第7話 真偽

「ああ。書けぬ。愚かなる儂に、勇者を記す資格はない」


 老作家は、そう結んだ。

 大きな体でありながら。

 その姿は、拠り所を失った亡霊のように、か弱く思えた。

 が。

 そんな彼へ───店主が言う。


「資格とおっしゃるが、それは何処で取れるのでしょうか」


「なに」

「正しくなければ記してはならない、そんな決まりはありますまい。聖典、経典、或いは学書の類ならばともかく───物語は、いくら間違っていても、誤りでもよいでしょう」


 例えば───と。店主は本棚により、適当な一冊を抜き出した。


「『ダインの墓には桜が咲いている』。この本には」


 それは───カミラとの話に出てきた、歴史物語である。偶然か。偶然だろう。

 だがなんという偶然か。その本は。


「嘘が記されております」


 そうだ。

 本物のダインはここまで英雄ではない。一人で三百人を打倒した偉人ではあるが───物語に語られるように、一人にて三千人を討ち果たした大英雄ではないのだ。

 その誇張は、物語を盛り上げるための脚色だが。

 言ってしまえば、嘘である。


「この本に限った話ではありません。全ての物語は、嘘なのです。何故か。何故なら───そもそも、それを記した者の考えを全て読み取れる読者などいない」


 それは───初めてここを訪れた時に、主人が言っていたことだ。


 読書とは、それを読んだ時に何かを心に浮かばせることを言う。その時心に浮かぶ何かは、きっと全員、どこか異なっている。


 そもそも文字の伝えられる情報量などたかが知れているのだ。黒い線で象られた記号の連なりが伝える赤色に、同じものは存在しない。誰もが違う赤を連想しよう。それはきっと、作者も同じだ。作者がイメージした赤色は、読者の想像する赤色とは、絶対に違う。となれば、それを記した作者とはまるで違う景色を、読者は自ら作成し、それに浸るのが読書であり───すなわちそれは。


「嘘を楽しむ、ようなもの。そこに作者の意思は関係ない。読み取った情報を基に再構築した何かを、読者は味わうのです」

「であれば、儂の求めた真なるものとはなんだったのだ」

「この世にはありますまい。記憶は不確か。言葉はあやふや。隣にいる誰かが、同じ世界を見ているとは限らない。そんな世界に真なるものは存在しないでしょう」


 しかし、と。

 主人は言った。


「存在しないものを描けるのもまた、物語の醍醐味」


 そう、言う。


「例えば───聖剣の勇者シルヴァンのように」


 過去にそんな英雄は存在していない。

 だが、今語り継がれているのは、聖剣の勇者シルヴァンだ。


「彼は当時の王によってあるべき姿へと変えられた。彼の言行を記す全ては、破棄され、或いは偽られた。シルヴァンは最初から勇者であったのではありません。魔王を倒したがゆえに勇者と讃えられたのです。いいえ、更に言えば、魔王をその剣にて倒したために、勇者と言われた。剣にて倒したというのは、王の情報操作によるものですが、民衆はそれを受け入れ、ここに勇者シルヴァンは誕生した。───これもまた、物語の醍醐味です。存在しない虚像は、大いなる英雄として、今の人々に勇気を与え続けている」


 そして。


「存在しない勇者シルヴァンの価値は、彼が人々に与えた勇気は、感動は、存在した魔法使いシルヴァンに劣るものではきっとありません。いいですか、ジュークリオ様。存在しないものは、存在するものを超えて力を発揮することもある」


 少なくとも───。

 そう、店主は言って。


「私は、ジュークリオ様のシルヴァンが、大好きですよ」

「だが、お前さんにそう言われたところで、儂はもう、書けぬとも。真なるものには、たどり着けぬのだから」

「ええ、たどり着けません。しかし、生み出すことはできる。ジュークリオ様。あなたの作品には現実と見まごうばかりの重さがある。質量がある。そう感じされる筆力がおありです。であれば、作れるはずだ。真なるものを内包した嘘を、生み出すのです」


「真なるものを内包した嘘」


「人間が人間に何かを伝えようとした時には、必ず余白が生じ、それを受け手は埋めねばならない。故に、伝えようとした側とは違うものが、受け手に届くことになる。これが嘘です。小説も、演劇も、このくくりからは逃れられない。であるならば、この世の言葉は全て嘘と割り切るしかありますまい。そのうえで───信ずる真を、作り上げていくのです。現実への立脚、その強みを鍛え上げ───虚構の言葉で現実を生む。誰もがその実在を信じて疑わない、真なる勇者シルヴァンを生み出せばよい」


「だがそれは結局、嘘であろう」


「ええ。しかし、ただの嘘ではありませんぞ。凡百の嘘とは違う。新たな現実を象る嘘です。あなたが目指すべきは、それだ」


 言葉で出来た、この世全てが嘘ならば。

 その嘘を用いて真なるものを描けばよい。


「本とは嘘。言葉とは虚構。作者の意思など、紙に書いた時点で死んでおります。後はその屍から───屍が眠る墓から、何を読み取るか、なのです。それは時として桜であり、時として幽霊である。しかしあなたはその一歩先へと進める。あなたはきっと、桜を見せるか、幽霊を見せるか、そのどちらかを選べる力がある作家です。後はそれを極めればよい。いつかあなたの信ずる、真なるものを、全ての読者に等しく想像させることが出来るまで」


 その言葉は。

 まさに、伽藍であった。荘厳なる大伽藍が、今目の前に広がった気がした。


「……納得はできん」


 老作家は言った。


「だが、そうじゃな。その詭弁に騙されてやろうという気には、なったわ」

「騙されていただけますか」

「ああ……全く、老い先短い老人に、過酷な難題を示してくれたものよ。生きているうちに、あと何作書けるかもわからん。眼も見えなくなっておるというのに」

「頑張っていただきたい。私はこう見えて、あなたのシルヴァンの、ファンなのですよ」


 見れば、老人の顔にはどこか活力が蘇っていた。

 杖を握る手にも、力を感じさせる。

 そんなジュークリオへ、主人は問うた。


「ここは本屋。さあ、何になさいましょうか」


 対する老作家は。


「すまぬが、売るのは、なしじゃ。あの本にはまだ読みこむ余地がある。……そして、買って行きたい本も、今、思いついた」

「なんですかな」

「先へ進むにしても、杖がいる。儂はまず、儂が信じたシルヴァンの姿を改めて再認したい。ついては、ある脚本を買おう。ある劇団を作るための資金へと変えてしまった、古い古い脚本をな」


 その作者の名を。


「ジュークリオ。『勇者物語』」

「かしこまりました」


 あとのことは、言うまでもない。カミラが取ってきて、老作家へと渡した。作家は金を払い、店を、出て行った。

 その動きに迷いはなく、背中は実に大きく見えた。



 さて。


「御亭主」


 私はここで、漸く声を出した。


「ああ、これはまことにすみません。カザイ様も、お客様だというのに」

「いや、この一件に関しては明らかにあちらが重傷であったから仕方あるまい。なにせ大作家ジュークリオが筆を折ろうとすら思い詰めていたのだ。あちらに注力して正解だとも。見ていてなかなか、面白かったし。しかしだねえ」


 私はずっと、気になっていたことを問う。


「何故、ウラード地方に勇者の絵画があるとわかったのだ」

「それはですね。これです」


 店主は、カウンターの奥に掛けていた絵を指した。

 始めてきたときから置かれていた絵だ。星読みの祖、ルーンが描かれた絵画である。


 いや、待て。


 ルーンの絵画、なのか? 確か、初めてこれを見た時、私はルーンの絵かと口にして……それを、肯定も否定もされなかったのでは。

 まさか、と思った。

 店主はそれを、今度は、肯定した。


「ええ。これこそジュークリオ様が目撃した、ウラード地方は大魔族城跡地に眠る大絵画。世にも稀有な、魔族が描いた芸術であり、世に流布された勇者伝説を覆す───魔法使いシルヴァンを描いたものに他なりませぬ」


 杖とローブを身に付け、宝石のネックレスを首から下げた、白髪の英雄が描かれている。

 これは確かに、どこからどう見ても魔法使いだ。


「絵画もまた、書。故に買い取りました」


 そしてこれがあったからこそ、店主は全てを繋げられたのだ。


「さて……調査の報酬をお渡ししましょう」


 ルーンの『星観理論』を受け取って、割引後の金額を支払う。


「そういえば、この、ルーンの方は実在したのかね」

「さて───少なくともこの世は、彼が過去にいたと、そう申しておりますよ」



 ジュークリオと彼の劇団による新しい勇者劇の公演が始まったのは、それから五か月後のことだった。主演であるダルザインは王道を行く聖剣の勇者シルヴァンを見事に演じ切り、一躍時の人となった。王都でも知らぬものなき名優として、公演中は多くの人々を魅了した。

 老作家本人が表に出てくることは少なくなったものの、今でも勇者にまつわる伝説の残る地では、彼と、彼の率いる調査チームが目撃されるという。もはや取材というより勇者調査隊とでも言うべき大所帯となっているらしい。その取材がどのような影響を及ぼすのか、それはまだ、誰にもわからない。嘘でも、虚構でも、真でもなく───まだない、未来の話である。



 さて。ところで私はもうひとつ、知ったことがある。

 姪に本を渡し、そのついでに話したところ、教わったことだ。

 ジュークリオ老は目が悪く、またこの本屋の、或いは主人の名前を聞いていないはずだから、気付かずとも当然であろう。

 しかし私が気付かなかったのは、まったく怠惰どころか愚かそのものである。

 姪にも盛大に呆れられてしまった。


 ───ライドウ書牢。それが書舗の名前であり。


 かの勇者シルヴァンがウラード地方で戦った大魔族の名を。


『吸血鬼』セドリック・ライドウというのだが───


 まあ、それはもう真偽あやふやな、過去の話であるだろう。

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