第九章・生存の危機──渇きが、強烈な渇きが……命を懸けて敵前にジャジャジャジャーン♪

     ◆♀ 【裸族乙女】 ♀◆


 聴覚のみで敵の動きを察知しながら、攻撃の機会をうかがった。さっきから物音ひとつしなくなった。耳に全神経を集中させたが、敵の気配はキッチンから完全に消失した。

 襖の取っ手に力強く張りついた四指のつけ根が怠くなる。指の股がジットリと汗ばんで掌伝いに親指の先端から床に滴り落ちた。指を一旦離し、手を振って汗を弾き飛ばして臀部で拭う。尻が濡れて気色悪いので掌で尻を撫でこすり、最後の仕上げに一発はたく。ピシャッといい音が室内に響いた。竿を握り締めた右からも、肘に向かって汗が一筋流れた。仕方なく鉄アレーを床に置き、戦闘態勢を解く。太腿に右掌の湿気をしっかりと吸わせて両手を揉みこすったあと、全身を愛撫し、吹き出た汗を流しにかかった。ベッドの上に広がったバスタオルが視界に入ったが、この場を離れることは躊躇ためらわれた。いっときたりとも敵から目、もとい、耳を離すことはできぬ。

 固唾を飲んで再び戦闘態勢を維持する。喉が焼ける。口腔内が粘ついて、湿り気を要求する。だが、渇きを潤すには、敵前にこの身をさらさねばならない。

 冷たいものが欲しい。渇きと恐怖が交互に己の意識の流れを分断し、思考を混乱させた。麦茶が……冷蔵庫を開ければ、ギンギンに冷えた麦茶がある。我が脳は妄想を膨らませ、目の前に御馳走をチラつかせた。渇きと恐怖のせめぎ合いの果てに、勝利したのは欲求であった。本能には敵わない。それは人間存在の本質なのだから。

 襖を開けよう。私は一大決心して指先に力を込めた。

 待てよ? 敵はいる……確実にいる。だが、しかし 、ハテ? 気配はない……逃げたのかも? 強烈な渇きは、都合のいいような解釈を選択させる。

 少しだけ戸を引いて、隙間からキッチンを覗き見る。左目を瞑り、右目の視界だけで全体を見渡してみた。どこにも敵影は認められない。今度は目ん玉をグルリンコと縦横無尽に転がし、注意深く視野角の届かぬ果ての果てまで想像を広げてみても、結果は同じだった。

 冷蔵庫の蒼白い肌が脳裏に浮かぶ。ほんの数メートル、大股で二歩の場所に命をつなぐ糧は、備蓄されてあるのだ。生存本能は麦茶を熱望する。命を懸けてまで、今、欲求を満たす価値はあるのか。疑問が湧いた。が、まさに今、満たさねば、この身は枯れ果て、数時間後は脱水症状でお陀仏になりかねぬ。

 そっと襖を閉める。しばらく思案した。

 渇きを満たすため、敵に挑み……勝負を決するか。渇きを耐え忍び、敵をやり過ごし……このまま朽ち果てるか。どちらを選択したところで、地獄への一丁目、命の危機に変わりはない。より生存への布石となりうるのは?

「よし、決めた! いざ、かの地へ!」

 ようやく決心は固まった。

 私はストレッチを始め、十分に緊張と全身の筋肉が解れたところで、兵器を再装備して身構えた。襖の取っ手に左手を添わせる。手順を頭で再現しながら襖に耳を当て、敵の気配に聴覚神経を研ぎ澄ます。が、やはり、気配など微塵もない。自ずと呼吸は早くなり、心拍数も最高潮に上り詰める。取っ手に添えた指先が微かに震える。深呼吸をする。唾を飲む。それを何度も繰り返し、両方のアキレス腱をのばすと、ゴロゴロ喉を鳴らした。

「フンニャー!」

 叫んで襖を右に滑らせ、敵前に躍り出た。身を低くしつつ、兵器を床に叩きつけ、空中で振り回し、ひとところで駆け足をしながら前後左右上下、全方向を意識して体をクルクル回して敵の攻撃に備えた。幸いなことに敵影は見えない。

 今だ。一目散に冷蔵庫へ飛んだ。ドアを開け、2リットルのペットボトルをポケットから出して栓をひねる。飲み口に吸いつき、一気に喉に流し込んだ。茶色の液体が喉から胸元の果実の谷間を這い下りて、腹伝いに……どこへ伝ったかは想像に難くないだろう。目はキョロキョロと警戒を怠らない。息が苦しくなって一旦ボトルを口元から外し、フーッと息をついて左手で濡れた唇を拭った。これにて渇きは潤った。が、もう一口、今後の保険に補給を図る。胃袋が満たされ、チャプチャプ波打つ。「ガーッ」とゲップで締め括った。フタを閉め、備蓄場所に命の糧を保管した。

 兵器を構え、戦闘区域から撤退を図る。戦場は暑い。全身を汗が伝う。注意深く敵の気配を探りながら、一歩を踏み出した。その瞬間、窓に激しい閃光が走り、ほぼ同時に爆撃弾が炸裂した。網膜と鼓膜を襲い、辺りは闇に包まれた。



     ◇♂ 【××族 X】 ♂◇


 来る! 微かな空気振動が気配を伝える。ヤツは必ずこの地へ現れる。

 襖が開いた! 開いた途端、的外れな攻撃で冷蔵庫の前に立ちやがった。

「オイオイ……オレ様はこっちだよ!」

 しょうがねえヤツめ……まあ、こっちは高みの見物と洒落込むか。

 冷蔵庫のドアを開けて……ペットボトルを出して……ラッパを吹いてやがるぜ。茶色の液体がチャプチャプ鳴って口元から零れ落ちてるわよん。液体は……胸元を這うように流れ落ちて……腹を伝い……茂みを濡らし……足元まで滴りやがった。

「いい匂いだぜ……この匂いは、麦茶か? オレの好物じゃねえか!」

 そういや、オレも喉がカラカラだ。そうだ。ヤツの足を舐めよう。舐め尽くして喉を潤せばいい。名案だ。ヤツの官能的な白いアンヨを貪って欲望を満たしてやるぜい。

 オー……ヤツの喉が鳴っている。オレの喉も枯渇してやがるぜ。

「ああ、たまらねえよ~!」

 欲求は抑えられねえ。ヤツの体じゅうを舐め尽くしてえなあ。渇きはあらゆる本能の興奮をもたらすもんさ。生存への本能。そして、繁栄の本能。オレは男だ。このまま果てるわけにはいかねえのよ。仮に、最期が近づけば、子孫を残す義務がある。それは歴然とした種の掟ばい。好物の誘惑は、あらゆる疼きを促しやがるぜ。

「子供が欲しい! オレの血を分けた跡継ぎが……遺伝子を未来永劫引き継いでくれる子孫が!」

 子孫繁栄……これこそが、この世界を生き抜く術だ。子を成さねばなるまいて。

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