6.上司を監視するお仕事


「ぶっ……くっくっくっ……」


 白井が床に座り込んで笑い始めてしまった。蓮のツッコミが全くの予想外だったのだろう。彼の体を震わせながら笑う姿は蓮を戸惑わせている。もうすぐ就業開始時刻だ。早く仕事を教わらないといけない。


「蓮くんツッコミもできるんだね」


 目にたまった涙を拭きながら白井が立ち上がる。


「えっと、そんなつもりはなかったんです、すみません。シフト時間変更のことは後でいいので……仕事始めなくていいんですか?」


 蓮は真面目に就業開始を促すが、白井は急いでいないようだ。


「謝らなくていい、おかげで完全に目が覚めたよ。じゃあまず僕の部屋に……ぶふっ!」


 どうやら笑いのツボというものが刺激されまくっているようだ。蓮にはそんなにおもしろいことを言ったつもりは全くないため、戸惑いも強くなる。というかもうこれ全身ツボだな、と蓮は冷静に観察する。


「早く回復してください。この間の部屋でいいんですよね?」


 ひーひー言いながらうなずく白井にボディバッグから出したポケットティッシュを渡し、蓮は進んだ。



**********



 前回通された部屋の奥にはもう一つ部屋があり、白井はそこで仕事をしているそうだ。長時間の作業を想定してなのか、ソファベッドや簡易キッチン、シャワールーム、トイレがついている。極秘情報を漏らすことのないよう常時鍵がかかっていて、鍵がないと外側から開けることはできない。白井のみが所持しているその鍵を、蓮も持つことになった。


「もしかしたら午後から外出になったりするかもしれないから、そんな時はこれで施錠して帰ってほしい」


 最初は固辞していた蓮も、そう言われると受け取らざるをえない。手の平に乗せられた鍵は、実際の重さよりも重く感じてしまう。


「わかりました」


 素直に返事をする。本当にただのバイトが持っていていいんだろうか……と思ったが、心にしまっておくことにした。伝えても無駄な気がしたからだ。


 最初に教わった仕事は簡単だった。まずは依頼書を整理し、パソコンを使って表に移していく。表には日付・依頼主・依頼品・個数・備考などの欄があり、蓮は教えてもらった通りにその表を埋める作業を行う。それが終わると、完遂した案件の空欄を適宜埋め、その部分をグレーで塗りつぶすという作業が入る。


「すみません、時間かかっちゃって。これでいいですか?」


 指示された作業を終えて一呼吸置いてから白井の方を振り向くと、彼は気持ちよさそうに椅子の背もたれに首を預けて居眠りしていた。松葉色のちりめん生地の胸元が規則的に上下している。


「えっ、うそだろ……?」


 言葉が悪くなってしまったが、聞いている者はいない。蓮はずり落ちていた手触りの良いひざ掛けを体にかけてやり、静かにため息をついた。


「さくらじゃないんだから」


 よくソファでうたた寝してしまうさくらを思い出し、二人は似た者同士なのかもと考える。


 他に指示されている仕事はない。何をしようかと考えていると、机の端の”大至急!”と大きく書かれた依頼書が目に留まった。そりゃ中には急ぎもあるよなという呑気な感想と、一体誰がどこから依頼してくるのかという現実的な感想を同時に持つ。販売などはモニターを通して行うと言われたのを思い出し、これから様々な人物と話すことになるのだろうと考えると、蓮の緊張感が一気に増した。


「ああ、ごめん」


 白井の目が覚めたらしい。蓮の緊張感とは裏腹に、彼は体を起こしてからもリラックス状態だ。


「いえ、時間かかってしまったので……言われたことは終わらせたんですが、ちょっと見てもらっていいですか?」


 ひざ掛けを手に取り、ありがとうと礼を言いながらパソコンの画面に視線を移す白井を見ていると、先ほど高まった緊張感がどこかに吹き飛んでしまう。


「よし、問題ない」


「本当ですか? 五秒くらいしか見てないじゃないですか」


「ちょっとって言ったじゃん」


「それは言葉の綾です」


「じゃあ何秒くらい見ればいい?」


「何でキレながらバイトに聞くんですか。三分くらいじっくり見てくださいよ。あ、見るだけじゃだめですよ? 間違いがあったら教えてもらわないと」


「えー……三分長い……」


 初出勤バイトが腕組みして上司の仕事ぶりを監視するというおかしな状況になってしまった。しかし実際ちょっと抜けているところがありそうな白井にはちょうどいいはずだと、蓮は自分を納得させる。


 結果、監視作業は一分ほどで終わった。蓮が行った事務作業には特に間違いはなかったそうだ。少々疑わしい部分もあるが、あまりのんびりしていてもよくないだろうと、次の仕事を教えてもらうことにした。


 他に教わった事務作業を終えてチェックしてもらったところ、やはり特にミスは見当たらないと言われた。こういった事務作業は難しくはないが時間がかかるため、最近では白井の負担になってきているとのこと。それなら女性のバイトでもよかったのでは? どうして男子学生限定? と疑問に思ったことを聞いてみたら、「密室に女性と二人きりは危ないから」という答えが返ってきた。この部屋に女性と二人きり……と想像し、よけいなことは言わずに大きくうなずいた。白井も蓮の目を見て大きくうなずいてくれた。二人の心が通い合った瞬間だった。なお、”学生”については返答をもらえていない。年上の人より若者の方が扱いやすいからだろうか。


「次は買付だけど、お昼食べてからにしよう」


「はい。あ、今日弁当とか持ってきてないんで、コンビニで買ってきてここで食べてもいいですか?」


「ああ、うちの家政婦さんに二人分作ってもらえばいいよ」


「えっ、いいんですか? 時給から引かれたりします?」


 給料の心配をする蓮の言葉を白井は笑いながら否定し、「これからは毎回作ってもらおう」と言ってくれた。家政婦さんは料理上手らしく、「期待していいよ」とも。食は生物が生きていくうえでの基本必須項目だ。蓮が良いバイト先が見つかったなぁと考えるのも自然なことだろう。たとえ上司にツッコミを入れる作業と上司にひざ掛けをかける作業と上司を監視する作業が増えたとしても。

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