第5話 脚本家


 翌朝、カミラは本屋へと帰っていった。


 報酬は後日届けるという。取りに来るのであればいつでも渡せるというが、私は届けてもらうのを待つことにした。


 怠惰、というのとは少し違う。これに関しては。行って、本を受け取ったら、それで縁が切れそうな、そんな予感がしたのである。二度とあそこに行くことがなくなるのではないか、などと、馬鹿馬鹿しい、行こうと思えばいくらでも行けるだろうに。しかし、行こうと思えば行ける場所に、ずっと足を運ばず、いつしか存在そのものを忘れてしまった、なんて経験は誰にでもあるだろう。ましてやあの店は、人外魔境とは言えずとも、そこそこ離れた場所にある。恐らく一度縁がなくなったのなら、再訪までには三防壁よりもなお高い壁が立ちふさがるだろう。


 なので、一日であっても、繋がりを長く持たせたかった。

 そういう気持ちの、現れであった。


 屋敷の中でぼんやりとしていた。

 すると、来客を告げるノックが鳴った。


 出てみると、手紙だという。

 本ではない。それに少し安堵しつつ、受け取り、室内で読んだ。


 差出人は、ジュークリオと書いてあった。


 劇作家───ジュークリオ老である。


 内容は簡潔であり、渡したいものがあるから、取りに来てほしいとのこと。

 指定された場所は、劇場であった。



 三防壁の内側、東寄りの区画に、その劇場はある。王立劇場に次ぐ規模を誇る大劇場だった。


 入り口の男に手紙を見せると、裏口に案内された。


 そこに、青年が一人立っていた。


「お、爺さんの客ってあんたか」

「まあ、恐らく」


 案内してくれた男は礼をしたのち去っていった。

 ここからはこの青年が案内をしてくれるらしい。


「ついてこいよ」


 言われたとおりに追随し、通路を歩く。


「しっかしあんた何者なんだ?」青年は言う。「俺もここに来て長いつもりだけど、あんたは初めて見る顔だ」


 真実を言うと、一昨日初めて会ったのだ。

 だが、この青年相手に真実を明かしても良いのだろうか。


「一昨日初めて会ったんだ」


 明かした。まあ、いいだろう。隠すようなことでもない。


「一昨日!?」

「ああ」

「いやー……随分、打ち解けるの早いんだな、あんた」


 打ち解けなど全くしていないが。

 本を買おうとしたら金が足りず、困っていたら後ろからやって来て、買っていかれたのである。それだけの縁だ。会話すら、ほんの少ししか交わしていない。


 それでなぜ呼ばれたのか。謎である。怪奇極まる。


 だが不思議と怖さはない。あの少しの会話でも、ジュークリオ老の義理堅い心はしっかりと分かった。


 私に害を成すようなことは起こらないだろう。


 そういう確信がある。


「爺さんもとうとう惚けたのかなあ」


 青年は確信を揺らがせるようなことを口にしてきた。

 惚けた?


「先日お会いした時には、ジュークリオ老は矍鑠としていたけど」

「でも最近明らかにおかしいんだ。ウラードへの取材から帰ってきた頃から変になったように思う。イザベラたちは気付いてないけど───と、そういやまだ名乗ってなかったな」


 青年はそこで自分の名を述べた。


「俺はダルザイン。今度の劇じゃ勇者役をやらせてもらう予定だ」


 役者だったか。しかも勇者役ということは主演である。

 大物だ。

 姪に言ったらとんでもなく大はしゃぎされそうだ。


「まあ、予定ってだけなんだけどな」


 なにやら奥歯に物が挟まったような、歯切れの悪い補足をした。


「着いたぜ。ここだ」


 気が付けばもう目的地だったらしい。扉の前に立つ。ダルザインがノックする。中から応じる声がした。


「爺さん、客だ!」


 ダルザインが声を張り上げて言った。


「入っていいぜ」

「ああ。案内ありがとう」

「ん。俺はこれから稽古だ。帰りは多分別の奴が出てくるだろうよ」


 ダルザインはそう言って廊下の向こうへと歩いて行った。

 私は扉を開ける。


「おお、来たか」


 ジュークリオ老は一昨日あったときと変わらない恰好で、椅子に腰かけていた。

 部屋は思っていたよりシンプルで、物がひたすら少ない。

 机の上に、ルーンの『杖の振り方』が乗っているぐらいだ。


「どうも。カザイです」

「うむ」


 ジュークリオ老は頷いた。


「少々用事があってな。屋敷を調べさせてもらった。悪いな」

「いえいえ。むしろ光栄です」


 大作家に家を知られているというのは嬉しさが勝る。


「それで、何の御用事ですか」

「うむ……時に君は、演劇の脚本というものと小説というものは、どう違うと思う」

「はあ」


 ───わからない。

 そう言いたい。しかし、そんな怠惰を許さないような圧が、ジュークリオ老の体から発せられていた。


 考えてみるか。と思う。


 脚本と、小説。


「地の文のあるなし、とか」

「地の文のない小説もあろう。セリフの間をどう演じるかも、脚本には書き込まれておるしな。つまり、外れだ」


 外れだった。


「答えを言うとな」


 もう答えなんだ。


「一人で書けるか、否かよ」

「一人で……」

「小説は一人で書ける。だが、脚本は一人では書けぬ」


 書けるんじゃないだろうか。

 一つの紙に向き合えるのは、一人だけだろう。


 いや、そういう物理的な話ではなく。


 ここで言っているのは、もっと広い話か。


「演劇というのは、総合芸術よ。物語という、文学の力。音響には音楽の力。衣装や背景には絵画や美術の力。役者たちには身体操作術の力がいる。そして、その場で観劇する、大衆の力。……だがそれらの何よりも強力な力が、存在している」


 何か分かるか? とジュークリオ老は問うてきた。

 何だろう。


「自然?」

「雨の日だろうと劇は行われる」

「……」


 なんだろうか。

 文学、音楽、美術、身体操作、観客。それらの何よりも強力な、力とは。


「答えは、出資者。スポンサー。パトロンじゃよ」

「ああ」


 なるほど。それは確かに、だ。強力、というか、根源的な力だろう。

 個人の能力だけで、演劇を作ることはできない。文学にも、音楽にも、美術にも、役者にも、観客にも、すべてに金が要る。


 それらを出してくれるのがパトロンだ。


「そしてその力の下、動くのが我々劇団よ。故に、脚本は一人では書けぬのだ。小説は、作ろうと思えば書ける。ペンも紙すら要らぬ。最悪この」


 ジュークリオ老は自分の頭を指で突いた。


「脳味噌にシワとして刻み込めばいい。だが───脚本は、書くときには既に出資者の影響を受けておる。そして、役と、それを演じる役者の要素が加わる。年齢は、性別は、能力は。音楽をどこに、そして何を差し込むか。美術はどうするか。他にも諸々ある。そうした要素を勘案して、脚本は作られる。役者が読むものだからな。ペンと紙も、必要だ。無論、これらは役者も同じだ。脚本に従い、美術を纏い、音楽に乗る。美術もだ。脚本に合わせ、役者に合わせ、音楽と共に舞台を彩る。当然、音楽も同様よ。出資者の下、劇団の全ては複合し、影響しあう。故に───一人では、書けんのだ」

「納得は、できます」

「一人では書けぬ。常に影響を受け続ける。だが、セリフの不備は、物語の不備は、脚本家の責となる。芸の不備は演者の。音楽、背景の責はその担当の。そのように扱われる。出資者には苦言を呈され、部署によれば干されよう、客からは罵詈雑言だ。そうなると誰もが思うのだよ。あれが足を引っ張った。己だけなら、こうはならなかった。もっとうまくできたのに、と。けれどそれは無意味な思考よな。何故なら、そもそも演劇という表現形態そのものが、一人ではどうやっても成り立たぬものだからだ。甘んじて、受け入れねばならん」


 何が言いたいのだろう。

 いまいち、見えてこない。

 それでも呼ばれた手前、聞くことしかできない。


「また、出資者の意向が強く、実に強く影響することもある。……儂は勇者劇を多く手掛けるがの。描きたい勇者像を描けぬことも多いよ。このような勇者を描いて欲しい。或いは、この役者を起用してほしい。そういった形で要求されることもある。断れんとも。断ったら、二度と出資してもらえんだろうからな。───脚本家はのう、支配者ではない。部品だ」

「はあ。まあ、わからないわけではありません。納得はできますが。しかし何故、私なんかに、そんな話を?」

「儂はの、正しいものが書きたかった。だが、そううまくはいかなかった。演劇はその性質上、どう足掻こうと真なるものには迫れない。真なるものを超えたものは作れるかもしれない。だが、真なるもの、そのものには、どうやっても辿り着けん。だから小説でどうにかならんかと模索もした。結論はこうだ───不可能だ」

「そうですか」

「うむ───そう、昨日痛感したのだ。ダルザインには、手間を掛けさせた……」


 なんだろう。

 もう彼の視界に、私はいないのではないかと思えた。


 ジュークリオ老は、自分の過去を向いている。多分、彼の視界にはもう、私はいない。


「それでもなあ。捨てきれんよ」


 そう言って。

 そこでようやく、私の存在を思い出したようだった。


「カザイ君、だったな」

「はあ」

「君を呼んだのは他でもない。これを渡そうと、思ったのだ」


 ゆっくりとその手が机の上に伸びる。

 まさかと思う。

 彼の皺だらけの細い腕は、ゆっくりと机上を滑るように動き、そして。

 本に触れ、それを掴んだ。

 ルーンの『杖の振り方』だ。


「君はこれを欲しがっていたな。儂にはもう、不要だ」

「───それは……」

「必要なところは分かった。本とは情報だ。必要なところさえ分かれば、後は良い」


 君にやろう。ジュークリオ老はそう言った。


「……受け取れません」


 私は断った。

 そうだろう。

 受け取れるわけがない。


「それは、あなたが買い取った物です」

「そうだ。だから所有者は儂だ。誰に渡すか決めるのも、儂だ」

「しかし……」


 本音を言えば、欲しい。

 だが、それは道に反するだろう。正しくないことである。それは分かる。

 ジュークリオ老の持ち物だから、誰に渡そうがいい。それは、誤りではない。


 誤りではないだけだ。

 正しくはない。


「……今の私にも、不要です」


 そんな方法で得た本を、胸を張って姪に渡せるものか。

 そう、思った。


「そうか……」


 ジュークリオ老は、深く息を吐いた。


「であれば仕方ない。寄贈でも、しようかの」


 その言葉が、なんだかひどく、投げやりに思えた。


「……要件は、これで終わりじゃ。こんな用件で呼び出して、すまなかったの」

「いえ」

「外に、案内のものが立っている。外までは彼女に連れて行ってもらってくれ」

「わかりました」


 私は、頭を下げる。


「失礼いたします」


 そして、退室しようとして。

 そう言えば、言っておくべきことを言っていないことを思い出した。


「『青月のシルヴァン』、面白かったです」

「おお。それは、よかった」


 ジュークリオ老は、薄く笑って。


「あれは、恐らくもっとも、真に近い勇者であるな」


 と。これまた不思議なことを言った。


 退室する。

 扉の外には、今度は女性が立っていた。


「イザベラです。ご案内します」


 ついていく。


「……ジュークリオは」イザベラという女性は、言った。「どんなお話を」

「脚本と小説の違いについてお聞きしました」

「真なるものがどうとかは」

「言っていましたね」

「私達にもよく言うんですよ」彼女は笑ったようだった。「真なるものを目指せ。それが口癖です」


 そう言って。しかし笑顔は直ぐに引っ込んだ。


「もう目指せないかもしれませんが」

「なにか、あったのですか」

「いま準備の進んでいる新作が、どうやら頓挫しそうなのです」


 イザベラは、言った。


 それは───聞いていいのだろうか。


 いや、恐らく、駄目だ。部外者が聞いていい話ではない。ただ彼女は、私がジュークリオ老の知人であり、縁の深い人間だと思っているのだろう。だからこんな話を始めるのだ。

 訂正するべきだろうか。私はジュークリオ老とは、特に関係らしい関係のない、本屋で同じ本を欲しがった程度の仲であると。


 なんて。考えているうちに、訂正の機会は失われた。イザベラが続きを話し始めたのだ。


「『王都犯罪月報』という木端の新聞が、勇者の幽霊について報じたのが、出資者の耳に入ったようなのです。勇者の幽霊は、今世にはびこる勇者像は偽りだと言ったようで。……出資が取りやめになるかもしれません。それに、そうした勇者のイメージを多く広めたのは我々ですから───原因の一端は、我々にあるのかも」

「はあ。しかし墓場の幽霊は偽物でしたよ」

「え」

「足跡が出口まで続いてました。あれは悪戯です」

「そうなのですか」

「ですので、それが出資者の耳に入ったとて、出資取りやめにはならないでしょう」

「そうですか。では、安心しました。ダルザインも、勇者を演じれるのですね」


 ダルザインというのは、最初に案内してくれた青年か。勇者役が決まっているという。

 イザベラは我が事のように言った。


「彼は勇者を演じるためにと、いつも頑張っていたんです。一昨日と昨日も、ジュークリオの部屋で個別のレッスンを受けていたようで。日付の変わるまで、稽古していたんですよ」


 熱心で好感の持てるエピソードだった。

 それを聞いていたら、裏口まで着いた。


「ありがとうございます」


 礼を言う。


「公演が始まりましたら、ぜひいらしてください」


 イザベラはそう言った。




 屋敷に戻る。

 やはり『杖の振り方』は貰っておけばよかったかもしれない。

 なんて思った。

 俗物である。

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