5.上司にツッコミを入れる男


 六年前のゴールデンウィーク中に観光バスの事故で他界した両親は、事故に遭った時子供たちへのお土産を持っていた。学業成就で有名な神社のお守りを二つ、蓮とさくらのために旅行先の神社で買ってくれていたのだ。この件で、蓮には姉のさくらにも言えず内緒にしていることが一つある。


「これのおかげとしか、思えないんだよなぁ」


 午後六時前、まださくらは家に着いていない。ぽつりと独り言をつぶやきながら自室の机の引き出しを開けて濃藍のお守りを手に取る。


「英語の文章が突然するする頭に入ってくるようになるとか……」


 白井を訪ねた時に彼が着ていた濃藍のちりめんの着物は、蓮にこのお守りを連想させた。更に「言語センスが必要」と言われたということが、小さな点と点が目に見えない糸で繋がったような淡い縁を感じさせていた。


「国語はまだしも、英語なんて全然わかってなかったのに」


 小学校で始まった英語の授業では問題なくても、中学一年生からの勉強の積み重ねがうまくいっていないと、通常なら十分な習得は困難だろう。蓮は、あまりうまくいっていない方だった。なのに、学習塾や家庭教師などに頼ることもなく両親が亡くなった直後から突然授業内容を難なく理解できるようになったのだ。また、文系より理数系科目の授業の方が好きだったのに、同時期に他言語習得を楽しいと感じるようになった。これに関してはいくら考えても”不思議”の域を出ない。ゆえに、さくらにも言い出せず自分の中でぐるぐる考えを巡らせるだけになっている。


「どう考えても謎めいてる」


 さくらには、英語の成績が上がったのは辞書と参考書を読み込んで勉強をがんばったからだと伝えてある。こんな掴みどころのない話をすることによって彼女に両親のことを思い出させたくなかったという理由もあり、結局ずっと言い出せないままだ。心奥にわずかな苦みを感じるのは、故意にではないとはいえ隠し事があるという後ろめたさからか、それとも別の原因か。


「新玉ねぎはやっぱりサラダがいいよな」


 さくらが帰るまでに風呂掃除を済ませてから夕食の支度をしなければならない。このことを考えると沸き起こる心情のかすかな揺れに今日も気づかないふりをして、蓮はお守りを引き出しにしまった。



**********



 家から自転車で十五分、路線バスでも三十分以内という近さのバイト先が見つかったのはいいが、本当に自分にできる仕事なのかという心許なさは消すことができない。使用言語は英語どころではない、全く未知の言語なのだ。それに、他にも色々と覚えないといけないことが多いだろう。仕事とはそういうもののはずだ。


 蓮は不安をどこにも押しやれないまま、初出勤のために地図を表示させたスマートフォンをボディバッグに入れてから自転車で家を出発した。


「おはようございます。今日からお世話になります」


 今日はパーカではなく、白シャツに紺色のジャケットを着ている。ファストファッションの店は本当にありがたいと蓮が常々感謝の気持ちを捧げている店で買ったものだ。


「うん、おはよ」


 家政婦さんではなく白井が直接出迎えてくれたが、眠そうだ。やや垂れ気味の目尻がよけいに下がっているように見える。


「各方面への挨拶回りが大体八月下旬あたりから始まる予定なんだけど」


「え、あ、はい」


 長い廊下を歩いている最中、唐突に始まった話に耳を傾ける。


「色々考えてたら深夜になってしまってね。実は僕、小心者だからさ」


「小心者、ですか? ただ準備を怠らないようにしているだけですよね?」


「……ありがとう。成人しているとはいえその年齢でその気遣いは大したものだね」


 白井は少しだけ目を見開いた後、ふんわりと口元に笑みを浮かべて礼を言った。が、蓮には礼を言われる意味がよくわからなかった。経営者になるとは、様々な事物について事前の確認や準備が必要なものだというイメージから出た言葉だったのだが。何かおかしかったのかもしれない、気遣われているのはこちらの方かもしれないと思うと、顔が赤くなるのを感じてうつむいてしまう。


「え、いえ、その……、僕の方はシフトが少しくらい遅くなったりしても平気ですよ。次の日に響かなければ」


 ずっとうつむいたままでは変に思われてしまうと、多少無理に話を繋げてみた。先日家に郵送されてきた契約書は作り直しになってしまうが、上司でもあり仕事を教わる先生でもある白井がこの様子では、この先が心配になる。変えるべきものは早い段階で修正しておいた方がいいだろうとの判断からだ。


「うん、もし必要そうだったら言うよ。あ、そうそう、タイムカードとかないからさ、ちょっとくらい遅刻しても……」


「いやそれゆるすぎです。契約書作ったの白井さんでしょ」


 まさか勤務初日に上司の言葉尻をひったくってツッコミを入れることになるとは思っていなかった。

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