14.極秘事項に関わる男
初出勤から一ヶ月半ほど経ち、凡ミスなどの失敗はあったが、蓮もだいぶ仕事に慣れてきた。そして白井にツッコミを入れることにも慣れた。蓮の想定通り、彼は有能だがどこか抜けているというタイプの人間なのだ。
なお、日曜日は朝からの勤務のため毎週一回は忍びの者……ではなく、家政婦さんが作るおいしい昼食をごちそうになれるのだが、やはり家政婦さん本人には全く会うことができず、海鮮塩焼きそば以外にもコツを教わりたい料理がどんどん増えてしまっている。
「何で会えないんですかね……あんなに早く扉開けてるのに……。まあすぐにやめるつもりはないので、いつか会えるとは思いますけど……」
今日も会えなかった。食器を取りに来てくれる時は二人とももう仕事中だ。タイミングの問題ではないような気もするが。
「最初に持ってきてもらった時に挨拶したから、それでいいと思ってるんじゃないかなぁ。今度会ったら伝えておくから」
「本当ですか? お願いします。あっ、そういえば契約内容のこと聞くの忘れてました。勤務時間変更しますか? 朝からの日は白井さんいつも眠そうだし、大変じゃないですか?」
「……契約内容? ……あー、うん、そうだね……うん」
頭の回転が速い白井にしては珍しく、歯切れの悪い返答だ。蓮が首を傾げてクエスチョンマークを飛ばしていると、白井は短く息をついてから蓮の目を見据えた。
「勤務時間はこのままでいい。確かに眠いけど、この先忙しくなったらそうも言っていられなくなるんだ」
「そうですか、わかりました」
「あと、契約期間についてなんだけど……」
「契約期間?」
次に白井が発した言葉は、蓮の想定外だった。
「次の契約は、契約期間が大学卒業までになる。そして卒業してからも、ずっとここで勤務してもらう」
「……はい?」
「だって蓮くん、絶対に外部に漏らせない超すごい極秘事項を知ってしまったんだよ。申し訳ないけど、外の会社に就職してほしくないんだ。僕の目の届くところでこの仕事を続けてほしい」
あーなるほど、言われてみればそうだな、普通は異世界と交流するとかありえないしな、もし逃亡したら忍びの者に追いかけられて口封じされたり? などという軽い気持ちが湧いてくる。白井のゆるい雰囲気に慣れてしまったからだろうか。こんな時、本来はもっと重みのある冷たい感情や、熱い怒りの感情を持つはずだ。
……いや、きっと無意識のうちにわかっていたのだ。もう後には戻れないと、あの日、さくらと一緒に話を聞いた時から。大学の仲間たちはもう就職活動のことを考え始めていて就活対策などを調べているのを見ているというのに、蓮は何も考えていなかった。
「ということは」
「うん」
「つまり、卸問屋に永久就職すると」
「そんな感じ。本当に申し訳ないとは思うんだけど……って、意外と冷静だね」
「こうなるって予想してたのかもしれません。ちょっと自分じゃ気づいてませんでしたが、言われてすぐになるほどって納得しちゃいました」
「最初は明らかに警戒してたのにね、蓮くん」
最初に会った時の蓮を思い出しているのか、白井が含み笑いで話し始めた。
「怖い顔してたから、怪しい業者だと思われてるんだろうなって」
むず痒いところを突かれてしまった。そう、確かにあの時蓮は警戒していたのだ。
「それだけじゃないですけどね」
ふふん、と、蓮は顎を持ち上げて粋がってみたが、それに反するように白井の元気がなくなっていく。
「お姉さんのことなら何も心配いらないよ。本当に、何もないから」
あ、これもバレてたな、と、顎を引いて通常モードに戻った蓮だったが、白井の元気がなくなった理由は見当がつかない。何となく返答するのが憚られて、蓮は黙り込んだ。
二人はしばらく静かな時間を過ごした。書類を動かすカサカサいう音やパソコンのキーボードがカタカタいう音、エアコンの音だけが聞こえる室内で、先に話を切り出したのは蓮だった。
「こんな世間知らずの若造でいいんですか?」
小さな声でおそるおそる問う蓮に白井が視線を向けて答える。
「全く問題ない。僕は蓮くんを評価している。世間はこれから知っていけばいい」
「そう言われるとうれしいです。でもその、さくらもこのことを……」
さくらもここに永久就職することになるのだろうか、せっかく就職してから独学で勉強し、若くして昇給できたというのに、もし転職先が別業種だったら本人が大変では? という心配が生まれる。
「あー、うん、お姉さんは実務に携わってるわけじゃないから。口止めはしてあるけど」
「そうですか」
「……まあ、あとは追々……」
「追々、とは」
「検索エンジンに入力するみたいに聞くのやめてくれる?」
白井が少しむっとした顔つきで蓮を責めるようなことを言うが、その言い方は柔らかい。この人はいつもそうだ。蓮がミスをしても失礼なことをしても飄々と受け入れてくれる。もともと物腰が柔らかいため、多少叱られても嫌な気持ちになることはない。入ってきた依頼についてちょっとした議論を交わしたこともあるが、相手が白井だから臆せずに言いたいことを言えたのだろう。
「あの、知り合ったばかりなのにこんなことを言うのは失礼かもしれませんが」
「ん?」
「僕はまだ大学も卒業できていなくて、両親がいないせいもあって家でもさくらに叱られることが多くて」
「うん」
「大人になりきれていなくて……白井さんが持っているようなびしっとしたスーツも着たことがないんです」
「成人式で着ればいい。来年の一月なんてすぐだよ」
白井の妙な慰めの言葉が何故か蓮の心の奥に心地よく染みてくる。
「でも白井さんやこの仕事と相性がいいのか、少しだけどお役に立ててるって感じがあって」
「そうだね、少しじゃないけど」
白井がふんわりと笑って同意してくれたため、蓮の表情もゆるんだ。顔を上げ、白井の目をしっかりと見る。
「変な言い方だけど、自分は幸せになりつつあると思っています。これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ。今後はもっともっと働いてもらうから、もっともっと幸せになれるんじゃないか?」
冗談めいて言う白井の後ろの窓に、初夏の雨が降り出していた。窓を伝う雨粒を眺めながら蓮は、自転車で来てしまったことではなく、わずかににじんだ涙の行方を心配していた。
**********
「幸せになりつつあるって言ってましたよ」
深夜、白井がモニターに話しかける。その表情はとても優しく穏やかだ。
「姉弟仲良く元気に暮らしていて十分幸せなんじゃないかなとは思いますが……、きっと何か、本人にしかわからない、満たされないものや自己嫌悪のようなものがあったんでしょうね」
その後二言三言話すと、白井は機器の電源を切った。ひゅうん、という音が流れ、しばしの静寂がその場を支配する。
「あーあ、別の会社やりたくないな……」
後頭部をぽりぽりとかきながらこぼす白井の小さなつぶやきが、深夜の空気と混ざり合っていった。
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