第4話 ホットミルクと神様
私は、私が嫌いだ。
深夜二時のベッドの上、カーテンの隙間から差し込む月明かりが抱えた膝を細く照らしている。
ずっと昔からそうだった。嫌いで嫌いで、この世からいなくなりたいと思いながらもまだしぶとく生きている。それがまたいやだった。それは普段から感じていることではあるが、今日はいつもよりずっと深くその思考に沈んでいた。過去の記憶が次々と脳内によみがえり、自分の力ではそれを止めることができない。
子供の頃の失敗、感情を制御できずに取ってしまった言動、言わなきゃよかったと悔やんだ発言、仕事で上手くいかなくて叱られたこと。頭を振って消しても次々と浮かんでくる。性格の欠点を指摘されたこと、失望されたこと、笑われたこと……。今の自分が情けなくて、恥ずかしくて涙が出る。ベッド脇に置かれた動物の人形たちの影が不気味に布団の上へ伸び、その暗闇が私を負のサイクルへ引きずり込んで抜け出せない。息ができなくて苦しい。涙で溺れてしまいそうだった。
――助けて、だれか……神様……っ。
そう心で叫んだ時、部屋に響く嗚咽に混じって、こんっという音がした。窓に何かが当たった音のようだ。風で物が飛んできたのだろうかと思ったが、二度、三度とノックのように繰り返されてようやく顔を上げる。
「……?!」
おそるおそる窓の方を見ると、カーテンの隙間からなにか小くて白いものがぴょこぴょこと飛び跳ねていた。
ひとまず泥棒でなかったことに安堵しつつ、パジャマの袖で両目を擦る。枕もとの眼鏡をかけてもう一度よく〝それ〟を見てみると、やや長めの白い毛に大きな黒い目が私を捉えた。今まで見たどの動物にも当てはまらないフォルム……間違いない、これがテレビなどで時々特集されているテンジク様だ。
転勤で天竺町の隣の区域にあたるこの場所へ引っ越してきたのは一年前のこと。時折人前に姿を現す不思議な神様について、もちろん噂は聞いていたが実物を見るのは初めてであった。
そろりと近づいてカーテンを開けてみる。ベランダに赤い実が散乱している。さっきの音はこの実を投げて出していた音だろう。それにしてもここは五階なのに、どうやって上がってきたのだろうか。首を傾げている私をよそに、テンジク様は飛び跳ねるのを止めてじっとこちらを見上げている。
「入れてほしいのかな……」
このマンションはペットは禁止だが、テンジク様はペットとは言えないだろう。外は寒いし、それにこんなつぶらな瞳で見つめられたら誰しも窓を開けて招き入れてしまうに違いない。そう考えていたら自然と指がクレセント錠にかかっていた。
「あの、どうぞ……何もありませんが……」
テンジク様は開けられた窓とベランダの境をぴょんと飛び越えて、とてもあっさりと中へ入ってきた。
――こういう時、どうしたらいいんだろう。
くるりと電気のついた狭い部屋を一周する白い生き物の様子を眺めながら考える。
道端で出会ったとか、駅の改札にいたという話は聞いたことがあるが、家の中にも入ってくるものだとは知らなかった。なのでもちろんもてなし方も分からない。人間の食べものを口にするのだろうか。スマートフォンで調べてみる。検索するとすぐに一部の熱心なファンが目撃情報などをまとめているサイトがあった。
『野菜や果物、パンなどを食べたという情報があり、食べられるものであれば比較的なんでも口にするようです』
「へぇ~」
神様といっても雑食なんだなと思いつつ、とりあえず冷蔵庫を開けてみる。中はがらんとして、野菜もなければ肉もない。昔は料理が好きで一人暮らしをはじめてからは凝ったものを作ったりしていたが、最近は全くそんな気になれず出来合いのものか簡単なものしか作っていなかった。今日も本当は仕事帰りに買い物へ行かなければならなかったのに、食欲もないし一日くらいはなんとかなるかと帰ってきたのだった。あるのは冷凍食品とインスタント食品、あと牛乳くらいである。
――あ、ホットミルクならできそう……。
今は深夜なのでご飯という感じでもないだろう。本当ならそれに添えるお菓子でもあればよいが、そこは砂糖を入れることで我慢してもらおう。
牛乳パックを手に取って振り向くと、ひとつだけある座布団の上にちょこんと座ったテンジク様と目が合った。
「牛乳、飲めますか?」
返事があるか分からないが一応きいておく。すると、
「のめる」
と澄んだかわいらしい声が聞こえた。
――喋った……!
「こ、このままだと冷たいので、あっためますね」
急いでキッチンの方へ行きコンロ下の収納から小鍋を取り出すと、テンジク様もついてきて足元でその様子を伺っている。左右に首(があるのかどうか定かではないが)を傾げながら見上げる姿はかわいらしいが、ふわっとした白い毛がパジャマのズボンに触れるほど近くにいるので、ちょっと動いたら誤って蹴ってしまいそうである。
「あの、座って待っていてもらっていいですよ」
先ほど落ち着いていた座布団を勧めるも、
「みてる。みたい」
と断られてしまった。
一応、神様と人から呼ばれている存在だから、足が当たったくらいではなんともならないとは思うが、もしそんなことをしてしまったらバチが当たりそうなので、コンロの横のスペースを布巾で拭いてそこから見ていただくことにした。
テンジク様にその旨を断ってからそっと抱き上げる。感触は見た目の通りふわふわのもふもふで、重みはないかと思いきや、自然と「よいしょ」と口に出してしまうほど存在感のある体重であった。
鍋にマグカップ二杯分の牛乳を入れて火をつける。弱火で、沸騰させないように気を付けながら木べらでかき混ぜるのをテンジク様はにゅっと伸びあがるようにして覗いている。
「あ、そういえば……」
以前憂鬱な気分がよくなると聞いてはちみつを買って、ずっとそのままにしていたのを思い出した。調味料のストックを置いている棚を開け、奥の方を探すとハチのイラストが描かれたぽってりとした容器が隅の方に追いやられていた。瓶に入った高級なものでなく、スーパーで買った安いプライベートブランドのはちみつだ。
封すら開けていなかったのでセロファンを剥がしてほわほわと湯気の立ち始めたミルクの中に回し入れる。金色の糸がゆっくりと垂れて白い海に溶け込んでいく。あたためられたはちみつは甘い、独特の匂いをさせた。
しばらくかき混ぜていると十分熱せられたのか、ふつふつとしてきたので火を止める。おたまでマグカップに注ごうとして、はたとその手を止める。そういえば、うちにはカップがひとつしかない。しかもそれもテンジク様が飲むにしては大きすぎるような気がする。
慌てて他にいい食器はないか探したが、スープ皿は違うしボウル型の入れ物はもっと飲みにくいしで、悩みに悩んで手に取ったのが味噌汁のお碗だった。これは一人暮らしをする時に実家から持ってきたもので、綺麗な木目にまるみのあるあたたかなフォルムをしている。表面にウサギの絵が描かれた私のお気に入りの器だ。
「すみません、丁度いいカップがなくて……これに入れても構いませんか?」
コンロの前を離れた隙により鍋に顔を近づけているテンジク様に手に持った器を見せると、大きな目を更に大きくしてきゅっきゅっと鳴きながら長い尻尾を左右に揺らした。喜んでいるらしい。
冷めないうちにと手早くマグカップとお椀にホットミルクを注ぎ、テンジク様を先に座布団の上まで運んでからテーブルまで戻る。
「お待たせしました」
目の前にホットミルクを置く。座布団の上とはいえ目から上しか見えていないので、改めて手渡そうかと思ったが、手を伸ばす前に先ほどと同じくにゅうっと背が伸びて小さな丸い手がお椀を挟んだ。あまりにその手が丸いので、器が滑り落ちやしないかと冷や冷やする。
「いただき、ます」
私の心配をよそにテンジク様はふうふうとミルクに息を吹きかけ、ゆっくりとお椀を傾ける。人間らしい仕草を見て、神様ではなく小さな子供が部屋に来ているような感覚になり、上がっていた肩から力が抜ける。
「私も、いただきます」
ホットミルクは手に触れたマグカップの表面よりずっとぬるくなっており、丁度飲み頃だった。じんわりと優しく甘いミルクが冷えた身体に熱を与えてくれる。思っていたより喉が渇いていて、ごくごくと半分ほど飲んでしまう。
――そうか、私、ついさっきまで泣いていたんだった。
突然の来訪者に驚いて忘れていた、渇いた身体と腫れた瞼。そういえば服装もパジャマだし、随分酷い見た目になっている。しかし不思議と胸の苦しさは思い出さなかった。寧ろ先ほどまでよりずっとリラックスした気分だった。
「ぷぁ」
テンジク様は息継ぎをするような声を発し、机の上へお椀を戻した。量は自分と同じくらい入れていたのだが、一度に飲み干したらしく中身は綺麗に空になっている。
「あ、待って、口元が」
ふわっとしていた毛が口周りだけ牛乳でじっとりと濡れていたのでティッシュで拭いてやる。はちみつが入っていたせいか、ややベタつきが残ったので、手拭いを濡らして更によく拭き、ついでに机の上にあったヘアーコームで整えた。その間、テンジク様は目を閉じてじっとしていた。
「はい、できましたよ」
そう言うと、犬猫がするようにふるりと身体を震わせた。まだ少しへたっていた毛が、元の通りふわりとなる。
「ありがと……これ、も、おいしい、かった」
小さな手がお椀を指す。久しぶりに聞く感謝の言葉に、心にぽっと火が灯ったような気がした。
実家にいた頃は休みの日によく両親に手料理を振舞ったっけ。喜んでもらえるのが嬉しくて、休みが近付くと「今回はどうしようかな」っていつもわくわくしてた。私が得意なことはそれくらいしかなかったけれど、キッチンに立っている時は嫌なことを忘れて集中できた。失敗だって楽しかったのだ。
それなのに、一体いつから忘れてしまってたんだろう。
「……あの、どうして私の所へ来てくれたんですか。私が神様助けてって、願ったから?」
黒い瞳がじっと私を見つめる。大きな目に映る自分を見ているとなんだか眠くなってきた。眠れない時はホットミルクを飲むといいと聞くが、そのせいだろうか。
「よくねて、すきなことして、じぶんだいじに」
きゅきゅ、という鳴き声の後、瞬きの間にテンジク様の姿は消えていた。
眠れない日々は、あの深夜の不思議な出会いを境に変わった。夜になると自然と眠気がきて、横になればそのまま眠りにつけたし、目が冴える日はホットミルクを作って飲めばすぐ眠くなった。辛いなと感じる時はたくさんあるぬいぐるみを抱き締めて、テンジク様を抱き上げた時の重みや感触を思い出すと少し楽になった。
自分の性格がまるきり変わったわけではないけれど、張り詰めていた心が僅かに緩んだだけで生活の余裕が出てきた。インスタント食品ばかり買っていたのをやめて食材を選ぶようになったし、そうするとなにと組み合わせようかと考えるのがだんだんと面白くなってきて、また料理をする楽しさがよみがえってきた。身体も栄養が行き届いてきたのか、年が明けてあたたかくなるまでには必ず風邪をひいていたのに、今年はそれもなく無事春を迎えることができた。
衣替えついでに着ていない服は捨ててしまおうとクローゼットを開け、ときめかない洋服を片っ端からゴミ袋に入れていると、あっという間に三袋もいっぱいになってしまった。
残った洋服をもう一度眺める。全部捨てるわけにはいかないから残したけれど、正直あまりときめかない。思い返してみればここ数年新しい服を買った記憶がなかった。
「丁度いいから春物を買いに行こうかな……」
幸い外は晴れて外出日和である。自分の気が変わらないうちにメイクをして、いまいちな服をなんとか組み合わせ、最後にトレンチコートを羽織って街へ繰り出した。
久しぶりに外食したい気分だったので、電車に乗る前に商店街の中にある洋食屋さんでランチを食べていくことにする。ここは前から気になっていたのだが、いつも満席で列を作っていたので入れないでいた店だ。
昼を少し回っていたからか運よくカウンター席に滑り込めたので一番人気であるオムライスを注文する。キッチンでは流れるようにして皿にチキンライスが盛られ、鉄のフライパンでは卵があっという間にふわふわに包まれ、くるりと回転してケチャップの上へ降り立った。
その様子をじっと見ていると、空になったフライパンを置いたシェフが私の前へオムライスを持ってきて、仕上げにナイフですっと真ん中を切る。
「わぁ……」
半熟の中身がとろりと溶けだして、チキンライス全体を覆うように綺麗に広がった。まるで魔法のように。
「どうぞ」
オムライスはそのままでも十分美味しかったはずだが、そのパフォーマンスのおかげでひと際そう感じた。
お腹も心も満ち足りて店を出る。
「好きなことして、自分を大事に、かぁ」
あの時のテンジク様の言葉が頭に響き、エプロンをつけて厨房で働く自分が浮かんだ。
今の会社で働き始めて三年、辞めるには早すぎるかもしれない。でも自分の人生と比べたらどうだろう。どのように過ごしていても歳は取っていくのだ。あの時挑戦しておけばよかったと思うより、やって後悔する方がいいかもしれない。
「ちょっと、考えてみようかな」
珍しく前向きな考えをする自分が嬉しくて足取りが軽くなる。服を買うついでにスーツも買い換えようかな、なんて思いながら。
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