19.自分勝手な女
「すっ……」
「す」から先の言葉が出てこない。体の熱が全部集まってしまったかのように火照った頬を弱い風が時折滑っていく。窓を開けておいてよかった、と、私はまたよけいなことを考えた。こういうのがいけないのか。まだまだエリートビジネスマンには遠いようだ。
「前に、ご両親が『蓮を守ってくれてありがとう、大変だったでしょう』って声をかけた時だけ、泣いてたよね」
「ええっと……そうでしたっけ」
覚えているが、とぼけてみる。私は一体何度恥ずかしい思いをすればいいんだろう。
「それまでは妹みたいにかわいい存在だったんだけど、そこからそういう対象として見始めたというところかな」
白井さんを睨んでみるが、何も効果がない。それどころかもっと羞恥を掻き立てられるようなことを重ねていく彼がやはり恨めしくて、うつむきながら軽く睨み続ける。
「亡くなった両親と話せて泣くなんて、普通じゃないですか」
「いや亡くなった人と話すってそもそも……まあいいや、そのタイミングがね……それ以外の時はご両親を心配させたくなかったんじゃない?」
反抗してみるがやはり効果は薄いようで、白井さんは話し続ける。
「十代の姉と弟二人きりになって、大変だっただろうにいつも明るく元気に振る舞って、隙を見せないようにしていた。入院しても検査結果で異常がないとわかってすぐに仕事に復帰した。誰かに付け込まれないように必死だっただろう? それがわかったのが、あの時だったんだよ」
「付け込まれないようになんて、そんな大げさなこと考えてなかったですよ。自分がやりたいようにやってただけです」
それは本当だ。私はやりたいことしかやらないようにしている。父方も母方も親戚は遠方に住んでいて簡単に頼ることができなかった。何かあった時に自分と弟が困るから生命保険に入った。切実にお金に困っていたわけではなかったけど、何かあった時に自分と弟が困るから働けるだけ働いてお金を作るようにした。弟に大学進学を勧めたのだって、弟に何かあったら自分が嫌な思いをするからしっかり独り立ちできるように、という理由なのだ。私は自分勝手な人間だという自覚がある。
「自分のためにこの生活を守ってたんです。それに、暗い家は嫌いなんです。だから明るくしてたんですよ」
「うん」
「いくら体調不良とはいえ、すぐに仕事に復帰しないとボーナス査定に大きく響いちゃうじゃないですか。あの時ボーナスで買いたい服があったので」
「そうか」
私は早口で自分勝手なことばかり言っているのに、この人は優しく笑っている。もしかしてさっき言ってた……すっ……好き、な、人、とかいうのはただの戯言じゃなくて本当のことなんだろうか……。そう考えると視線がテーブルに置いている自分の手に移ってしまう。私は臆病者だ。
「何で笑ってるんですか? 嫌な奴なんですよ、私。……そ、その、恋愛、とかだってよくわかってなくて……自分のことばかり考えてる嫌な奴なんです」
「それの何が悪いんだろう。誰でも自分が一番かわいいんだよ。むしろ、意識的にそう考えられる人は信頼できる」
「えっ?」と、少しずつ熱が引いてきた顔を上げると、白井さんは薄ら笑いを浮かべて遠い目をしていた。
「世の中には、何もかもを他人のせいにしないと気がすまない人が多くてね……ああ、いや、仕事上だけかもしれないが。生き馬の目を抜くってことが横行している、絶対に隙を見せてはいけない世界ってけっこう神経やられるんだよね……。そんな仕事が終わって、ふと思い出すのがきみだった」
「わ、私ですか? 何で……」
「死に別れたご両親と再会できても一度しか泣かなかった。その一度は、がんばっているということを認められた時だったよね。この子はきっとこれまでどんなに寂しくても悔しくても、笑っていたんだろうなと思ったんだ。それだけ責任感があって芯が強い子なんだろうな、とも」
白井さんの声は優しいのに、急に胸の奥が冷えた気がした。寂しい、悔しい、確かにそんな感情を持ったことはあったけど、力の限り抑えつけてきた。私自身も見ようとしていなかった心の仄暗い部分を見透かされているような気分だ。
「ほめられるようなことでは……」
「『自分がやりたいから』は、自分が全責任を負うという意味だろう。それが普通だと思い込んでやってきた。違うだろうか」
白井さんが言い終えても返答できず、しばしの沈黙が降りる。そう、なのかもしれない。自分で決めたことは誰にも文句を言わせないけど、代わりに自分が全責任を負う、確かにそう思っていたかもしれない。
「僕も見習わなくては。甘やかされた末っ子だと何度言われてきたことか」
「いえ、そんな、私のことなんて」
白井さんは末っ子なんだな、蓮と気が合うのは末っ子のせいもあるのかな、なんて関係ないことを考えてしまう。こういうのって逃避にあたるんだろうか。もしそうなら、何から逃げたいんだろう。
「あの魑魅魍魎どもを相手にしたあとにきみのことを思い出すと、心がふわっと暖かくなる気がしたんだよ」
その時の疲れを思い出したのか、不意に白井さんはため息をつき、ネクタイをゆるめ始めた。髪型が大国ホテルにいた時と比べて少し乱れていて、額に前髪が一筋かかっている。これは、大人の色気というやつなのか。免疫がないから、目の当たりにすると目の毒かもしれない。
「あの、美容院に置いてある雑誌で読んだ”女性が好きな男性の仕草”第一位、やめてください。蓮呼びますね」
「え、何それよくわからないけどすみませんでしたまだ二時間経ってませんごめんなさい」
慌てて膝に手を置き、ぴしっと姿勢を正して見せる白井さんに、ふふっと笑ってしまう。すると彼も表情を崩して柔らかく微笑んだ。ああ、やっぱり私はこの人のことが好きだ。きっとずっと前から好きだった。もう逃げられない。
「普通なんです、私にとっては。誰にも文句言わせたくなくて、メイクと笑い方を覚えて、仕事の知識を頭に詰め込んで、誰にも舐められないようにしてたので。全部、自分の意志で決めてやってたんです」
声が弱々しくなっていくのがわかる。こんな私は私じゃない、と、さっきまでの私なら嫌悪を感じていたかもしれない。でも今は何となく、こんな私も好きになれそうな気がする。
「うん。よく、がんばってたね」
「あのブルーのワンピースの人にも白井さんにも、本当は弱みを見せたくなくて……普通に挨拶して、パン買って帰って……でも、だめ、でした……白井さん、のせい、で……」
「ごめん」
「新作、の、パン……」
「僕のせいで買えなかったね」
言葉が詰まって出てこない。頬が濡れる。泣いている? 私は泣いているの? ついさっきまで笑っていたのに?
「そ、うです、白井さんの、せい……寂しいなんて、思ったらだめ……だった、泣いたらだめ、だったの、に……なん、でっ……」
白井さんが「寂しいって思ってくれたんだね」と言いながらハンカチで涙を拭いてくれた。
「今度一緒にパンを買いに行こう、さくら」
彼の良い香りがふんわりと私を覆い、うれしさがこみ上げてきた。そうか、私はもう一度「さくら」と呼ばれたかったんだ。自分の鈍感さがもどかしく、八つ当たり気味にちょっと意地悪を言ってしまう。
「れ、蓮、も……三人で」
「できれば二人でお願いします」
「ぶっ」
真面目くさった固い表情で言う白井さんがおもしろくて笑ってしまった。人って泣きながら笑うなんて器用なことができるんだなと、またおかしなことを考えていたら、これまで意地を張り続けていたのもバカバカしくなってきた。
「私も、白井さんのこと好きです。二人で行きましょう」
ひとしきり泣いて笑うと、私の口はいつの間にか素直な気持ちを吐き出していた。
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