第2話 公園と神様

 高校生の頃は大学生になれば変わるだろうと思っていた。大学に入ってからは就職したら変わるだろうと思っていた。そして社会人になってもう、何年目だろう。数えるのも面倒になった今、結局何も変わっていない自分がいた。

「中山さん、それは後回しにしてこっち先にしてくれる?」

「あっはい」

 先輩からの指示に在庫の包装をする手を止め、品出しを手伝うためカウンターの外へ出た。開店したばかりの店内にはまだ客はおらず、代わりに今朝届いた段ボールがあちこち置かれている。その傍で店員数人がしゃがみこみ、棚下の収納にせっせと商品を詰め込んでいるので、私もまだ開いていない段ボールの近くにしゃがみこんだ。

「いつも言ってるけど周りの状況をよく見て行動してね。包装なんていつでもできるんだから」

「はい、すみません」

 鋭くそう言い放つと、先輩はバックヤードへ行ってしまった。

 ――また言われちゃった。

 もやもやする気持ちを振り払うように勢いよくガムテープを剥がす。茶色い破片が朝掃除したばかりの床にぱらぱらと落ちた。

 三度目の転職してから半年。中途採用とはいえ、新人は先輩から一挙一動を見られるから注意されることが多い。今までの経験から、春に新卒が入ってきたりなんかすると少し風当たりはマシになるが、それでも私は怒られることが多かった。言い訳をするとまた怒られるので、仕事中に発する言葉といえば「いらっしゃいませ」と「ありがとうございます」と「すみません」くらいだ。

 周りを見てどんな行動をすべきか考えなさい。その場の空気に合わせた発言をしなさい。小さい頃から言われていることを、大人になってもまだ言われ続けている。

 元々入っていた在庫を手前に移動させ、奥に段ボールの中の商品をどんどん詰め込んでいく。単純作業が怒りと諦めの混じり合ったような灰色の感情を増幅させた。

 ――いつだって私なりに考えて行動してるつもり、なんだけど。

 しかしそんなことを思っても仕方がない。頭を軽く振って仕事に集中することにした。


 休日の朝、珍しく早い時間に目が覚めたので、焼きたてのパンでも買いに行こうと駅前の商店街に足を運んだ。

 商店街には二軒パン屋があるが、思いつきでよく調べずに来たせいで、お目当ての一番近いところは定休日だったためもうひとつの方へ行くと、シャッターが空いていて電気もついているが中には店員の姿が見えない。パンはちらほらと空きがあるものの何種類かはトレイに並んでいるので、中で作業をしているのだろう。

 ――こういうのって入りづらいんだよねぇ。

 大きなショーウィンドウから中の様子を眺めていると、出勤前のサラリーマンが何の躊躇いもなく中へ入っていったので、それに続いて店内に入る。奥から丁度焼きたてのパンがたくさん載ったトレイを持って店員さんが「いらっしゃいませ」と表へ出てきた。特に焦った様子もないので、この時間帯はいつもこんな感じらしい。

 焼きたてのいい匂いにつられて今日の朝食べる分どころか明日の分までトレイに乗せて(その後店員さんがなかなかレジに戻ってこなかったからというのもあるが)会計を済ませる。店の外に出るとまだ暑くなる前の気持ちの良い風が吹いている。降り注ぐ朝日に、手には焼きたてのパンが入った袋。今、無敵の気分だ。どうせなら公園に行って食べよう。

 出勤するために駅へ向かう人々と逆方向にずんずん歩いていき、小さいが緑豊かな公園に向かう。今なら貸切に近い状態だろうから、人目を気にせずゆっくり食べられるはずだ。

 案の定公園にはまだ誰もおらず、ベンチもがら空きだったので木陰になっている所を選んで腰を下ろした。まずは途中の自動販売機で買ったオレンジジュースをひと口飲んで、早速ハムと卵の入ったパンに齧りつく。

「ん~!」

 思わず声の出る美味しさである。まだあたたかいパン生地はもっちりしていて、中に入っているマヨネーズがまろやかでにんまりしてしまう。あのパン屋はアタリだ。今度からパンを食べたいときはあそこに買いに行こう。でも店員さんがいないと入りづらいから、休みの日に行くときは少し時間をずらして商品が揃った頃に訪れるのがよさそうだ。

 ――……うちだと、店頭に誰もスタッフがいないと怒られるけどな。

 ついこの間も他の人が電話対応や発注作業でバックヤードにいる時に、ふと掃除用具入れの中が乱れていたことを思い出して整理しに行ってしまったことがある。それは店の表と裏を分ける暖簾のすぐそばに置かれていたから、ちらちら店頭の様子を窺いながらやっていたのだが、結局先輩に見つかって「そういう時はひと声かけて、誰かが店頭に出てからやりなさい」と怒られたばかりである。

「あーやだやだ、折角最高の休日を過ごしてるのに。今日くらい仕事のこと、忘れよ」

 誰もいないのをいいことに大きな口を開けて、残りの三分の二くらいを口の中に入れた時だった。

「おおきい、くち」

「んぐ……っ!」

 隣からの聞きなれぬ声に驚いてパンが喉に詰まりそうになる。いつの間に隣に人が? 声からして子供のようだけれど。

 涙目になりながら口いっぱいのそれを咀嚼し、ジュースの力も借りてなんとか嚥下した。慌てて飲み込んだから味も何も分からない、なんとも勿体ない食べ方をしてしまった。人差し指で目尻を拭い、自分をこんな目に合わせた子供がどんな奴か確認してやろう、なんならひと言注意してやってもいいと隣を見ると、白いふわふわした塊がちょこんと座っていた。

「て、テンジク様?」

 ぱちり、と黒い大きな瞳と目が合う。そこにいたのはこの街の神様と呼ばれている、不思議な生き物であった。姿を見たことは何度もあるが、こんなに至近距離にいるのは珍しい。

 朝日にきらめくその瞳には驚いた私の顔がそのまま映っている。が、神様はこちらにはあまり興味がないようで、すぐに間に置かれたパンの袋に視線が移った。にゅっと伸びあがって袋の中を覗いている。

「あ……お腹、空いてます? どれか食べますか?」

 さっきまでの怒りは忘れて、これがクリームパン、これはほうれん草とチーズのパン、と取り出して説明すると、テンジク様を模した形の白パンにクリームチーズが入っているのが気に入ったようで小さな手でそれを受け取った。これは一応神様への〝お供え〟という行為になるのだろうか。本当は次にそれを食べようと思っていたが、ちょっといいことをした気分になったのでよしとする。

 大きな目と毛並みがチョコペンで描かれた白いパンは、よく似た生き物の口の中へどんどん吸い込まれて小さくなっていく。

「共食い……」

 口に出してしまってから、もしかしたら不謹慎な発言だったかもしれないとひやりとしたが、本人は全く気にしていないようで、もくもくとほっぺたをいっぱいにしている。不思議な構図にふっと笑って、自分ももうひとつパンを食べることにした。

 パンを食べ終わったらどこかへ行ってしまうかと思われたが、お腹がいっぱいで動けないのかそのままベンチでじっとしている。私も家に帰るのはもったいないし、でもまだ店が開く時間には早いから隣に座っている。それに、じりじりと昇ってきた太陽のせいで今はあまり木陰から出たくなかった。

 相変わらず周りに人はいない。音といえば公園の周りをせかせかと歩く足音と、車の通る音くらいで、普段なら私もその中のひとつに紛れ込んでいる。きっと暗い顔をして、今日は何を注意されるのだろうかと内心怯えながら電車に乗るのだ。

 ――周りから笑われるのが怖くて、縮こまりながら登校してたあの頃から何も変わっていないな……。

「……テンジク様」

 きゅ、と鳴いてまあるい目が空からこちらへ移動する。

「今からちょっと、ひとり言を言います」

 

 昔からふっと思いついたら深く考えずに行動する方だった。会話をしているときも思ったことをそのまま口に出してしまって、笑われたり怒られたりしていた。しかしまあ子供の頃はそういうものは大人になれば自然と直っていくものだと、比較的軽く周りは考えていた。

 けれども現実はそう上手くはいかなかった。控えめにはなったものの、考えなしの行動が多い。発言もどこかピントがずれている。親はそのことを気にして何かする前はよく考えなさいと口を酸っぱくして注意したものだ。

「でもねぇ、その頃にはもう、私なりにちゃんと考えたあとで言動を決めてたんですよ」

 考えているのに考えろと言う。見えない空気を読めと言う。私には何が何だか分からなかった。

「皆が品出ししてる時に在庫の包装してたのだって、全員が床に這いつくばって品出ししてたら入店しづらいでしょう。それに忙しいのかなとか、まだ開店前なのかなって私なら思う。だから一人くらいはレジで作業してた方が見栄えがいいと思って。掃除用具も、営業中に急に必要になることがあるだろうし、そんな時に箒やらモップやらが散乱してたら余計いらいらするでしょう。まあ、声を掛けなかったのは私が悪いといえば悪いけど」

 やっぱり、先輩が忙しそうだと声を掛けづらいのだ。

 ちらりとテンジク様の方を見る。聞いているのかいないのか、少し上を向いて空を眺めている。私としては神様に愚痴を聞いてもらうのは申し訳ないから、それくらいの態度で傍にいてくれるのがありがたかった。

「自分では変わってるつもりなのに、周りからそうは見られない。それって変わってないってことなのかなぁ」

 ベンチの背もたれに体重を預け、一度は鞄に入れたペットボトルを取り出して蓋を開ける。すっかりぬるくなったオレンジジュースが甘ったるく喉を通り過ぎていく。

「……生きるのって、難しいなぁ」

 スニーカーのつま先はもう木陰からはみ出している。それほど陽が高くなったということだろう。涼しく吹いていた風も段々と熱を帯びてきた。

 ふと視線を感じて顔を上げると、テンジク様がこちらを見ていた。黙ってその瞳を見つめていると、ゆっくりと大きく瞬きしたあとでまた空の方を向いた。それにつられて私も下から上へ視線を移動させる。

 見上げた空の果ては遥か遠く、眩暈がするほどに突き抜けている。座っているのに吸い込まれそうなほど広くて、遠い。そのあまりの青さに自分の影がなくなってしまうのではないかとすら思う。その広大さに比べて私たちはこんな小さな生命体で、色んなものにもみくちゃにされながらも日々を懸命に生きている。

「そりゃ、悩みでいっぱいにもなるよね……」

 それが、当たり前なのかもしれない。だって世界はこんなに大きいのだから。翻弄されても仕方がない。何故か急に、悟りを開くようにそう感じた。

 公園に子供連れが入ってきた。続いておじいちゃんが、散歩の休憩だろうか、空いているベンチに腰を下ろす。そろそろ街が活動を始める時間だった。私もそろそろここを離れないと、暑さでパンが悪くなってしまいそうだ。

 パンの袋を鞄に入れて立ち上がる。隣にいたテンジク様はいつの間にか姿を消している。

「次に会ったら、お礼にまた〝お供え〟しないとね」

 人間よりもずっと小さいその存在を想って、誰ともなく「よしっ」と声をあげて気合を入れ、白い日差しの中に一歩足を踏み出した。

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