第四章・クッサイ変態野郎──マシュマロの感触よ!

     ◆♀ 【裸族乙女】 ♀◆


 帰宅して玄関のドアを開けると、キッチンには薄らとモヤがかかっている。

 靴を脱いで中に入り、直進すると、モヤが顔に絡みついた。粘着質の極細の糸で編まれた網のような、蜘蛛の巣よりも目の細かいソレは ──ワタアメの甘い匂い、は全然しなかった。

「クッサイ!」

 鼻を摘まみ、もう片方の手で顔や髪や首に執拗に絡みついた糸をやっとこさこそぎ取り、襖の前まで移動した。肌にベタベタと付着した糸の残骸を尚も手でこすりつつ接着剤のようにベタつく不快感を堪えながら、襖を開けた。

 一歩中へ踏み込もうとしたら、轟音に体ははね返されそうになり、宙に浮かせたままの右足をそのままうしろへそっと引く。

 目を凝らして暗闇を見る。と、突然、「ゴロゴロ!」と大きな唸り声を立てかと思ったら、閃光が走り、辺りを照らすと、緑色に塗り替えられた部屋の窓際にソノモノは実態を露にした。一抱えもある胴体は、まるで深緑色のお化けカボチャを幾重にも連結させたみたいで、連結部のくびれを上手に伸縮させ、巨体には似つかわしくない機敏な動きで胴体をくねらせながら移動し、頭部をベッドの上にのせた。小刻みに上下動させ、カチカチ顎を鳴らし、何かを貪り食っている。

 気づかれぬうちにそっと逃げようと思った。引いた右足を滑らせ、一歩あとずさって足を静かに置いて踏み締めたら、床が大きく軋んだ。と、怪物は動きを止め、こちらに顔を向けた。その顔は真っ黒で胴体に比べ小粒で愛嬌があって……とはいっても大玉のスイカぐらいはあるだろうか。よくよく目を凝らさないと確認不可能な小豆大の目をギラつかせ、静止した。こちらも極限まで息を殺して、可能な限りの薄い存在感で身を固めた。

 ──来るな!

 心の中で祈り叫ぶ。

 重低音がどこからともなく次第に音量を上げつつ我がはらわたを圧し出しにかかる。全身に力を込め過ぎたせいか、体は小刻みに震え出した。

 ──早く逃げなければ!

 と心は急くのに、その場に打ちつけられたかのようにコチコチになり、どうしても身動きできない。

 ヤツは低音の喉を自慢したいのか、しきりに鳴らしていたが、遂に大口を開け、喉の奥が轟いた。体から閃光を放ち、胴からは無数の黒い棘が生え、折りたたまれていたノコギリ歯のついた鎌状の顎を横に広げ、ザクザクと振りかざしながら迫って来た。

 ヤツの吐く息に顔を背けた。部屋に青臭さが充満した。ピーマンの腐った臭いだ。ヤツに目を向けると、口元から緑色のドロドロの粘液を吐き出している。これが異臭の正体だった。突如、体から閃光を発したら、間髪入れず、喉をゴロゴロと鳴らした。これまでよりも凄まじい閃光と唸り声。ヤツの怒りが極まったのだ。閃光に部屋全体の光景が映し出される。寝室の緑色は、うず高く積み上げられたピーマンの山だった。ヤツの餌だ。と、こちらに向かってドロドロを吐きかけてきた。それをよけようとあとずさったら、尻もちをついて、逃げようにも、どうしても素早い動きなどできず、その場でもがくのが精一杯だった。

 ヤツは迫って来る。鼓動が激しく打つ。このままでは餌食だ。どうにか逃げなくては。だが、必死に足をバタつかせ、うしろへ尻で這って逃げようとしても、なぜか体はいうことを聞かない。心臓も破裂せんばかりに脳の血管を圧迫する。

 毛虫の化け物は寸前まで迫った。大口を開け、食した緑色のドロドロを大量に吐き散らし、ゴロゴロと喉を轟かせる。

 眩い光が目を襲った。次の瞬間、私の体は宙を飛び、一瞬にして身ぐるみ剥がされベッドの上に一糸まとわぬ大文字で押さえつけられた。大股開きのあられもない姿を閃光は映し出す。突如ヤツのスイカ頭が私の股の間からヌウッと現れ、その巨体が私の上に覆いかぶさった。冷たい。ヤツの体は意外にも柔らかい。だが凍っていた。私は寒さで全身が膠着し、身動きできない。

「やめてー!」

 声を出そうとしたが叶わない。ヤツのマシュマロ様の胴体に私の顔面は塞がれ、口が思うように開かない。所詮、叫んだところで助けに来る者などいるはずもないだろう。

 ヤツは私の上で執拗に身をよじらせる。

「いけない。逃げなくては。いけない、いけない……ダメよ、ダメ、ダメなの……ソコは……イヤ~ン!」

 冷たくも柔らかなマシュマロの感触が次第に私の全身に恍惚をもたらし始めた。

 喉が焼けるように干上がった。乙女のエキスが枯渇寸前だ。水分を求め、両手は空をまさぐる。


     *


「ヘーックション!」

 凍えるような寒さが全身を襲う。思わず身を丸め、膝を抱えた。

 なぜ、こんなにも寒いのだろう。真夏だというのに。異常気象のせいなのか。私はベッドの中で考え続けた。と、答えは自ずと脳髄に降りてきた。

 ベッドの上をまさぐり、リモコンを手に取る。設定温度を17℃から30℃に変更し、風量も『微風』に調整した。

 喉が、喉が……渇く。仕方なくベッドを抜けて、ついでに開けっ放しのカーテンを引きに窓際に寄ると、いきなり窓外を青白い光が瞬いた。一瞬窓に裸体が映し出され、すかさずカーテンを閉める。と、いっときして遠くに雷鳴は響いた。

 二時間ぐらい眠っただろうか。枕元の目覚まし時計を覗く。

『10時10分』

 アナログの文字盤が指し示した時刻である。

 遠雷に揺すられ、悪夢から覚めた私は、喉の異様な渇きを潤そうとキッチンに向かう。

 玄関横の壁のスイッチを押して灯りを点けたら、ワインを煽ったワンカップがテーブルの上に転がっていた。それをつかんで蛇口を捻り、水道水を満たすと喉に流し込む。半分ほどで諦めた。生温い。──やっぱ、冷えた麦茶に限るわいな、と冷蔵庫に近づいた途端、窓に閃光が走り、間髪入れずに轟音が鼓膜を打ってピクリと体は震え、反射的に両手が耳を塞ぐ。ワンカップは床に着地した。と、一寸先は闇。突如暗闇に襲われた。

「停電……。落ちた……のね。近かったらしいわね?」

 私は一瞬だけその場に立ち尽くし、急いで部屋へと戻った。

 闇が苦手なのだ。というか、停電が大嫌い。端から点くことが分かっていれば、暗闇なんぞ全然怖くもない。だが、スイッチ・オン、オフを繰り返したとて暗中模索状態では、この上ない不安と恐怖に駆られてしまう悲しいさがなのだ。たぶん幼少時、物置きの中で遊んでいる最中に鍵をかけられ、夜中まで気づかれず放置されたのがトラウマとなったのだろう。

 だから、命の麦茶はしばし諦めて、懐中電灯を手探りで求めるしか術はない。部屋に飛んだ。カラーボックスの上に置いていたはずだ。

「あった!」

 難なくお宝を手中におさめると、スイッチを入れてみる。オン、オフを繰り返しても一向に点灯しない。接触が悪いせいだろう。今度は振ってみた。と、頼りない光が漏れたかと思ったら、遠ざかる提灯で、仕舞いには網膜に光は届かなくなった。接触ばかりか、電池も消耗していた。詮なく定位置に据える。

 当然エアコンも停止している。が、幸いなことに、まだ室内には冷気が漂っていたので、1㏄たりとも逃すまじ、と慌てて襖を閉め切った。

 ベッドに腰を下ろし、やり過ごすことにした。でも、何か腑に落ちない。何をする予定だったのか、振り返ってみる。

「ああ、麦茶!」

 喉がカラカラだった。だが、冷気の節約のため、やはり麦茶はあと回しにしてベッドに倒れ込む。

 ふと、仄青い点光が視界のへりを掠めた。クルリとうつ伏せになり、目をそちらに向ける。目覚まし時計の蛍光文字が凝集されたひとつの点に見えたのだ。

『11時10分』

 目を疑った。さっき確認した時は、

『10時10分』

 どういうわけ? 一時間も未来へ跳んだの? タイムスリップ!? ──んなわけねえよな……

 暗闇の中、目を凝らし、じっと直視していると、蛍光は視界から消滅する。目を少しだけ逸らした。

「1時55分だ!」

 短針と長針を間違えたのだ。

 ということは……寝入って“六時間”も経ってたの! そんなに眠った気はしないが、熟睡していたらしい。

 また稲光だ。カーテンの隙間から忍び込み、明滅を繰り返す度に一瞬だけ視界は開け、室内のあらゆるものの輪郭が露になる。雷鳴と連動するかのように激しく鼓動は脈打った。思わず両耳を塞ぐ。心を落ち着かせようと、静かに目を閉じて深呼吸を繰り返す。ゆっくりと。

 もう一度眠ろう。うつ伏せのまま穏やかな睡魔に襲われんことを希う。だが、神経は昂り、やけに目がさえてしまった。閃光の度、閉じた瞼に光は透けて映り、寝かせてはくれぬ。羊でも数えようか。と伝統的常套手段を持ち出して対処法を思案した矢先、またもや忌まわしい光に自ずと目が開く。ギュッと目を瞑る。

 灯りが欲しい、完璧な灯りが。己で光を操れない状況というのは、神経過敏に陥り、すこぶる不安をかき立てるものだ。否定的な思考しか展開しない。妄想はそこはかとない底なし沼のどん底へと気分を沈めて更なる恐怖を呼び覚ます。見えるはずのない魔物の表情を見て、幻聴に怯え、闇に落ちる運命を辿るのだ。

 電気はまだ来ないの? エアコンは止まったままだ。灯りも諦めるしかない。仕方なくタオルケットを頭から被り、膝を抱えて丸まった。丁度、胎児のように。このまま朝までやり過ごすしかない……。



     ◇♂ 【××族 X】 ♂◇


 寝息が聞こえるぞ。

「お嬢ちゃん、眠りに就いたのかい?」

 どうやら……どうやら、その瞬間が訪れたようだ。キッチンのど真ん中で凝りを解そうじゃねえか。

「あーらよっと!」

 オレ様のひとり舞台だぜ。折りたたんだ身を思い切り伸ばし、体を解放させてやるんだよ。

 魂が巨大化するぜ。あらゆる知覚を獲得し、大胆な行動を促すんだ。本能の赴くままに従うだけよ。

「欲……欲……欲!」

 空腹が……狂おしいまでの食欲が襲いかかる。死肉を貪り尽くしたい。

 生存への欲求が湧く。永遠の生。我が分身を残さねばならぬ。最大の使命がのしかかる。成し遂げられたなら、いつでもこのちっぽけな命なぞくれてやるわい。

 二つの凄まじい欲求は、たちまち膨張して、魂を乗っ取りにかかるんだぜ。

「まずは腹ごしらえだ!」

 喰い物を探さねばなるまい。口に入るものなら、残飯だろうが、腐敗肉だろうが厭わぬ。細菌ウイルスの蠢く直中を貪り尽くしてやる。我が種族の生存への掟だ。

「ん? 青くさい!」

 ゴミ箱とシンクの中から漂ってくるじゃねえか。空の胃袋を刺激しやがる。

「シンクの中には何がある?」

 オー、無造作に捨てられた残飯か。一層食欲を掻き立てるぜ、まったくよお。こんなものでは到底足りませんって。でも、しかし、ばってん……まずはここを攻めてやる。

「死体が欲しい!」

 死肉ならば、貪り尽くすまで相当の日数もつだろう。残飯を漁りながら、死体の横たわる光景がチラつきやがる。

 死体、死体、死体……いつしか夥しい数の死体の海が目の前に広がった。それに埋もれ、至福を貪る己の姿が映る。幻夢は全ての感覚器官を揺さぶり始めた。体は震え、震え、震え……魂は死体を熱望する。

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