第3話 主義の問題
そう、この考え方は、大日本帝国の、
「天皇陛下万歳」
ということに通じるものではないだろうか?
大日本帝国では、
「天皇が絶対であり、天皇が、日本においては神様で、天皇陛下のために、命を落とすのは、日本国民の義務だ」
という時代だったではないか。
そもそも、それが、
「軍国主義日本を作ってきた」
ということで、そんな、
「立憲君主」
の国から、
「民主主義の国」
に変わったというのに、こんな理論の放送をしてもいいのだろうか?
いや、逆に、おおっぴらにできないことで、
「子供向けの番組において、軍国主義のような考え方を忘れないようにしようという意図でも働いたというのか?」
と考えられなくもないということであった。
つまり、ここで大きな問題点は、
「数による優位性」
である。
要するに、民主主義の絶対的な考え方は、
「多数決」
という言葉で代表される。
つまり、賛成が多ければ、そっちの意見が生きるのだ。
しかし、実際の行政ともなると、そんな簡単にはいかないということである。
それが分かっているからなのか、それとも、そんな民主主義への心ばかりの、
「反発なのか」
「数の理論ではない、力の理論」
が、特撮では描かれている。
「ちょっと待て」
ここで思うのが、
「数の理論では、限界がある、民主主義は、数の理論で勝った方が圧倒的に強く、彼らが、勝ち組として、生き残り、さらに強くなっていく」
という理論になれば、結果として、
「勝ち組と負け組の差が広がる。つまり、貧富の差が激しくなり、一部の特権階級が得をするだけで、それ以外は明らかに損をする。しかも、滅亡するところも出てくる」
ということになり、それが、
「民主主義の限界」
であった。
それを、打開し、理想の社会として考えられたのが、社会主義であり、共産主義であった。
何が違うかというと、一番大きいのは、
「資本主義というのは、あくまでも自由競争であり、国家がほとんど介入しない。しかし、そのせいで、貧富の差が激しくなったり、少数派が切り捨てられるということになるのだ。だから、その解決策として、すべての権利義務を国家が共有するということであり、資本主義では、国家が企業に介入できないのとは別に、共産主義では、企業が皆、国営なのである」
つまり、
「儲けはすべてが、国家のものとなり、給料は皆に、均等に分け与えられる」
というのだ。
ということは、
「国家が何よりも強くなくては、成立しない」
ということで、
「国家至上主義」
というわけである。
そうなると、実は逆の問題も出てくる。
競争がなくて、皆が同じ給料であるということは、
「他人よりも一生懸命に働いても、結局皆同じ給料であれば、給料以上のことを誰もしないということだ」
そもそも、
「貰っている給料だって、それが妥当な金額なのかどうか。あてになるものではない」
ということだ。
だったら、
「誰が一生懸命に働くものか、給料分しか、対価に似合っていると思っている今以上のことは誰もしようとは思わない」
となると、毎日をただ、過ごしていればいいというだけで、成長というものがまったくなくなってしまうのだ。
そうなると、
「社会の発展などあり得るわけもなく、他の資本主義の国を戦っても、勝ち目があるわけはない」
といえるであろう。
資本主義においての会社は、
「成果を挙げた人間には評価をして、それに似合う賃金を渡しているから、今以上に頑張る」
という考えが出てくるのだった。
資本主義の
「貧富の差が激しい」
というのは、貧しい会社のさらに底辺での生活を余儀なくされている人たちであり、
「いくら、貧富の差がないとはいえ、毎日同じ仕事を同じようにして、ただ、それに対して金をもらうだけの、社会主義と、どちらがいいというのだろう」
ただ、社会主義国は、とにかく。
「国家が強い」
のである。
そんな社会において、
「どちらが果たしていいのだろうか?」
という考えを持つよりも、
「どちらの方がマシなのか?」
ということを考える方がいいのではないか?
つまりは、社会を考えるというのは、あくまでも、
「減算法」
であり、
「資本主義、民主主義」
であっても、
「共産主義、社会主義」
であっても、そのどちらも、
「最初は、どちらも、完璧だと考えられたことではなかったであろうか?」
ということである。
特に、社会主義というのは、
「民主主義の限界に挑戦する考えということで生まれたものだったはず」
だから、少なくとも考えた人は、
「これで、民主主義を超える完璧な発想」
ということではなかったか。
ということは、社会主義も資本主義も、
「国家の主義として、採用されるということになったのは、あくまでも、すべてにおいて正しいということでの採用だったのではないだろうか?」
というよりも、
「その時代の考え方としては、これが一番最高だ」
ということなのかも知れない。
とにかく、他に主義があったなかったは別にして、最初に考えたことが、すべて正しいということで始まったことでないだろうか。
つまりは、
「まわりが見えていない。限界があるのかどうか分からないから、完璧だと考えた」
といっても過言ではないだろう。
それは、社会主義に対しても同じだったのかも知れない。
あくまでも、その時の、
「民主主義の限界」
を考えた時、
「社会主義という考え方は、さらに上を行っている」
ということは、間違いにない発想だったであろう。
しかし、実際にやってみると、かなり難しかったのは間違いない。
絶対的な条件として、
「国家が国民よりも強くなくてはなりたたないものだ」
ということだからである。
だから、社会主義を批判する国民が一人でもいれば、それは危険なのだ。
民主主義であれば、過半数以上の人がいれば、それ以外の人は無視しても、一切関係ないということだからである。
もちろん、これは極端な話であるが、そんなに無茶な話でもない。そういう意味では、
「主義を守るということで、過半数という考え方は、実に都合のいいものだ」
といえるのではないだろうか。
ただ、民主主義はそれでもいいのかも知れないが、社会主義はそうはいかない。
「過半数」
などという考えは、政治を行う上では存在しない考えだ。
つまりは一人の独裁者によって、国の方針が決められ、絶対な権力を持っていなければならない。そうでないと、企業をすべて国営にしたり、多数決で決められないということになれば、独裁者が存在しないと成り立たないことくらい分かりそうなものである。
かつての、
「帝国主義国家」
というのは、そのほとんどが、それと似た国家ではなかったか。
国家元首として皇帝や国王がいて、
「接待的な権力を持って、君臨している」
のである。
日本であれば、天皇ということになり、そもそも日本は、天皇中心の、国内体制としては、
「中央集権国家」
だったではないか?
確かに、天皇中心の国家になってしまうと、
「天皇に、都合のいいことしか伝えずに、天皇から、慕われるような、実に都合のいいことを吹き込む男が数人いれば、国家は乱れるというものである。それが、特権階級と呼ばれる政治家であり、日本の場合はさらに、
「軍が独立していた」
ということなので、軍国主義として、軍の独占先行が、そのまま国家の存亡にかかわってくることになったのだ。
よくよく考えてみると、これは、社会主義と似ているのではないか。
国民の自由を奪うことで、国民は何も知らされず、さらに悪いことに、戦時下で、政府が国の状況を知らされないという時点で、外交なども、うまくいくはずもない。
外交としては、
「何とか和平を」
といっているのに、国内は軍は、
「徹底抗戦」
「一億総火の玉玉砕」
などということを言って、国を指導しているのである。
こんなまったく統制の取れていない国家のいうことを、まともに他の国が利くはずもない。
このような状態にしたのは、ある意味、明治政府を作った、前述の、
「大日本帝国憲法における、天皇の統帥権」
だといえるのではないだろうか?
戦争が終結して、占領軍が入ってきて、
「極東国際軍事裁判」
が行われることになった時、一番の問題は、この、
「天皇制」
という他の国にはない制度と、裁判における、
「天皇の戦争責任」
だったのだ。
「戦争責任が、天皇にあるかどうか?」
つまりは、
「天皇がどこまで知っていたのか?」
ということである。
それには、当然、大東亜戦争だけでは、解決できるわけはない。少なくとも、満州事変にさかのぼる必要があるだろう。
本来ならもっと昔にさかのぼるべきなのだろうが、そうなると、
「ペリー来航」
ということになり、
「あまりにも莫大である」
ということと、
「ペリー提督がアメリカだった」
ということから、アメリカにまで、被害が及んでしまうのではないかという危険性があったことで、アメリカは、
「せめて、満州事変」
というところまでしか坂野ブルことはできなかったのであろう。
それを思うと、
「天皇の戦争責任を裁く前に、戦争犯罪者からの事情聴取が必要」
だったのだ。
しかし、日本において、戦争が終わっても、
「天皇は絶対」
であり、逮捕された人たちも皆気持ちは、
「天皇を戦争犯罪人にしてはいけない」
ということであったのだ。
天皇を戦争犯罪者にしてしまうと、どうなるかということは、裁判を行う側でも検討が行われていたことだろう、
「天皇を処刑にでもすれば、それまでの国民のよりどころがなくなることになり、暴動が起きたりなどして、占領計画が先ゆかなくなる」
という苦言もあった。
しかし、逆に、
「見せしめにしないと、また軍国主義で、天皇を中心とした、国家に立ち戻る可能性は十分にある」
ということで、その妥協案としてて、憲法のスローガンを、
「国民主権」
「基本的人権の尊重」
「平和主義」
という柱にあったのだ。
最初と最後が、軍国主義への戒めであり、基本的人権の尊重というのが、民主主義の基本として、盛り込まれたのだろう。
そこでの妥協案として、
「天皇を象徴とすることで、国民感情を煽ることをせず、民主主義の考え方を植え付けることを選んだ」
ということだろう。
一つには、
「ソ連の動向が大きな問題」
といえるのではないだろうか?
朝鮮半島の問題もあったことだし、日本の統治でぐずぐずしていては、まわりのアジア諸国の元植民地が、独立運動をしていることもあり、早く進める必要があったのだろう。
ぐずぐずしていると、
「独立した国家が、社会主義にならないとも限らない」
という危惧もあったのだろう。
それを考えると、
「まずは、日本を統治しないと、周辺諸国の動向を考え、日本を拠点に、周辺諸国に対しての影響力を強める必要がある」
ということでもあったのだろう。
特に、欧州での、ドイツやポーランドにおいて、ソ連の動向が強気であることから、アジアにおいては、
「アメリカが主導権を握る」
ということが必要であるということなのだろう。
それを思うと、早く日本を落ち着かせる必要があるということで、軍事裁判も、昭和23年までに片付けたのは正解だっただろう。
その翌年くらいには、アメリカが恐れていた共産主義の国が、中国に出来上がり、(もっとも、アメリカが中国の国民党である蒋介石への援助を辞めたから、こうなったので、自業自得ともいえなくもない)それによって、アジアの情勢が変わっていった。
インドシナ問題しかり、インドネシア問題もしかりであった。
ただ、一番の問題は、ほぼ同時期に、朝鮮半島において、元々、
「北部をソ連が、南部をアメリカが」
ということで起こった、
「分割統治」
という問題が、今度は、
「分割国家の独立」
ということになったのだ。
しかも、北部はソ連による社会主義国、南はアメリカによる民主主義国と、まるで、
「絵に描いたようなベタな展開」
によって成立した国は、北部の、
「統一国家を作りたい」
という意思によって、
「南部への侵攻」
という戦争勃発になったのだった。
そもそも、アメリカの進駐軍は、
「日本統治に必死で、韓国に武器の供与を何もしていなかった」
という。
旧日本軍が放置した旧式の武器だけが頼りだったが、それで抵抗できるわけもない。戦闘機など一機もない状態で、ソ連から最新式を供与された北朝鮮軍に対して勝ち目などなかったのだ。
そんな時代においても、
「頭の中がお花畑だった占領軍は、さすがに、ソウルが陥落したのを受けて、これはまずいと思ったのか、すぐに、人選上陸作戦を成功させた」
ということであった。
しかし、実際に、その後、今度は、
「中国の人民解放軍が攻めてこない」
と思い込んだこともあって、要するに、
「考えていたことがすべて思い込みとなってしまい、作戦も後手後手に回ってしまった」
といえるだろう。
しかも、
「ソ連とアメリカの代理戦争」
とまで言われていたのに、相手は中国軍は出てきたが、ソ連軍が出てきたわけでもないのに、戦争が膠着状態になってしまったのは、連合国側の、
「甘い考え」
ということなのだろう。
何しろ、
「朝鮮戦争」
というのは、アコーディオン戦争と言われるくらいに、前線が上に行ったり下に行ったりであった。
それだけ、
「厄介な戦争だったのだろう」
アメリカが、ちゃんと見誤らずに戦争をできていれば、ひょっとすると、多国籍軍がなくとも、韓国軍だけで、防げたのかも知れない。それを思うと、あれだけの長い間戦争が続いていたというのも、伺えるというものだ。
そんな戦争が、今度はベトナム戦争に及び、またしてもアメリカは、北部ベトナムの力を見誤った。
というよりも、
「大東亜戦争の時代であれば、戦争を早く終わらせることで、アメリカ兵の命を一人でも救う」
ということで、
「絨毯爆撃
というものを行い、批判を浴びはしたが、何とか、戦争に勝つことができた。
しかし、朝鮮では、自分たちの考えが甘かったことで、中国の台頭を見誤り、長期化してしまったことで、また爆弾を大量に降らせることになった。
だが、ベトナムにおいては、最初は、
「軍事基地を中心に、ピンポイント爆撃」
というものを行っていたのだが、実際には、
「成果が上がらない」
ということであった。
つまり、ピンポイント爆撃であれば、
「相手からの報復もあり、作戦の被害のわりに、効率のいい攻撃ができない」
ということになり、国内から、攻撃や作戦に対して、避難があがった。
「自分の息子がなんで、死ななければいけないのか?」
というようなことであろうが、その声に押される形で、アメリカは、またしても、
「無差別爆撃」
に走ったのだ。
ということになると、今度は、爆撃被害を撮影した写真が世界に公表されると、それが今度は、物議をかもし、
「残酷すぎる」
ということで、
「ベトナム戦争の反戦運動」
が巻き起こったのだ。
だから、その状態をアメリカはまずいと感じ、兵を南ベトナムから引き始めたのだ。
つまり、
「中国や朝鮮でやったことを、また、ベトナムでやるという、南ベトナムからすれば、アメリカに援助されて行った戦争で、肝心なところでアメリカに見捨てられた」
ということになるのである。
日本の置かれている状況としては、
「日米安保」
という観点で、
「日米地位協定」
というものがあった。
これは、
「一応日本が、占領国ではなくなったことで、新たな日本の枠組み」
ということでの、主に、
「日本国内でのアメリカ軍の占める位置」
とでもいえばいいのか、それを規定したものである。
これにより、日本国内においての、米軍基地の在り方などを規定したもので、それにより朝鮮戦争、ベトナム戦争では、
「日本国内のアメリカ軍基地から、出撃していった」
というものも結構あった。
つまり、日本国内の、米軍基地というのは、
「アジアにおける、米軍の前線基地」
ということを示している。
つまり、米軍にとって、朝鮮であっても、ベトナムであっても、重要な基地であることに変わりはなかったのだ。
もちろん日本は、
「敗戦国」
であるため、このような仕打ちは仕方がないのだが、考えてみれば、せっかく、ペリー来航からの、不平等条約の撤廃にまでこぎつけた明治政府の日本であったが、結果として、それから半世紀も過ぎないうちに、日本は、欧米列強に宣戦布告をし、最終的に、国土が焦土になったところで、無条件降伏。
それまでの、明治政府の努力を踏みにじる結果になってしまったといってもいいだろう。
「どこで、変わってしまったのか?」
というのも、重要なところだ。
ところどころでターニングポイントがあった。
満蒙問題と、食糧問題を解決するための、満州事変は、
「しょうがない」
としても、そこから先の中国本土への侵攻。
あるいは、偶発的な事故だったとはいえ、盧溝橋事件も、一度は解決したとはいえ、中国による虐殺は挑発で引き込まれた、シナ事変。ここでの問題は、
「トラウトマンによる和平交渉」
がその一つだっただろう。
これは、ドイツ人の駐華ドイツ大使であった、トラウトマンと大佐が、仲介となって誘導された、
「シナ事変の和平交渉」
だったのだ。
日本側が提唱した内容に対して、最初、蒋介石は、
「これくらいであれば、応じることができる」
ということで、和平に乗り気だったのだが、日本軍が、
「南京を陥落させた」
ということで、その条約内容を、かなり厳しくしてきたので、せっかく乗り気だった蒋介石を頑なにしたことで、シナ事変の和平がならなかった。
それによって、日本は、中国奥地に誘い込まれて、長期戦となったのである。
また、もう一つのターニングポイントは、
「大東亜戦争において、当初の計画通り、勝っている間に、日本国が有利になるような、和平交渉というものを行っていれば、戦争は、少なくとも、焦土にならず、占領という憂き目にあることなく、日本の顔が立つように、終結していたかも知れない」
ただ、元々戦争には引きずりこまれたのだから、アメリカが、いずれは勝てる戦争を、むざむざ辞めるとは思えないが、ひょっとすると、戦争を辞める最後の機会だったのかも知れない。
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