第10話 悪書

一階の、『魔族への鉄槌』が積まれた台の前で、なにやら騒ぎが起きていた。

近づいてみる。

静けさというか、私語を慎む雰囲気のある本屋にあって、騒ぎが起きているということ、それ自体が異様であったが。

そんな異様さをかき消すような異様が、そこにはあった。


「こんな、こんな紙くずを売るんじゃあない!」


吠えていた。

老人である。

ジュークリオ老を連想したものの、直ぐに、全く違う男であるとわかった。

白いひげをぼさぼさに伸ばした禿頭の老爺が、唾を飛ばす勢いで吠えていたのだ。


「これはだな」


老人は台の上に積まれた書を───『魔族への鉄槌』を示す。


「いたずらに嘘を、虚偽を撒き散らす悪書であるぞ! こんなものを売りに出すなど、恥を知れ、恥を!」


一見すると気でも狂しているような言動である。


営業妨害他ならない。


周囲の客も、迷惑そうに老爺を見ている。

私はというと───正直、面白かった。こんな光景、何度と見れるものではあるまい。享楽好き、好事家の末席としての矜持に訴える熱が、その老爺から放たれている。混沌とした異常事態で、ワクワクとする期待を抱く者は多いだろう。それが不謹慎なことであったとしても。脳よりも心が先にあるのだ。面白いと感じる情動を制御するなどできぬと思う。


何の話であったか。

老爺である。


業務妨害の老爺の話である。

私は彼の気迫に溢れた訴えに面白さを覚えた。

それと同時に、興味も生まれた。

この人物は、何故こんな行動に出ているのだろうか。


「誤りなのだ! 魔族が身近に潜んでいるワケがない!! ましてや拷問で暴き出そうなどと!」


先程、店員の言っていた言葉が思い出される。

かの書籍には、そのような内容が書いてあるのだったか。


「誤った理と誤った暴力を肯定する悪書を、私は全力で以て否定する!」

「お爺さん」


そこでやって来たのが、先程私にあれを勧めた店員であった。

彼は老爺の前に立つ。

店員の方が背が高く、老爺を見下ろす形となった。気迫と舌鋒に気おされていたからか、背の高そうに思えた老爺であったが、若い店員と並ぶと、頭一つ分は小さい。


「ウチは本を売る店です。買う気がなく、他のお客さんの迷惑になるような行為をするというのであれば、至急出て行っていただきます」

「迷惑だと! 迷惑なのは貴様らだ。儂のこれは啓蒙である。間違った知は暴かれ、正しき知を啓かねばならん。それを迷惑だなどと、愚痴蒙昧をほざくでない! 目を、覚まさんか!」

「言っても分かっていただけないのでしたら」

「まあ、待ちたまえよ」


店員が何かしようとした。恐らく、警備のものを呼ぶのだろう。だが、それではこの老爺が追い出されてしまう。

まだ彼の主張の大事なところを聞けていない。


根拠が分からない。


何故、彼はこの本を悪書と呼び、攻撃するのか。それを知りたい。

なので、私は割って入った。


「ご老人。あなたはこの本をしきりに誤りであるというが、その根拠はあるのですかな」


突然割って入った私に、流石の老人も唖然としたようである。しかしそれは一瞬。すぐさま調子を取り戻して、彼は言う。


「根拠はある! 例えばだ───『女は、その迷信、欲情、欺瞞、軽薄さにおいてはるかに男をしのいでおり、体力・知力・勇気の無さを魔族と結託することで補い、復讐を遂げる。魔術に頼り、穢れた血の友人を克服し、執念深いみだらな欲情を満足させんと欲する。故に女は魔族に近く、女の化ける魔族も多い』……これはそこな悪書の一節である。違和感は、覚えんか」

「はあ。まあ、確かに」


覚えることは、覚える。

女に対する、迸るような敵意のこもった一節であると思う。

感心した。書いてある内容にではなく、それを諳んじることのできる老爺にである。なるほど、これは確かに、無根拠で避難しているわけではないらしい。確かな根拠があって、彼はこの書を、悪書であると糾弾している。

その、根拠が、今読み上げた一節である。


「確かに、これはなんともまあ」


怒りが感じられる。敵意がこもっている。

───それだけ、である。


説得力の欠片もない。


女性に対する偏見そのものな前提に立って、書き手に都合のよすぎる理屈で、思い込み以外の何物でもない結論を導いている。


「星学的な証拠は載っていないのかね」

「あるが、でたらめだ」


老人は答えた。


「歴史の記述を紐解けば、むしろ魔族には男性型が多いとされている。魔王もまた、男性の姿を取っていたという。女性が非常に魔族に近いなどと、そのような説はこの一冊を除いて存在せんわい」

「ほうほう」

「三十五頁目に人体の解剖図が載っている。この悪書によれば、女と一部の男の身体には、魔族の隠れ潜むための臓器があるという。だが、この世の医書の何処にも、これを裏付ける記述はないのだ」

「しかし───あなたはこの世の全ての医書を読破したわけではないでしょう」

「ないとも。だが、五冊、読んだ。著者は別人であり、国も違い、言語も異なる五冊だ。それらの記述の何処にも、この悪書に記された魔族の臓器は書かれておらんかった」


それだけではない、と老人は続けた。


「図説は明らかに誤りであり、引用された論文はタイトル以外存在せず、証言した医者・学者に至ってはこの世に生まれてすらいない、調査実験も比較される数字もでたらめだ。無論、全てを検証できたわけではない。だが……三百四頁目、『魔族は不死であるがゆえに流水に沈めるが最も有効である。重石を付けた鎖を十三度体に巻き付けて沈めるべし。浮かび上がってきたなら、鎖を千切る程の力を見せたという事であり、それすなわち魔族の証である』……馬鹿馬鹿しい!! これでは死ぬ意外にないではないか!」

「これは……拷問法というより、処刑法では」

「そうだ! 他にも火炙り、串刺し、残虐なる手法による処刑が一通り網羅されておるわ。この悪書はそれらを、拷問として紹介している」


明らかに───と、老爺は言った。


「欺瞞だ。全てが欺瞞に満ちている」


けれど、と。続けた。


「書き方自体は如何にも正しそうに見える。そしてよりにもよって愚か者が騙され、権威を与えおった。枢機卿の一筆だ。……この書は───星学、現代の知をもってすれば誤りだらけでありながらも、公には正しい書物として認められたのだ。これより先、数多の碩学が研鑽の果て辿り着いた知ではなく、この書の内容を正しいと認識する者が多く現れよう。信じてしまうための条件は、満たされているのだ。そして───行き着く果ては」


拷問の名をした、処刑である。


「だから、ああして訴えていたのですか」


それは、ある意味で正しい。正義の行いに近い。だが。


「本来それはご老人ではなく、賢者たちのすることでしょう」

「賢者たちでは間に合わん。彼らの言葉には正しさがあるがゆえに、誤りの指摘には慎重を期さざるを得ん。その間にこの悪書は燎原火の如く民衆に膾炙しよう。賢者が声を上げる頃には、もはや箴言も届かぬほどに膨れ上がっている」


まるでそうなる未来でも見えるように、老爺は言った。

それは、経験からくる言葉だろうか。長い長い過去を生きてきたからこその、繰り返す歴史の流れを直感しての。


「それでもです」


声を上げたのは、店員だった。


「良書、悪書はありましょう。ですが人々は、それを自ら選ぶ自由がある。良書であるから読め、悪書であるから読むな、そうして思想を押し付ける行為を、我々は拒絶いたします」


無論、商売ではあるので、薦めることは多いですが、と彼は付け加えて。


「一時代の価値観で良書悪書を決めつけるのもまた難題でしょう。『マルグリッド式沿海輿地全図』は当時の測量技術の未熟さゆえに誤りが多くありましたが、当時はこれが正しいとされた。ドワーフの民俗を記した『鉱山物語』は現代では貴重な資料でありますが、七百年前の虐殺時代に著されたなら、隠れ潜む彼らをあぶり出し、殺戮するために用いられたやもしれん。良書、悪書は、一時代を生きる個人が決め得るものではない。いや、決め得るものだが、それを他者に強制することはできない、と言うべきですか。元来、読書とは覇道ではなく求道の行い、その果てに魔道へ続くとしても、私たちは一人一人向き合わねばならない。そういうものでしょう。……ご老人、あなたの訴えはその点において明らかなる越境行為。当店はそれを見過ごすことはできませぬ。即刻、お引き取りください」

「……それが、何万もの命を燃やすやもしれぬ書としてもか」

「当店は書店。欲しがる方がおられたなら、悪魔の書であってもお売りいたします」

「愚かな……」


老爺から気迫は失せていた。

己の全霊で以ても、この店の姿勢を変えられないと悟り、打ちのめされた様子であった。

彼は店員へと背を向け、店を出ていく。

その背中が、あんまりにも、無惨に見え、流石にもう面白さは感じられない。


ため息をついた。


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