第6話 ある投書
津山の弁護士がやってきたのは、自首してきた翌日のことだった。
どうやらやり手の弁護士のようで、名刺を貰うと、そこには、
「弁護士:黒川」
と書いてあった。
黒川と名乗る弁護士は、見た目は普通の弁護士であったが、話を始めると、どこか、恐怖を感じるところがあった。
急に、何をいうか分からない雰囲気になり、弁護士は黙ってしまった。何かを考えているのだろうが、こちらからは、まったく何を考えているのか分からず、
「まるで雲をつかむようだ」
と思わせた。
少なくとも、
「やり手弁護士」
というわけでもなく。ドラマの敏腕弁護士という感じでもなかった。
まあ、あの弁護士の場合は、普段の弁護力には長けていたが、犯人としては、相当抜けていた。
それも、弁護士としての自信が、どこか邪魔になったのだろう。
それを思うと、
「あの俳優がうまかったんだよな」
と考えさせられる。
そう思って、今回の津山の弁護士も、ドラマにもいるような感じであり、どちらかというと、人を煙に巻くタイプの人で、まったく、
「食えないタイプだ」
ということではないだろうか。
この弁護士を見ていると、どこか二重人格的なところがあり、弁護士としての仕事をしている時は、輝いているタイプではないかと思ったのだった。
だが、話をしてみると、どこか抜けているのだ。
それを甘く見ていると、こちらを沼に嵌めるかのようで、嵌ってしまった沼から、抜けられないこちらを見ながら、容疑者と二人で、初めて本性を現して、その上から目線の恐ろしさに、
「一番バカだったのは、俺たちじゃないか」
と思うことで、初めて、弁護士の恐ろしさを思い知らされる気がする。
「弁護士というと、依頼人を守るためなら、人殺しだって平気でするくらいの心構えを持っているのかも知れない」
と思うのだ。
確かに弁護士というのは、
「何をおいても、依頼人の利益を守るのが、弁護士だ」
ということである。
そういう意味で、
「依頼人」
という言葉は、
「何気に最強なのではないか?」
と思うのだ。
探偵だってそうではないか。
「依頼人裏切ったら、尾張なんだよ。この世界」
というセリフも聴いたことがある。
「殺し屋」
だって、依頼で人を殺すのだ。
依頼人が、
「殺せ」
といえば、相手が、大統領だって殺そうとするだろう。
それだけ依頼人というものは、依頼を受ける人間に絶対的な優位性があるのだろう。
それだけの巨額な費用が動くということだが、本当にわりに合うのだろうか。
もっとも、殺し屋などとなると物騒であるが、今回の事件は、そういう意味では、何か中途半端であった。
要人を暗殺しようとして、失敗する。そこまではしょうがないのかも知れないが、そのわりに、犯人を逮捕することもできない。
「犯人を逮捕するよりも、肝心の元首相の命を助けることが一番だ」
ということであれば、今回の事件は、
「命が助かっただけでも、正解だ」
といえるであろう。
だが、犯人は、まるで煙のように消えてしまった。
確かに、防犯カメラがあるから、そこから犯人を見つけるということは、昔に比べれば、はるかに楽なのかも知れない。
しかし、明らかに昔ほど、捜査が簡単ということではない。警察権をいくら持っているとはいえ、個人の権利、特に人権というのは、大きなものだった。
昔の1970年代に流行っていた、昔の刑事ものと、今とでは、同じドラマであっても、その様子はまったく違っている。
これは刑事ものに限られたことではないが、何と言っても、ところどころのシーンがまったく違い、今昔のドラマを見たら、
「なんという原始的なドラマなんだ?」
であったり、
「いつの時代なんだ?」
と思うかも知れない。
まずは、昔のドラマを今見た人で、
「これはアウトでしょう」
といえるシーンとして、一番大きな問題は、
「タバコが出てくるシーン」
ではないだろうか?
まず、何と言っても、取調室などの灰皿お上に、山のような吸い殻が捨ててあり、下手をすれば、灰が、机の上にぼとぼとこぼれているようなシーンである。
さらに、取調室でそうなんだから、刑事課の部屋もタバコが充満している。シーンとしてひどいところでは、刑事が、事件を追いかけて聞き込みなどをする時、ヤバい人たちの事務所であったり、雀荘などというところは、蛍光灯のあかりが、煙で白くもやっているような光景を見ただけで、今の人は、頭が痛くなるという感じではないだろうか?
しかも、昔の刑事が張り込みなどをしているシーンでは、普通は咥えタバコをしていて、容疑者が動き出したシーンなどで、刑事がタバコを、道にポイ捨てするシーンがあり、それを革靴で、もみ消しているのである。
今だったら、一発、
「条例違反だ」
ということになるのだろうが、昔であれば、こんなシーンを、
「恰好いい。刑事に憧れる」
などといわれたものだった。
刑事課長が、窓ガラスのアコーディオンカーテンを指ではじくシーンを、意味もなく格好いいといっていた時代に似ているのだ。
あの頃というと、タバコを吸ってはいけない場所というのは、基本なかった。禁煙という感覚がなかったのだ。
さすがに、重病人がいるような病棟で吸うなどはいけなかったかも知れないし、学校の教室もまずかっただろう。
しかし、教員室は平気で吸ってもよかったのだ。要するに、
「受動喫煙防止法」
ができる前に、パチンコ屋であったり、飲み屋の状態であった。
他の場所で吸えないから、パチンコ屋で吸っているやつは、相当態度がでかい。
「ここで吸って悪いのかよ」
と、まるでやくざ顔負けだった。
「俺たちはただでさえ迫害されているんだ」
と言わんばかりの態度に、見ていて、情けないとしか思えないと皆が感じていることを、そんな連中が、分かるはずもないということであろう。
何しろ、
「タバコを吸ってはいけない」
などという意識はなかったのだ。
「副流煙という、自分から出した煙以外で、肺がんなどの病気に罹る人の方が、普通に吸っている人間よりも確率が高い」
ということが証明され始めてから、本来であれば、全面禁煙にすべきところを段階的に禁煙になっていったわけで、それを、
「迫害を受けている」
などという大きな勘違い野郎がいるから、ここまで来るのに、30年もかかったのではないか。
さて、タバコ以外にも、捜査の上で、明らかに変わったことがある。それが、取り調べなどに関してのことだった。
以前であれば、警察の中の奥にある、密閉したところで、
「脅迫」
「拷問」
そんな感じの取り調べが行われていたということもよく聞く。
前述の、タバコもそうだったが、昔のドラマなどの取り調べを見ていると、本当に、
「やくざ顔負け」
という所業が多かったりした。
「ブリキで豆電球を覆ったようなスタンドのライトを顔の前に持っていって、相手を眩しくさせたり、椅子を蹴り飛ばして、その場にこかせて、顔を踏みつける」
などということも実際に行われていたのだ。
戦時中の特高警察などほどではない。さすがに特高警察などは、本当にひどかった。腕を縛って、中刷りにして、竹刀のようなもので殴りつけたり、本当にひどい時には、ペンチで爪を剥いだり、タバコの火を押し付けるというような、
「根性焼き」
と言われるようなことがあったりしたという。
しかし、さすがに民主警察になると、そこまでのことはなかったが、実際に行われていた取り調べは、今の人間から見れば、
「拷問でしかない」
といってもいいだろう。
要するに、
「起訴するだけの証拠がないから、自白に持ち込む」
というものであった。
ただ、そうなると、自白させられ、実際に起訴され、裁判になって、結局、その後に、自白したということで、証拠として採用されてしまうと、実刑になりかねない。
しかし、その後の捜査で、
「別人が犯人だった」
ということで、元々逮捕された人が、
「冤罪だった」
ということで、世間が騒ぎ出すなど、結構あっただろう。
逆に、かしこい弁護士がいれば、
「なるべく早く自白して、起訴させて、裁判になれば、今度は裁判所で、自白を強要されたといえば、警察の心証が悪くなるので、こっちのものだ」
といって、わざと自白させるパターンが多くなってくる。
そうなると、警察側が、一生懸命に白状させたことが水の泡になってしまう。
もちろん、正攻法で、自白させた場合のことであるが、被告から、
「取り調べの時、拷問を受けて、自白させられた」
などといえば、警察の取り調べがどういうものだったのかが、密室で分からないだけに、警察も、
「正しい取り調べだった」
と言えないのだ。
被告の方がそういえば、自白の効力が一気になくなってしまう。下手をすると、証拠は、物的なものが一つもない、
「状況証拠だけ」
ということになれば、まったく最初からやり直しになる。
下手をすれば、無罪にならないとも限らない。
日本の法律では、
「一度判決が下った案件に関しては、同じ内容の再審理は行わない」
という、
「一事不再理の法則」
というものがある。
だから、一度、無罪というものが確定すると、その後、いくら絶対的な証拠が出たとしても、その人が裁かれることはないということになるのだ。
だから、取り調べというのは、非常にムスカしい。
いかに判決を正しい形で行わせるか?
これが、今の時代に求められているものなのだ。
そんな取り調べも、今のコンプライアンスに近い形を取っている。これは世間でコンプライアンスと言われ始めた頃よりも早いような気がするが、元々警察の処置から、
「警察で、コンプライアンスのことを言われ出したことで、世間でも広がったのではないか?」
と思うのだった。
まずは、セクハラ関係においてのことだが、女性の参考人がいる時は、必ず、女性の係官がついているということ、さらに、留置する場合も、留置場まで、確か女性が一緒についていくのではないだろうか?
要するに、係官が男性だけでは、セクハラ問題が起こらないとも限らない、確か、取り調べの最中の書記も女性ではなかったか。
取り調べの最中の言動にも、セクハラがないようにという配慮かも知れない。
ここまで警察がシビアなのは、逆にどれだけ以前からひどかったのかということを証明しているのかも知れない。
さらに、パワハラというものもある。暴力や、それに類したものにより、相手に脅迫観念を与えて、自白させるというものだ。
だから、取り調べ中の部屋の扉は、基本的に開けっぱなしになっている。怒号が起こらないようにする。あるいは、暴力が行われないということになるのだろう。
取調室では、確か、だいぶ前から禁煙だったように思う。それは、
「根性焼き」
のようなことがないようにするためだと思うのは、自分だけだろうか?
要するに、ハラスメント違反に関しては警察も結構厳しかった。
昔のテレビドラマなどや、よくパロディなどで取調室で行われていることとして、
「かつ丼食うか?」
というのがあっただろう。
「取り調べというと、かつ丼」
というのが代名詞だっただろう。
しかし、それも今はなくなっている。これも、
「泣き落し」
だったり、空腹を狙っての自白強要に繋がるということなのか、正直、いろいろ言われているがどれが本当なのか、警察当局でなければ、真相というものは、よく分からないことであろう。
そんな警察の取り調べの中で、自首してきたこの男は、相変わらずの黙秘を続けている。とにかく、
「弁護士が来るまでは、何もしゃべらない」
ということを徹底しているのか、とりあえずは、にらめっこが続いているようだった。
しかし、時間が経てば経つほど、
「本当にこんな男が、あんな暗殺などという物騒なことを引き起こしたのだろうか?」
と感じてくる。
黙秘を続けているというのは、それだけ、警察が怖いと思っているのか、次第に肩身が狭そうで、時間を持て余しているという感じであった。
「本当は喋れば楽になれるのに」
と思っているとしても、不思議がないほどで、見ていると、額にうっすらと汗が滲んでいるようだ、
「話したくてうずうずしているんだろうか?」
とも思ったが、ここで警察が焦って、相手に喋らせるようなことを強要はできないだろう。
何といっても、相手は自首してきたのである。言いたいことがあって自首してきたのか、防犯カメラの映像が手配の材料にされたことで、
「逃げられない」
と踏んだのか。
それを考えると、
「ここで焦って自白の強要に走ると、まるで相手の術中にはまってしまうような気がするので、一緒ににらめっこするしかないんだろうな」
と思いしかなかったのだ。
そんな状態の、
「にらめっこ」
が続いている時、並行して、この男の身元が調査されたが、自首してきたこと以外で、今回の事件に結びつくような事情は、出てくるわけではなかった。
家族とは、離れて住んでいて、兄弟も、3つ年上の兄貴がいたというのだが、どうやら、自殺をしたという。
「その原因が今回の事件に何か関係あるのでは?」
と思い、調べてみると、どうやら、失恋での自殺だったという。
そもそも、兄貴はm精神疾患に悩まされていて、鬱病を患っていたという、その状態からの、
「衝動的な自殺だったのでは?」
とも言われたが、遺書もあったことから、衝動的というよりも、徐々に死にたいといいう思いが募っていき、覚悟が決まってからは、後は、自殺にまっしぐらだったという。
自首してきた弟も、少し精神疾患の気があるようで、兄貴と同じような鬱病だという。
ただ、自殺を試みるほどの出来事が今までになかっただけで、逆にいうと、人を好きになったり、人と絡んで何かをしたりということが、今までになかったのだ。
そんな男だということが分かると、さすがに、取り調べで相手を追い込むなどということは決してできないことは明白だった。
当然、相手の弁護士もそのあたりをついてくるだろうし、こうなると、相手の弁護士との闘いになることは明らかだった。
その日の夕方頃になって、担当弁護士ということで、黒川という男が、K警察にやってきた。
彼は、どうやら、容疑者の父親から雇われたということだった。父親は、会社を経営していて、本来であれば、息子が自首したということだけで、会社経営が危機にあることを分かっているということで、顧問弁護士でもある黒川氏がやってきたということであった。
ただ、黒川弁護士がやってきた時、一枚の手紙を持参していた。最初に黒川弁護士がやってきた時、最初に、
「釈放願いたい」
ということを言ってきたのだ。
彼も弁護士なので、容疑者が自分から自首してきたのだから、そう簡単に釈放など警察にできるわけはないということは分かっているはずだ。それだけに、強硬に言っているわけではない。
そこで、弁護士が取りだしたのが、持参してきた手紙だった。
「これは、私どものところに舞い込んだものなのですが、警察にも、情報共有ということでお渡しします」
といって見せてくれた。
警察との情報共有などというのは、普通はおかしいのだが、さすがに、刑事もビックリしていた。
「投書ということですか?」
と聞かれた黒川弁護士は、
「まぁ、そういうことですね」
とこたえた。
そこに書かれているのは、
「元首相の山根氏を襲撃したのは、津山氏ではない。某保育園の、某保母さんだ」
ということが書かれていた。
いまさら、
「保育士と描かずに、保母さんという表現をしているのは、投書を送りつけた人間の性格なんでしょうね」
ということであったが、まさにその通りではないかと思うのだった。
さすがに警察も、この投書だけで、自首してきた人間を、
「はい。そうですか」
といって帰すわけにもいかない。
とりあえずは、弁護士の権利として、取り調べを受けている、容疑者との接見を、決まった範囲で許すしかなく、どんなことを話すのかは、警察が聞くわけにはいかない。
せめて、
「投書があった」
ということと、これからのことに関しての方針くらいは話しただろう、
弁護士は、やるだけのことはやってその日は帰っていったが、その無表情な性格から、何を考えているのか分からなかった。
警察側も、弁護士に対しては、
「いよいよ始まったか」
という程度で、特別な感情を持ったわけではなかった、それだけ、黒川というのが、
「普通の弁護士」
だということで、必要以上に意識する必要がないと感じたのだった。
その日の夜は相当冷えてきていて、
「まさか雪が降ったりはしないだろうな?」
というほどの寒さに、街全体が凍り付いているような寒さだった。
まるで、今後の捜査を暗示しているかのようで、桜井刑事は、その冷たさを、身に染みて感じているようだった。
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