15.高級食パンを買えなかった女


 今年の梅雨は長く続いている。その日も私は傘を差し、同僚に贈る誕生日プレゼントのために繁華街を歩いていた。輸入雑貨やしゃれた文房具などを扱う店でプレゼントを吟味し、購入する。時計を見ると、時刻はまだ午後一時半だ。たまには大国ホテルでお土産でも買って帰ろうかな、確か今シーズンの新作パンが発売されているはず、と思いつき、弟に「大国ホテルでおいしいパン買って帰るね」とメッセージを送った。きっと「食パン買ってきて」と返信が入るだろう。弟は、焼かないそのままの食パンと牛乳というコンビが好きなのだ。


 ホテルに向かって歩いていたら、高級車が数台停まっている車寄せが見えた。さすが大国ホテルだなぁなんて思いながら横を通り過ぎようとすると、見知った顔を見つけた。白井さんだった。ぱっと見ただけでハイブランドだとわかるような高品質のスーツにきちんとセットされた髪型という珍しい姿に目が釘付けになってしまい、心臓が大きく鼓動を打ち始める。お父さんに任された会社の仕事があったんだろうか。その格好良さを目に焼き付けたくなったが、先日の食事のあと「ごちそうさまでした」というお礼以外は連絡をしていなかったという気まずさもあり、私は見つからないように早足でその場を離れようとした。


「達也さん」


 艶のある女性の声で呼ばれる白井さんの名前を耳にして振り向くと、その声に呼応するように白井さんがにこやかに微笑み、停車中の車までエスコートするのが見えた。


「次は仕事以外の場所でお会いしたいわ」


「ええ、そうですね。ぜひ」


 賛同の言葉を紡ぐ彼の声は「またお会いできるのを楽しみにしています」と続く。すると彼女は白井さんの肩にその白い手を置き、頬にキスをした。耳元で何か囁いていたようだが、内容まではわからない。


 とてもきれいな人だった。ほっそりとした体のラインは女性らしく、歩き方や所作もあでやかで、ロイヤルブルーの美しいワンピースを上品に着こなしていた。彼女と一瞬だけ目が合って、つきん、と胸が痛む。おなかのあたりがつかえて苦しい。私は踵を返すとお土産のパンも買わずにホテルを出て、雨の中、家路を急いだ。



**********



 予定より一ヶ月ほど早く始まった挨拶回りに、白井は心底うんざりしていた。異世界相手の仕事が楽しくなってきたところなのに、取引相手とのランチやディナーの時間を取らなければいけない。挨拶といっても腹の探り合いが必ずあり、神経が削られるのも嫌だった。白井にとっては、蓮と軽口を言いながら仕事したり、さくらと食事したりする時間の方が大事なのだ。


 今日の相手は「昼食を一緒に取りましょう」と言ってくれた。ランチは比較的時間を取られなくて済むのでありがたい申し出だ。飛ぶ鳥を落とす勢いの新鋭企業の女性役員である彼女は美しい装いで現れたが、白井の心が動かされることはなかった。どんな相手であろうとただ「これから私が会社やります、よろしく」と言い、相手がこちらの腹を探るのを阻止する作業を行うだけだ。


 大国ホテルでの昼食会はつつがなく終了した。彼女が乗る車を運転手が回している間に車寄せまで一緒に歩く。到着した車までエスコートすると、彼女は他の誰にでもそうするように白井をファーストネームで呼び、「次は仕事以外の場所で会いたい」と言った。この甘言に惑わされて誘いをかけようものなら即座に取引を終了され、会社の生命が危うくなるのだ。白井はそのことを知っており、特に惑わされることはなかった。いや、たとえ知らなくてもそんなことにはならなかっただろう。


 あとは車に乗り込むだけという場面で、彼女は白井の肩に手を置いて頬にキスをする真似をした。戸惑う白井に彼女は、「さっきからミントグリーンのワンピースのかわいい子がずっとあなたのことを見ていたわよ。お知り合いかなと思って勘違いさせておいたわ」と耳元で囁いてから帰っていった。


 驚いて後ろを振り返ったが、誰もいない。ずっと見ていた? 誰だろう、知り合いだろうか……ミントグリーン……まさか、さくら? あれからあまり連絡を取っていなかったが、ここにいたのか? もしさくらだとしたら、偶然だったのか? 偶然でなければ何のために? 疑問だらけの自分がとても滑稽に思えた。自分はさくらのことを何も知らないのだ。お茶を飲みに行って、食事にも行って、楽しく話して、笑い合ったりしたのに。両親と話す彼女を微笑ましく見つめていたのに。



**********



 白井が重苦しい気持ちを引きずりながらタクシーで家に帰ると、蓮がモニターで商人と話していた。


「おかえりなさい。あれ? 着替えなくていいんですか?」


 スーツのままで部屋に入ってきた白井に蓮は声をかけたが、「うん」とだけ返されて会話が終わってしまった。


「どうしたんですか? 元気ないですね。そんなに疲れました?」


 商人と話し終えたところだった蓮は機器の電源を切り、扉付近でじっと動かないままの白井に歩み寄る。


「あ、髪と服ちょっと濡れてますよ。拭かないと」


 タクシーを使っても門から玄関へと歩く間に濡れてしまうんだな、広い家は大変だな、などと考えながら蓮は洗面所からタオルを持ってきて、背中を丸めている白井の頭に乗せた。


「俺も弟ほしい……」


「はいはい、そうですね」


 いつもの口癖が出てきたが、一人称が「俺」になっていることに蓮は気づいた。蓮もいつものように適当に返したが、やはり元気がない白井が心配になる。


「大丈夫ですか? くっ、身長差七センチが恨めしい……もうちょっとかがんでくださいよ、拭いちゃいますから」


「……弟になって」


「はいは……ん?」


「蓮くんが弟になればいい」


「まあ、もう弟みたいなもんだとは思いますけど、さすがに白井家みたいな大きな家の子になるのはちょっと」


 蓮が冗談交じりに返答すると、白井の驚き発言が飛び出した。


「じゃあお姉さんに結婚申し込めば……あーでも無理、俺には無理……」


「えっ、は? 何言ってんですか」


 だいぶ白井の言動に慣れた蓮だが、さすがに結婚というワードにはしどろもどろになってしまう。


「っと、ちょうどいいところにさくらからメッセージ……えっ、大国ホテルのパン買えなかった? 何で? 売り切れ?」


 白井がはっと顔を上げると、頭に乗っていたタオルがぱさりと床に落ちた。


「白井さん?」


「大国ホテルに、いた、のか……?」


 落ちたタオルを手に取ると、蓮は低い声でスマートフォンを握りしめたまま言った。


「……さては……何か、ありましたね?」


 今日はどんなに帰りが遅くなっても白井に全部吐かせてやると、蓮はこの部屋に腰を据える覚悟を決めた。

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