは、たった一人の家族への信頼の証だろう。だから二人きりでもうまくやってこられたのだ。


「うーん……あのさ、僕もう就職先決まってるからさ、自由にしていいと思う。もっと遊びに行ったりとか」


「就職先が潰れるかもしれないとは思わない?」


「それはさすがに白井さんに対して失礼すぎるだろ……。まあ、あの仕事自体はいつまで続くかわかんないけどね」


 さくらは蓮の隣の椅子にすとんと腰を下ろした。


「そうだよね、わからないよね。人は簡単に死んでしまうものだし、会社だっていつ潰れるかわからないじゃない」


 蓮は、目を伏せ頬杖をついて話すさくらをただ見ているだけだ。


「だから人を好きになるのは怖かった」


 「怖かった」は過去形だ。蓮は黙ってさくらの話の続きを待つ。


「彼が好きだって言ってたからこの音楽をダウンロードした、彼がかわいいって言ったからスカートを穿くようになった、彼が、彼が、ってさ、よくあるじゃん」


「あー、まあ、あるね」


「ね。いつその関係が終わるかわからないのに……そういうのばかりになると自分を見失うような気がしてたけど……」


「……けど?」


「……そうでもないのかもしれないなと、思った。前よりちょっと自分のこと好きになれた気もするし」


 言い終わると、さくらはテーブルに突っ伏してしまった。


「たぶんね、私たちあの人とすごく相性がいいんだよ」


「そうかもね」


 まだ照れているのだろう、さくらは白井のことを「あの人」と言う。突っ伏したまましゃべるため、蓮にとってはさくらの言うことがいまいち聞き取りづらいが、とりあえず文句を言うのはやめて素直に返事しておくことにした。さくらが話したいと思っていることを邪魔したくなかったのだ。


「あの人、私がお母さんたちと話してるとそばでニコニコしながら聞いてるんだよ。『本使用には条件がある。娘と話をさせろ』とかすごい条件つけられてたのに。お人好しなんだなと最初は思ってたけど、どうやら違うみたい」


 さくらの笑いまじりの声がテーブルをわずかに震わせる。


「そうだね、仕事ではけっこうシビアなところもあるよ」


「だろうね。もしかして私たち甘やかされてない?」


「父さんも母さんも人を見る目があったってことだろ」


「最初に話しかけたのどっちだろう。お母さんかな?」


「うーん、どうだろうね。今度聞いてみる?」


「うん」


 ぱっと顔を上げたさくらを見た蓮は、「確かにちょっときれいになったかもしれないな」と思った。目の周りが赤くなってしまっていることを、少し残念に思うくらいに。


「今度、四人で話そうね」


 さくらがふわりと笑い、蓮も笑顔でうなずいた。

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