第3話 どんぐりと神様
就職のため、都心への交通の便がよく、比較的家賃の安いこの街に越してきて早五年。一人暮らしもすっかり板につき、休みの日は必要最低限の外出のみで家に閉じこもって過ごすことにも慣れてきた。
天竺町は決して都会ではない。半分観光地にはなっているが、それでも残りの半分はごくごく普通の、田舎っぽい匂いの漂う場所である。だから休日といって繰り出す場所は商店街くらいしかない。
俺は元々インドアな性格だし、ゲームやネットサーフィンで簡単に一日は潰れる。だが、時々ふと仕事以外ではこの一週間誰ともまともな会話を交わしていないことに気づいて、このままでいたらきっと結婚することもなく一人で死んでいくのだろうななどと考えたりする。それでもそう考えるだけで、何か行動を起こすわけではない。母が若くして自分を産んだから生きているうちにひ孫の顔も見られるかもしれないと期待しているばあちゃんには悪いけれど、俺はこの地で一人の自由と開放感を満喫していた。
朝はワイヤレスイヤホンをつけて好きな音楽を聞きながら出勤するのが日課だが、充電切れか故障か、片方の音が聞こえなくなっていた。仕方なくイヤホンをケースにしまって駅への道を歩く。
しんとして張り詰めたような空気に居心地の悪さを感じながら道なりに足を進めていると、どこからかカンカンと金属に何かがぶつかるような音が聞こえてきた。それは雨がトタン屋根にぶつかるような音であるが、今日は快晴。周りを見ても特に何かが落ちてくる気配もない。
不規則に鳴るその音は近くの家の中から聞こえているようで、おそらく古い物入れかなにかの修理をしているのだろうと結論付けて再度歩き出した。
しかし次の日も、そのまた次の日もそこを通れば不思議な音は続いている。今日は静かだと思っても木がざわめくような気配の後にカン、カンカン、と音がした。それは朝だけでなく、夜遅くでも聞こえていたので修理や工事でないことはすぐに分かった。家の中を少し覗いてみようかとも思ったが、コンクリートの塀があるうえに更に目隠しのためか背の高い木が何本も植わっているので様子を窺うことはできない。
――一体なんなんだ。気になるな。
俺は新しく届いたイヤホンをつけることも忘れ、そこを通るたびに心の中で首を捻っていた。
そんなある休日のことである。
買い物の帰りにいつものルートを歩いていると、あの家の前で異変が起こった。いつもまばらにカン、カンと鳴るだけだった音が、今日はやけにうるさい。それも俺がその下を通った時、急にである。それだけではない。風もないのに枝ががさがさと鳴っているのも聞こえる。
明らかに人為的な音に思わず上を向くと、コツリと額に何かが当たった。
「いてっ!」
何が落ちてきたのかと足元に転がったそれを見ると、帽子を被ったどんぐりであった。
「どんぐり……?」
そうか、ここに生えてる木はどんぐりの木なのか。何年もこの道を通っているのに気が付かなかった。普段は塀の内側に落ちるか、道路側に落ちたとしても家主がこまめに掃除をしてくれていたらしい。そういえばこの家の前はいつも綺麗で、ゴミが落ちている所を見たことがない。
しばらく手のひらの上のどんぐりを眺めていると、扉の開く音がして家の中からいそいそと人が出てきた。背の小さな、割烹着を着たおばあちゃんだ。
「あら、あら、大丈夫? 落ちてきた実に当たらなかった?」
「あ……いえ、別に」
突っ立っていたのを見られていたのだろうか、と思ったが、塀があるので自分の姿は家の中から見えないはずだった。
「ごめんなさいねぇ。最近悪戯をする子がいるものだから」
「悪戯?」
おばあちゃんは含み笑いをして木の上を指さす。この時期でも青々とした葉を茂らせた枝の上に、なにか白いものが動いた。
「あ」
俺が声をあげると、葉っぱの間から黒々と大きな目がこちらを捉えた。
「テンジク様なの。時々どんぐりを食べに来ているようなのだけど、今日はやたらと木を揺らしているのが家の窓から見えたから、急いで出てきたのよ」
「へぇ、あんな所にも登るんだ」
駅前や商店街で佇んでいるのを何度か見かけたことはあったが、木の上にいるのは初めてであった。しかし鳥と並んで電線に留まっているのを見たという目撃情報もあるらしいので、案外我々の知らない間に屋根の上などから下界の様子を観察しているのかもしれない。
テンジク様は地面にいる二人を黒々とした目でじっと見つめると、徐に小さな体をゆさゆさと揺らしてまたどんぐりの雨を降らせた。
「これ!」
おばあちゃんが軽く叱ると、きゅきゅっと小さく笑うような鳴き声を発してそそくさと葉っぱの奥に隠れてしまった。
「まったく、さっき掃除したばかりなのに。困った子ねぇ」
そう言いつつもどこか楽しそうな様子で一旦アルミ製の門戸の中へ入ると、すぐに箒と塵取りを持って戻ってきた。早速落ちた実を片付けるらしい。
「いつも掃除してくださっているんですね」
「まあ自分の家が落としたものだからね。車が通るとタイヤで実が割れて道路が汚れるし、私みたいな年寄りが踏んでうっかり転んでも大変でしょう。……それはそうとあなた、用事があるんじゃないの? 構わず行って頂戴ね」
よいしょ、と腰を曲げて柄の短い箒を動かす姿を見ていると急に田舎の祖母を思い出した。この人に似て綺麗好きで、朝早く起きて家の周りを掃除するのが日課だったのだが、ある朝、余所見運転の自転車にぶつかって足を骨折してしまった。田舎だから犯人はすぐに見つかって治療費は払ってもらったものの、歳をとってから寝たきりになると筋力が急激に落ちるらしく、家の中でも杖をつき掃除もままならない生活を送っているのだ。
この道は休日の昼間ともなると自動車やバイクがよく通る。特に若い子らは道路に三列にも四列にもなってしゃべりながら自転車を漕いだりする。それがなんだか気にかかって、自然と手と口が動いていた。
「あの、手伝います。っていうか俺やりますよ。あと家に帰るだけなんで」
「あらそう? 悪いわねぇ」
箒を受け取り、道路の上に転がった無数のどんぐりを集めていく。高いところから落ちた実はそこかしこに散らばっていて、意外と広範囲を掃き清めることとなった。
「こんなところにどんぐりの木があるなんて、知りませんでした」
箒で集めたものを塵取りに集めながらそう言うとおばあちゃんは「シリブカガシ」と聞きなれない言葉を発した。
「え?」
「どんぐりはブナ科の実のことを言うの。コナラとかクヌギとか色々あるけれど、うちの木はシリブカガシという名前。実は食べられるのよ。虫に食われてないか水の中に入れて確認してから茹でたり炒ったりしてね。生でも食べられるわ」
「へぇ~すごいですね」
「そうそう。折角だからあなたちょっと持って帰る?」
感心していると塵取りの中で土埃と少量の枯葉に混じったどんぐりを指さされた。
「いやぁ……」
「あはは、そうよねぇ箒で掃いて塵取りに入ったものなんて食べたくないわよね。じゃあ少し待ってて」
よいしょよいしょと言いながらも動きは素早く、家の中に入って数分後にはビニール袋をがさがさ言わせて戻ってきた。
「これ、よかったら晩御飯のおかずにでもして。あなた料理しないタイプでしょう」
「なんで分かるんですか」
黙って門戸の傍に置かせてもらったスーパーの袋を指さされる。だらしなく開いた半透明の袋の中身は、先ほど買ったインスタント食品でいっぱいであった。
「若い子がこんなものばかり食べてちゃだめよ。ちゃんと栄養つけないと。背が高くてもひょろひょろじゃあ全然モテないわよ」
随分と世話好きな人らしい。最後の一言がぐさりと胸に刺さったが、ありがたくいただくことにした。
礼を言って家に帰り、ずっしりとした袋の中をおそるおそる開けてみると、大きなタッパーの中にひじきの煮付けや筑前煮、きんぴらごぼうがぎっしりと入っていた。幸い、どんぐりは入っていないようだ。
「にしてもこの量……あそこの家、一体何人で暮らしてるんだろう」
数日分のおかずを作って冷凍しておくタイプなのだろうか。試しに筑前煮のレンコンをひとつ口に放り込んでみる。味がしっかり染みていて美味しい。しゃっきりとした食感もちゃんと残っている。スーパーのお惣菜でもたまに買うが、そんなのとは全然違う優しい味だった。最初はこんなにもらってどうしようかと思ったが、あっという間に無くなりそうだ。
一週間後の休日。綺麗に洗ったタッパーと、お礼の緑茶と和菓子を持ってあのおばあちゃんの家に向かう。
あれからなんとなくイヤホンをつけなくなった。音楽を聴きながら歩くのもいいが、耳を澄ませてみると新しく気が付くことがたくさんある。駅に近い一軒家には子供が三人いて朝はいつも騒がしいとか、少し離れた場所にある中学校からは行きも帰りも運動部の掛け声が聞こえるとか、それからこの辺りには色んな種類の鳥がいて、あちこちの実のなる木を渡り歩いているとか、そんなことを面白いと感じるようになったのだ。そうして見ると今までなんとも思っていなかったこの街に急に親しみを感じてきて、案外いいところだなと思ったりする。
シリブカガシの木を見上げる。今日はテンジク様はいないようだ。ほっとするような、少し残念なような気持ちで入口の方までまわってインターホンを押す。
「はい」
おばあちゃんとは別の女性の声だった。娘と同居しているのだろうか。
「あの、この間ここのおばあちゃんからおかずをいただいて、タッパーを返しにきたんですが」
「あぁ、今出ます」
ぷつりとマイクが切れて、その後すぐに玄関の扉が開いた。その姿を見て思わず息を呑む。驚くことに出てきたのはモデルのように綺麗な女性だった。年頃は自分と同じくらいで、おそらくおばあちゃんの孫だろう。化粧っけのない顔は、それでも十分整った顔をしている。正直、かなりタイプだった。
「すみません。今日おばあちゃんが病院でいなくて」
「えっ病院? どこか悪いんですか?」
突然こんな美人が現れたことに動揺しているのか、それともおばあちゃんの心配か、どこか上擦った声になってしまう。
「ううん、月に一回血圧の薬もらうだけ。ぴんぴんしてます」
それならよかった、と門戸の近くまで出て来てくれた彼女にタッパーの入った袋とお礼に買った品の入った紙袋を渡す。
「ありがとうございました。とても美味しかったとお伝えください」
ふたつの中身を指先でちらっと覗いて、ぱっちりとした目がこちらを向いた。
「あの……時間あります? 実はおばあちゃんから、もしタッパー返しにきたらまたおかずを入れて渡しておいてって言われてて」
「そんな、悪いですよ」
「気にしないでください。おじいちゃんが亡くなってからもついつい多くおかずを作ってしまうって零してたから、食べてもらった方がちょうどいいんだと思います」
ついつい多く、という量でもなかった気がするが、ともかく仕事帰りに百貨店でお返しを買っておいてよかった。
「一人で暮らしてるから心配してたんだけど、親切な人が近くにいてくれてよかった」
にっこりと微笑まれて心臓がどくんと鳴る。まだ一度しか会ったことがないのに、随分親しい関係だと勘違いされているようだ。
――しかしこれは……チャンスではないか?
「よかったらあがっていきますか? 詰めるのも時間かかるし、そのうちおばあちゃんも帰ってくると思うんで」
「じゃあ、お邪魔します。直接お礼も言いたいですし」
この機会を逃すまいと思って門戸に手をかけたその時、上の方から「きゅっ」と小動物の鳴き声が聞こえた気がして屋根の方を見上げる。しかし古びた瓦があるばかりで生き物の姿は見当たらなかった。
「どうかしました?」
「あ、いえ。なんでも」
ふと、この人はシリブカガシのどんぐりを食べたことがあるのだろうか、と思った。
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