第3話 雨の日

 雨が降っている。


 湿り気が肌をむずがせる。屋根に当たる音。壁面を伝う音。間隔をあけて、されど絶え間なく滴る音。それらが地面に染み入る音。


 雨は好きだ。


 紙の匂いが濃くなったように思える。


 外へ出ずともいい。天気が今の私を認めているように思えるのだった。


 はて、何をしていたのだったか。


 ううむと唸り、その声で目が覚めた。


 そうだ。寝ていたのだった───屋敷の己の部屋で、机に向かい俯せで眠っていたのだ。

 眼を開く。何も見えない。見えなくなったかと一瞬焦るが、単に暗いだけらしかった。


 蒸し暑い。

 夏が近い。


 寝汗が前髪をしけらせていた。


 蒸し暑いのだが盛大に寝汗をかいたらしく、肌寒さを覚えて、その不揃いがどことなく心地好い。


 上半身を机から起こす。そして思い出す。


 ───読んでいたのだった。


 ジュークリオ『青月のシルヴァン』。勇者の伝説を翻案したこの小説を、あの店から───『ライドウ書牢』から帰ってから、ずっと読んでいて、気が付いたら寝ていたのだった。


 ページはまだ半分も進んでいない。

 ふうと息を吐く。


 真っ暗と思っていたが、よく見たらカーテンの隙間から見える窓の向こうは雨なれどほんのり明るい。日光こそさしていないが、淡く、明るい。


 夜はとうに開けていたらしい。


 この時間なら、都の上層に住む弟は既に仕事に行っているだろう。


 伸びをして、椅子から体を起こす。不自然な体勢で寝ていたものの、昔取ったなんとやらで、体の軋むような痛みはない。どこでも寝られるのは特技かもしれないと思う。


 カーテンを開くと、やはり雨。それでも淡い明りは部屋に入ってくる。


 まだ些か足りていない。


 部屋を出て、蝋燭を取って戻る。

 部屋の中が明るくなる。十全だ。


 続きを読もうと思う。

 机に向かった。


 ジュークリオ『青月のシルヴァン』とは500年前に魔王を討伐した伝説の勇者を題材とした冒険物語だ。現地にも赴き取材するというジュークリオの入念な調査に裏打ちされた情景描写は卓越した現実味を、単なる線の組み合わせからなる文字の海に与えている。あの腰の曲がった老人が、よくもまあ毎度取材に行けるものだと、尊敬の念を覚える。ああ在りたいものである。


 ───ジュークリオ。ジュークリオ老。文筆ではなく劇作家として知られる人物だ。彼の創作する劇はその大半が勇者物である。まこと勇者シルヴァンが好きなのだろう。勇者が聖剣を抜き、仲間と旅をして、魔王を倒すまでの物語を、時に要素を弄り、手を変え品を変え、切り口を、視点を、とにかく改変しつつとも、やはり強靭な現実性で以て描き出すその脚本には、実に多くの称賛が寄せられている。


 一方で物語文学の方はどうかといえば、これもまた大変好まれている。演劇ではどうしても細部を取りこぼす。これは尺や、扱える道具、役者にまつわるあれこれといった制約があるためだ。一方、完全に単独で作成できる文筆はその限りではないとして、『青月のシルヴァン』には本業である劇作家としては描き切れなかった伝説を拾っては翻案し描いているのだが、これがとにかく面白い。実地調査の綿密が為せる業だろう、マイナーな伝承も拾ってくる、それでいて娯楽に昇華しているのだ。村にいた大蛇を倒した、という何の変哲もないエピソードが、大蛇に捕食されることを利用した死体の隠匿トリックと、それを暴く探偵活劇に生まれ変わっていたのには心底驚かされた。要素の足し方が実に巧いのである。


 今回の巻は三十一巻だが、これはウラード地方にて漆黒の館に住まう魔族との闘争を画く回であった。やはり面白かった。魔族の貴種との問答、星読みの技をルーンから教わり自らも放つシルヴァン。王道から外した内容ながらも地に足のついた勇者像であるのは、やはり確かな筆致によるものだろう。


 いや、本当に面白かった。

 熱中し過ぎてしまった。


 読み終わるころには、正午を過ぎていた。


 そういえば今日はまだ食事をしていなかったことに思い当たる。


 何か食べるかと思い、部屋を出た。

 屋敷の廊下に立つ。


 屋敷といっても、我が生家ではない。流石に弟夫婦の住む家で生活するのは無理であったので、街中の家をひとつ買ったのだった。今はそこで一人のんびりと生活している。たまに家政婦を雇い掃除させる以外、誰かが来るということもない。


 ないのだったが。


「おや」


 階段を下っていくとなにやら珈琲の匂いがする。


 家政婦の来るのは今日ではないが。そう思い、不審を覚えつつ、居間に向かうと。


 そこの机の上には焼きたてのパン、上にベーコン、焼いた卵とバターも塗られている。そのわきに、淹れたてらしく湯気の立つ珈琲。


 その珈琲よりも黒い髪の少女がソファに腰かけており、入ってきた私を見てにんまりと笑った。


「おはようございます、カザイ様」

「なんだいなんだいこれは……カミラ」


 そこにいたのは、昨日訪れた暗黒杉の森林の中にひっそりと建つ奇妙な書舗『ライドウ書牢』の店員、カミラであった。


 状況が、いまいちよく分からない。

 なんなのだろう。


 いや───考えれば、すぐに分かると言えば、分かる。カミラが食事を用意してくれた。それだけの話ではあるのだが、いやしかし根本的に分からないのは、なぜ彼女がここにいるのかということだった。


 わたしはそれを、彼女に問うた。


 せっかく作ってくれたのだしと、パンを頬張りながら聞いた。ちなみに大変美味しい。


「なぜいるんだい」

「主人から遣わされました」

「ふむ?」

「調査の、いわば前金だそうです」


 なるほど。このパンは絶対に調べてくれよと言う念押しでもあったか。

 迂闊に食べてしまったが。いやまあ、元より行くつもりではあったのだから、何も変わらない。むしろかなりの得をしたと言える。


 調査。


 幽霊騒ぎ。


 王都北部外郭の墓地で、夜な夜な現れる幽霊。


 それを調べてきてほしいというのが、主人の頼みなのであった。


「その為だからって、わざわざ私の住処まで調べたのかい」

「はい。三階の戸籍台帳を当たりました」


 あの本の山の中に、そんなものまであったとは。

 まあ、あってもおかしくはない。

 わざわざ調べた事にも変わりない。


「随分執心じゃないか。そんなに惹かれるものかね」


 幽霊騒ぎ。それも勇者の幽霊と来た。確かに興味は引かれようが、それにしてもこれほど調査の念押しをしてくるとは。

 珈琲を飲んだ。暑さが、気持ちよい。

 美味い。

 頭が晴れてくるようだった。


「うまい」


 言った。

 カミラは嬉しそうに微笑んで頷いた。


「自信作です」

「そうかそうか。うん。うまい」

「それで、調査なのですが」


 話が戻る。


「私としても主人がこのように動くのは初めてでして。よく分からないというのが正直なところです」

「なるほど」


 全く納得のいってないものの、とりあえず頷いた。

 己の器を大きく見せたい小心者である。


「北部外郭の墓地だったか」

「ええ。怪異は、そこで真夜中に起こるとのことです」

「真夜中」

「はい」

「今は、昼だが」

「そうですね」

「調査は真夜中になるのだろう。今来たのは早すぎたのではないか」


 するとカミラは少し口をとがらせて。ボヤくように言った。


「主人は中々、外に出してくれぬのです。たまのお出かけでしたので、つい張り切って早めに来てしまいました」

「あの主人がか」


 私などよりよっぽど器の大きく見えたが、意外なところもあるのだなあと思った。

 思っていたら、パンを食べ終えてしまった。

 実に美味かった。


「御馳走様でした」

「はい」

「それで───これからどうしようか」

「どうしましょう」


 カミラは案を持っていないらしかった。

 私としては、晴れているなら散歩でもしたかったが。しかし生憎の雨である。

 出歩きたくない気持ちが大きい。


 しかし───我が家に暇潰しの道具などない。ちまちま集めた本ぐらいだ。それとてすべて読み終えている。それに、あれだけの蔵書に囲まれて過ごすカミラが、本程度で暇潰しになるとは思えなかった。


 仕方ない。


 雨だが、こういう日に出歩くのもおつなものだろう。

 カミラも、中々外に出してもらえないと言っているし。


「散歩にでも行くかね。雨だが」


 そういうと、カミラはにっこりと笑みを浮かべて、頷いた。


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