第7話 クルーザー事故
この日、弁護士がやってきたことで、
「事件が一つの意外な展開を示すカモ知れない」
と感じられるようになった。
この投書がどこまでの信憑性のあるものなのかということも分からない。そもそも、今回の容疑者の自首というのも、
「どこまでが本当か分からない」
とも思えてきた。
何といっても、犯人は、黙秘しているわけで、気が弱そうに見えるくせに、警察とのにらめっこにも臆していないようだ。
そもそも、精神疾患の気があるということを聞かされてみると、
「一歩間違うと、精神的なところでの無罪となってしまうかも知れない」
ということであった。
本当の精神疾患なら、それで仕方のないことなのだろうが、そうなると、世間が黙ってはいないだろう。
確かに、どんなにひどくて、
「殺されても仕方がなかった」
と言われるようなソーリであったとしても、
「一応、殺されかかった」
ということは、民主国家において、許されることではないというのが、ほとんどの人の一致した意見であろう。
今回はたまたまこいつだっただけで、国民にとって、
「殺されては困る」
という人もたくさんいるだろう。
それなのに、簡単に暗殺行為が成功し、さらに、その場から逃げおおせるということになるのであれば、
「警備なんてあってないようなものだ」
と大いなる批判が噴出することだろう。
そういう意味で、未遂であっても、この事件の経緯を、国民は黙って見守っていたのだった。
もしこれが、曖昧な形で終わったとすれば、警察のメンツは悪くなり、国民の警察への非難は結構なものとなるに違いなかった。
そんな状態において、今、国民は何も言わない。それあ関心がないわけではなく、冷静な目で見守っているということだ。
とりあえず、命に別状はないので、あまり時間が掛かって、忘れ去られるようなことであれば困るが、
「時間をかけてでも、正確な情報を国民が求めている」
ということであろう。
今回の事件のような、インパクトの強いものは、えてして、連鎖的な犯罪が起こらないとは限らない。
事故などにおいても、まったく関連がないのに、偶然なのだろうに、連鎖することがあるのとは明らかに違うのだろうが、犯罪においては、
「模倣犯」
と言われるような、類似犯罪が、結構いろいろな場所で起こったりする。
それはひょっとすると、
「どこででも、このような犯罪の根っこが潜んでいて、一つが表に出てくると、水平線で浮かび上がろうかどうしようか、世間の様子を見ていた連中が、堰を切ったかのようにマネを始め、まるでカオスのようになってしまう」
という現象を引き起こすということなのではないだろうか?
というようなことも言われるようだ、
過去の歴史においても、戦前などの、カオスな時代には、暗殺などが、頻繁にあったり、大量虐殺などという極悪なことが、ニュースになるような大きなことではなく、歴史の中に埋もれてしまったようなことが、頻繁に起きていただろう。
たとえば、
「南京事件」
での虐殺を、日本人が行ったと言われてきたが、あれだって、どこまでが本当か分からない。
何といっても、当時の南京の人口よりも、被害者の数が圧倒的に多いという矛盾しているような数字を、平気で挙げてくるくらいなので、本当の信憑性などあったものでもない。
しかも、最終的に戦争は、日本が負けたということで、
「シナ事変で悪いのは日本側だ」
というレッテルを貼られてしまっていた。
しかし、本来、原因となった、
「盧溝橋事件」
というのは、数日後に和平協定が結ばれ、一旦は終結したのだ。
「シナ事変がいつからか?」
と聞かれた時は、その後に起こった、
「通州事件」
あるいは、
「廊坊事件」
「公安門事件」
などと言われるものが、その発端となるはずだ。
そもそも、廊坊事件や公安門事件は、中国軍による、日本軍への挑発発砲から発したものであり、通州事件に関しては、中国による、
「日本人、大量虐殺事件」
というものであった。
北京郊外の通州というところに住んでいた日本人が、ほとんど虐殺されてしまったというもので、しかも、その実行犯は、その前日まで、
「日本居留民を守る」
という、そういう組織で、居留民とは、家族同然に暮らしてきた連中が、いきなり裏切り、日本人を虐殺したのだから、許されるものではないだろう。
そんな話を思い起こすと、
「シナ事変は、明らかに中国側が仕掛けてきた戦争だ」
ということになるのだ。
ただ、その後の日本軍が、欧米の租借地のある上海や南京を空爆したり、軍を進駐させたりしたので、見た目は、
「日本軍による侵略」
ということになるだろう。
そもそも、戦争というのは、人によっては、
「先に手を出した方が悪いに決まっている」
という意見もあるだろう、
確かにそうではある。
「喧嘩だって、それまでどういう理由があるかは別にして、最初に手を出した方が悪い」
という考えがあるだろう。
だが、果たしてそれでいいのだろうか?
相手を殴らせるように、口で煽るだけ煽って、相手が我慢できなくなった瞬間に、
「相手からいきなり殴られた」
と言えば、それまでのいきさつを知らない連中からは、
「殴った方が悪い」
と言われるのは当たり前だ。
いくら、
「相手がそう仕向けた」
と言っても、誰も信用しないだろう。その証拠がなければ、後になってから何を言っても、それはいいわけでしかないのだから。
それを思うと、今の時代は、その、
「証拠」
というものが、ハッキリしている場合が多い。
「防犯カメラの映像」
さらには、車の中で撮っている、ドライブレコーダーの場合は、映像だけでなく、音声も入っているので、そこに行き着くまでの過程もハッキリと映っているのだ。
ここまでくると、
「先に手を出した人が、絶対的に悪い」
と言い切れなくなるだろう。
「あんたが、煽らなければ相手が怒り狂うこともない」
ということになる。
とにかく、喧嘩になってしまえば、声を荒げたり、相手を罵ったり、さらには、暴力をふるうという明らかな行為でないと分からなかったことが、それ以外のことでもいわれるようになるというのは、ドライブレコーダーのおかげといってもいいだろう。
今回に投書で指摘されていた、某保育園の某保母と書かれているが、弁護士は、
「その人物を分かっている」
ということで、警察に、その人物を探ってほしいということを、暗にほのめかしている。
警察もそこまで分かっているのであれば、無視することもできない。
今回、弁護士が、警察に対して、強硬な態度を取らなくて、アッサリと行き挙げたのは、警察に信用してほしいという思いがあったからだろう。
それを思うと、警察も、無視もできない。話に聴いた保育所を当たってみる必要がありそうだ。
最近は、ニュースで何かと話題の保育園、
「保母さんの資質ということ」
を考えると、この投書も、まんざらウソだといって片付けるわけにもいかないと思ったのだ。
しかし、それだけに、
「何かこの保母さんに、個人的な恨みのある人がいて、弁護士のところに投げ込んだのではないか?」
と思ったが、少し怪しい気もした。
「なぜ、警察にいきなり投書しないのか?」
ということであった。
警察であれば、何もこんなまどろっこしいことをしなくてもいいのだが、ただ、この弁護士事務所に投書したということは、少なくとも、
「津山が、自分が犯人だ」
といって、自首したことを知っていなければいけないだろう。
マスゴミにまだ発表もしていない。あくまでもマスゴミには、
「初期捜査中」
という程度の漠然とした話しかしていないのだ。
それを考えると、
「この投書の出どころはどこだったのだろう?」
という疑念が浮かんではきたが、指摘されたところを捜査するのは、警察としては当たり前のことであり、そこに変わりはなかったのだ。
さっそく翌日に桜井刑事が問題の保育所に赴いた。そして、まずは、直接聞くよりも、まわりのウワサから聞いた方が早いと思ったのだ。
というのも、最近は、
「保育園や、保母に対しての問題が、毎日のように起きている」
ということであった。
「保育士と呼ばれる人たちが、教育と称して、拷問のようなことを子供にしていたというのだ」
というのは、
「子供は自分で判断もできないし、言葉がまだ喋れないこともある」
というのを分かっての、完全な確信犯で、
「保育士の免許をよく得ることができたな」
ともいえる。
もっとも、保育園であったり、昔、不良と呼ばれているような子供を、
「教育と称して、親がそこを信じて、子供を預けるということもあったが、
かつての、どこかのヨットスクールのように、
「教育」
という言葉をあくまでの建前として、実際には、何ともひどい行動を取っていたのであった。
しかし、今回は、
「保育所」
である。
まだ、幼稚園に通うどころか、言葉もおぼつかないことで、意思表示をまともにできない幼児に対しての暴行なのだから、
「これ以上タチの悪いということはない」
と言われることであった。
そんな世の中に、ついに入ってきたのだった。
実際に保育所というところ、どうしても、以前から慢性的な問題としての、
「少子高齢化」
の問題とも絡んでいるので、本当はさらなる充実が望まれるところであった。
これだけ、
「少子高齢化で、数十年後には、若者一人が高齢者を支えるような時代がやってくる」
と言われているだけあって、
「子供を安心して作ることができるような世の中」
を作る必要がある。
政府は、そういう機関も作っているにも関わらず、実際に何をやっているのか、以前から、まるで当たり前のように、
「待機児童」
などといって、まったく保育園としての機能がなされていない状況である。
そんな状態で、認可保育園だけではなく、
「認可もされていない、モグリの保育園」
というのも多く、さらに、ここ最近では、
「信じられない事故」
あるいは、
「信じられない事件」
が多発している。
特にここ数年はひどいもので、社会問題というか、まるで、時代が逆行しているといってもいいだろう。
今年に入ってから、本当に信じられないことばかり起こっているので、今年のトレンドが、
「保育園」
ではないか?
というくらいであった。
今年は、特に春くらいから、秋口にかけてひどかったのが、
「園児の、保育園バス、置き去り事件」
であった。
ちなみに、ここでいう、
「保育園」
というのは、幼稚園を含んでいるということも承知願いたい。
幼稚園や保育園というのは、園児を送り迎えをするために、園児用のバス、つまり、マイクロバスで送り迎えをしていることが多かった。
普通のバスと違って、そんなに大きなバスではない。普通、ちゃんと点呼さえしておけば、園児を下ろす時、バスの中に誰も残っていないかということくらい分かるはずである。
そもそも、保母さんたちが、先生として、子供を見ているのだから、いないということが分かれば、おかしいと思うはずだ。
何しろ、
「今日は、お休みします」
という連絡がないのに、園児がいなければ、
「どうしたんだろう?」
となっても、しかるべきではないだろうか?
要するに、園児一人一人を自分が見ているという意識がないのだろう。
それを思うと、置き去りにした人だけではなく、保母さんも、
「同罪」
ということになる。
そこまでいくと、
「バスの置き去りに関しては、連帯責任だ」
と言われても仕方がないだろう。
バスの中に置き去りにされた生徒は、夕方まで発見されることはなく、一日中監禁されたも同然のバスの車内で、脱水症状を起こして、ぐったりしているわけである。
当然そのまま死んでしまったということだ。
「こんな信じられない事件があるんですかね?」
というような雰囲気が漂っている中、半年もしないうちに、今度は他の保育園でも、
「生徒の置き去りによる、脱水症状での死亡事故」
が起こった。
もうこうなると、事故ではない。
「殺人事件だ」
といってもいいのではないだろうか?
謝罪会見でも、
「普段の人が休みだったので」
とかいう言い訳を園長が吐いていたが、そもそも、それくらいの簡単なことをできない人間が、園長であったり、副園長である保育園というのは、一体どういうことなのか?
言い訳記者会見をしている園長が、その日は、
「普段の人が休みだったので、自分が運転して」
などといっているのだ。
しかし、他に先生だって、同乗していただろうに、その人は一切出てこない。
「いいわけ記者会見を聞かされる身にもなってみろ」
といってもいいだろう。
「どうして、謝罪会見というと、こんなにも醜いものを見せられることが多いんだ?」
ということである。
特に今年は、結構ひどい事件が多かった。確か、遊覧船が、沈没した事件もあり、いまだに、遺体も上がらない人がたくさんいるというではないか。
確か、あれは、春頃だったので、すでに、半年以上が経過している。一時期、毎日のようにニュースでやっていたが、今ではほどんど誰もが忘れてしまっているようで、保育園バスの問題にしても、
「ああ、そういえば、今年のことだったか」
という程度のものだっただろう。
そんな、
「事故なのか、事件なのか分からない」
という、言葉の上に、
「驚愕」
であったり、
「信じられない」
という言葉がつくような事件が多かったのだ。
さらに、保育園や幼稚園、下手をすると、養護老人ホームなどと言われるところで、これは、突発的に起こったことではないが、
「いつものあれか」
というように、頻繁に起こっていることであるが、最近は、特に、
「黙って見過ごすわけにはいかない」
と言われるほどの状態が、頻繁に起こっていた。
前述の、
「幼児虐待」
という事件である。
殴ったり、逆さづりにしたり、
そんな事件である。
最近では、ほぼ、一週間に数件のそういう事件が、全国で発生している。
今までもあったのだろうが、一つ出てくると、どんどん出てくるという、まるで、
「ゴキブリ」
のような状態は、きっと、今までなら、
「どうせ騒いだとしても、どうにもなるものでもない」
ということで、誰も大きな声を上げなかったのだろう。
しかし、一つが、
「大きな問題だ」
ということになると、他の地域でも出てくるというのは、普通なら、
「ありえないことだ」
と言えるだろう。
下手をすると、
「下から話が上がっていく間、どこかでもみ消されてしまったのではないか?」
という疑惑が出てきても無理もないだろう。
いや、その説が一番大きいのではないかと思えてならなかった。
それを考えると、保育園にしても、幼稚園にしても、擁護老人ホームにしても、今の時代では、絶対に必要不可欠なもので、下手をすれば、
「少ない」
「保母さんになり手がいない」
という問題を孕んでいることから、問題のあるところを、
「潰せばいい」
というわけにはいかない。
もし、問題があったところに子供や老人を預けている人にとっては、
「他のところに預ければいいから、そんなところ、辞めてしまえばいいんだ」
というわけにはいかない。
辞めてしまうと、今度は、
「待機児童」
にされてしまい、下手をすると、
「前のところ、どうして辞めたんですか?」
と聞かれて、この保育園が、社会問題にまで発展していないところであれば、辞めた理由を、
「言い訳」
としてしか、聞かれないことにあるだろう。
しかし、そんな状態の保育園と、今回の政治家の暗殺未遂事件とどのように関係があるというのだろう?
何しろ、容疑者は自首してきているわけだし、弁護士が持ってきた、投書なるものを、そのまま信じるとすれば、どこか、辻褄の合わないことくらいはあるだろう。
それを思うと、今回の事件自体が、どこか、すべてにおいて中途半端な気がする。
襲撃事件で、犯人は、襲い掛かったうえで、殺害未遂。それなのに、逃げおおせたというのは、どういうことなのか?
あるいは、逃げおおせたにも関わらず、わざわざ自首してくる。
さらに、自首してきたくせに、黙秘権で何もしゃべろうとしない。弁護士が来たから何かを話すかも知れないとも思ったが、どうも、そんな雰囲気でもなさそうだ。
さらに、弁護士が謎の、投書を持ってくる。そこには、最近何かと物議をかもしている保育園の保母さんのことが書かれている。今度の事件に、何か関係があるということなのだろうか?
そして、その投書の中には、ひとこと、不思議なまじないのような言葉が書かれていた。
「解けない雪というのは、あるのだろうか?」
ということであった。
単純に考えると、今の社会のことを、
「解けない雪」
と表現しているのではないか?
特に、
「本当に解けない雪があるわけはない」
というリアルな思いと、
「実際の世の中を雪に例えると、今度は、解かせる雪があるのなら、教えてほしい」
と思うくらいであった。
桜井刑事は、今回の事件を、少し冷静になって、後ろから見てみることにした。
すると一番に感じたことが、
「なぜ、未遂だったのだろう?」
ということであった。
まるで、最初から逃げることに全集中していたかのようで、それを思うと、殺害自体が目的ではなかったと思える。そうなると、逆に、
「殺害未遂が本当の目的ではなかったか?」
と考えるようになったのだった。
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