18.ビジネスモードになる女


「ただいまー」


 私が「おかえり」と声をかけると、弟はコンビニの袋を提げたまま冷蔵庫に直行して牛乳を取り出した。


「ごめん、夕飯作れない。お隣行ってくるから」


 そういえば夕食のことなんて頭からすっかり抜けていた。食欲もないから、弟が言い出したことは渡りに船だ。


「そう、わかった。でももう八時だけど大丈夫? あまりご迷惑にならないようにね」


 普段通りの会話をしているつもりだが、うまくできているかどうかわからない。帰宅してからずっと目の前に薄い膜が張られているみたいに現実と切り離されたような感覚があり、拭うことができないのだ。


「大丈夫。外、寒くなってきたから上着羽織っておきなよ」


 私が「そうね」と短く答えて椅子の背にかけておいたカーディガンを羽織ると、弟はとんでもないことを言い始めた。


「大国ホテルのパンを食べそこねた恨みは大きいんだよね。だから原因連れてきた。思う存分話し合いして。あ、でもできれば二時間以内で」


「えっ? それは悪かったけど、原因って何?」


「さくらが悪いわけじゃないだろ。本物の原因だよ。不安だったら、窓ちょっと開けておいて」


「不安って、一体何のこと?」


 そこまで言うと、玄関のドアが開いて弟が神妙な顔つきの白井さんを招き入れているのが見えた。


「えっ……白井さん? 何で……」


「こんばんは、お邪魔します」


 出し抜けに現れた白井さんの足元に、慌ててスリッパを出す。


「すみません、こんな狭苦しいところに……もしかして雨だから蓮を送ってくれたんですか?」


 「ありがとう」と小さな声で言いながらスリッパを履く白井さんは、昼に見たスーツ姿のままだ。あのシーンを思い出すと、胸の痛みが蘇ってきて辛い。


「じゃ、また二時間後」


 弟がやけに明るい表情で去っていく。私は何も反応できず、立ち尽くしていた。たぶんとても不安そうな顔をしていたと思う。


「ごめんね、夜遅くに」


「いえ、あの、こちらこそすみません……明日お仕事ありますよね?」


「あるといえばあるけど、どうせ大したことない挨拶回りだから大丈夫」


 玄関を入ってすぐの廊下は冷えるので、ダイニングの椅子に座ってもらう。白井家のソファみたいに豪華な来客用の家具があればいいんだけど、うちにはそんなものはないのだ。


「大変ですね」


 私は上手に笑えているだろうか。


「突然来てしまって申し訳ないんだけど、話を、させてもらえないだろうか」


「蓮のことですか? すみません、何かミスでもしたんでしょうか」


 きっとそんなことで白井さんはうちに来たりはしない。わかっていても勝手に口がそう言葉を紡いでしまう。


「違うよ。……何から話せばいいんだろう、もしかしたらちょっとおしゃべりになるかもしれないけど、許してほしい」


「……えっと、はい」


 私はこの時、自分と現実を切り離していた目の前の薄い膜がなくなっていることに気づいた。ジャケットを脱いだ白井さんがとてもクリアに見える。何でだろう……と考えていて、返答がおろそかになってしまった。


「白井さんさえよければ。お茶、入れますね」


「おかまいなく」


「何が何だかよくわかりませんが、蓮が言うには二時間話さないといけないらしいので。お茶は必要ですよね」


 ふふ、と笑いながら電気ポットに水を入れる。よかった、ちゃんと笑えた。いつもの調子が戻りそうな自分にほっとしていると、ここに来た時と同じ神妙な顔つきのまま、白井さんが話を切り出した。


「遅くなってしまったけど、蓮くんに全部話したよ。さくらさんが時々親御さんと話していたことも、全部」


 「さくらさん」と彼は言う。きっと私が「いきなり呼び捨てはナシですよ」と言ったからだ。律儀な人だな、と感心する。


「あ、そうなんですか。わかりました。じゃあ今度一緒に話しに行けますね」


「そうだね。ところで……今日の昼に会っていた女性は、会社の取引相手なんだ。誰にでもああいう態度を取る人で……」


 思いがけない話題から始まってしまって、湯呑を持つ手が止まる。ああそうだ、弟に大国ホテルに行くと伝えてあったんだと気づき、今度は違う胸の痛みがやってきた。まるで子供が隠れてイタズラしたのが見つかってしまった時のような。でも私は子供ではない。きちんと対応しなければならない。


「お仕事、大変でしたね」


「あの時見ていたんだよね」


「ええ」


 煎茶のアルミパックを開けると、お茶の良い香りが広がる。多くを話すのは悪手だ。白井さんは会社のお客さんであり、弟の上司なのだから。自分側を優位に進めるためには、相手の出方を待つ必要がある。


「きみに勘違いされたくない。あの人とはただの会社同士の付き合いでしかない」


「そうでしたか、お疲れ様でした」


 クリアに見えているはずの白井さんを直視できずにいるため、彼がどういう表情をしているかはわからない。とにかく仕事のように淡々と進めていくだけだ。でも、苦しい。彼の香りが胸の奥まで入ってくるようでとても苦しいのにいつまでもその香りを堪能したいという気持ちもあって、自分自身の整理がつかない。


「少し窓開けますね」


 雨が降っているが、少しだけなら大丈夫だろう。キッチンの窓を開けに行って振り返ると、白井さんがうつむいているのが見える。やはり表情はわからないままだ。


「本当に、勘違いしないでほしいんだ。あの人は……」


 ぱっと顔を上げて真剣な目でこちらを見る彼が言い終わるのを待たずに、私は明るい声で言い放った。


「勘違いって何ですか? そもそも私には関係ありません」


 白井さんは寂しそうな目で私を見つめる。この人はずるいな、と思う。寂しさなんてそんなに簡単に表に出してはいけない感情なのだ。


「白井さんは会社のお客さんであり弟の上司でもあるけど、私とは直接の関係はないので……あ、両親と話をさせてもらう時は別ですが」


 言いながら私は、何で寂しいって表に出してはいけないんだっけ? いつからだった? ああ、両親が亡くなって……あちら側の世界にはいるんだけど……弟と二人暮らしになってからだったかな? などとよけいなことを考えていた。そこを突かれた、のかもしれない。ビジネス上では痛い失態だ。


「関係ある。さくらさんは僕の好きな人だから」



**********



 ちょうどその頃、蓮は隣の家で、牛乳を持って行ったのにお茶を出され、食パンを持って行ったのに鍋焼きうどんを出されていた。ソファに座る蓮に猫が体を寄せてきて、心地よい温かみを感じる。時々耳を澄ませてみるが特に大きな物音や悲鳴などは聞こえてこない。


「おいしそう! いただきます!」


「どうぞ召し上がれ。熱いから気をつけてね」


 老婦人はニコニコしながら蓮を見ている。久し振りの穏やかな空気を味わいながら、蓮は思い切り甘やかされていた。念のためテレビの音を小さくして、耳を済ませながら。

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