第2話 ある政治家
そんな状態において、いわゆる、
「勝ち目などない戦争」
に突入した。
こうなってしまうと、日本が生き残る道は一つしかなかった。それが、
「日露戦争と同じ道」
ということで、
「まず軍が、奇襲攻撃をかけ、相手の出鼻をくじく形で、身動きできないようにしておいて、初戦において、圧倒的な強さを示し、相手に対して戦意喪失させるくらいの決定的な勝利をいくつもおこなったところで、講和条約を有利に進める」
という方法しかなかったのだ。
連合艦隊の司令長官である山本五十六が、
「戦争の見通し」
について聞かれた時、
「最初の半年やそこらは、存分に暴れて見せますが、それ以上となると責任は負えません」
ということを、答えている。
実際には、その通りとなり、戦争は日本軍が主導権を握ったまま進み、半年までには、作戦の大半を達成していたのだ。
しかし、結果、戦線が伸びすぎてしまい、武器弾薬の補給がおぼつかなくなり、さらには、ある程度まで壊滅させたはずの、アメリカ太平洋艦隊も、
「驚異の量産性」
により、戦力はアメリカも充実してきた。
そうなると、日本には勝ち目はなかった。そこから先が、
「泥沼」
に嵌りこむのだった。
「中国大陸での失敗を、太平洋上で、アメリカに対してしたのだから、結果は見えていた」
ということであろう。
しかし、軍は情報統制を行い、必死に国民の士気が下がることだけを恐れ、無差別爆撃を受けても、
「士気さえ高揚であれば」
ということで、
「竹槍訓練」
「バケツリレー」
などという、致命的な訓練でもして、士気を高めるしかなかったのだ。
そうなってしまうと、戦争も終わりで、結果、無条件降伏から、占領という憂き目になるのであった。
それから、そろそろ約80年が経とうとしている。
当時の戦争を知っている人は、もうほとんどが皆無となり、
「過去の歴史」
としてしか語られない時代になってきたといってもいいだろう。
だが、戦争前夜から戦争。
いや、大日本帝国憲法ができてから、その問題はいずれ立ちはだかる問題だったのかも知れないが、それが、
「天皇の統帥権」
としての、軍の立場の問題だったのだろう。
「政府のトップが、軍の作戦すら知ることができない」
というジレンマ、そして、それを嫌というほど味わったのが、東条英機だったということを考えると、
「あの戦争を引き起こした原因の大きな一つに、天皇の統帥権が関わっていた」
といっても過言ではないだろう。
大日本帝国が滅んだことで、日本国というものが、戦勝国である、連合国側から作られることになる。それまでの、
「立憲君主国」
から、
「民主国家」
への変貌である。
今の国家は、その民主国家から来たものであるが、結局は、
「アメリカの属国」
に見えてしまっている状態である。
「平和国家日本」
というのが、日本の代名詞のようであったが、最近ではそうもいかなくなった。
「隣国である、いくつかの国が、日本の国の近くで、攻め込んできている」
それを日本の国民は皆、
「日米地位協定」
というものがあることから、
「アメリカが、軍事的に日本を守ってくれる。何と言っても、日本は、専守防衛の国だから」
ということであるが、実際には、アメリカとしても、
「日本は戦時体制になった時は、まず日本が防衛努力を行い、それでも難しい時は、アメリカが動く」
というもので、それも、アメリカとしては、その時の情勢によるということであろう。
つまりは、他の同盟国に対しての体勢と同じだということである。
もし、そういうことであったなら、日本は、戦争に巻き込まれた場合、防衛力がなければ、すぐに占領の憂き目にあうということになるが、占領されてしまうと、いくらアメリカでも、簡単に手を出せなくなってしまう。だから、
「防衛費を拡大して、自己防衛ができる国にしないといけない」
ということが言われるようになった。
そんな時の、夏くらいであっただろうか。ちょうど参議院の解散時期であった。そのための選挙が行われていたのだが、その時、元首相であったり、政党の要人が、自分の政党で推したい人の応援演説をするという、いわゆる、
「遊説活動」
が繰り広げられていた。
徳に、今年の政府において、元首相の動きははげしかった。
ウワサでは、
「再度首相への返り咲きを狙っている」
という話もあるくらいだったが、その人がちょうど、
「日本の防衛予算を引き上げ、防衛能力を高める必要がある」
ということを切実に推し進めている人だったのだ。
「自国を自分たちで守るのが当然だ」
ということで、その一番のネックになっている、
「平和憲法」
というものを、改正する必要がある。
ということであった。
実際に水面下では、いろいろ動いているようだったが、なかなかどこまで言っているのか、水面下である以上、なかなか国民に見えるわけではなかったが、今回の参議院選挙も、そういう意味で、自分の意見を組んでくれる人を押したくなるのも、当然だというものである。
選挙はどこまでうまくいくかは、分からなかったが、少なくとも、政府与党が負けるということはなかった。
確かに与党は、いろいろ問題も多く、ソーリの支持率も最低の時期であったが、それ以上に野党がひどかった。
野党第一党の支持率が、10%を切っているのだから、どうすることもできない。
いくらうまくやったとしても、野党が一致団結したとしても、とてもではないが、政府与党に勝てるわけがなかった。
何しろ、野党が同じ選挙区で、別々に立候補者を立てたりすると、そこで競合してしまうのは当たり前のことであった。
そんなことは分かり切っていることであり、政府与党としては、
「しめしめ」
ということで、ほくそえんでいることだろう。
政府与党とすれば、
「競合してくれて、野党票が割れてくれれば、自分の一人勝ちという青写真が現実のものとなるからである。
しかし、野党候補が一人だけになってしまうと、
「過半数を取らないと勝てない」
ということになり、そうなった時、どうすることもできなくなるのは必至ではないだろうか?
だから、もし、
「野党が協力しなければ、政府はさらに安泰だ」
ということであった。
野党が競合せずに、1:1の構図で戦ったとしても、
「政府与党が圧倒的な力」
というのは、ほとんどの人が認めることであろう。
かといって、野党も、
「はい、そうですか」
といって、簡単に、候補者を下ろすということにはいかない。
特に党の幹部であったり、執行部として、絶対に政治家として必要な人であれば、そんなに簡単に諦めるわけにはいかないだろう。
それを思うと、
「その地区は、何としても、自分たちの党のちからを見せるしかないということで、下手をすれば、野党の一騎打ち」
という構図を見せる選挙区もあるに違いない。
そんな政治の裏側をいかに見ていくかということが、問題になるのであって、国民も、選挙に熱くなっている人間、まったく無関心の冷めた目で見ている人間と、その差はかなりのものであろう。
そもそも、
「投票率が低いと、現政府が有利だ」
といわれている。
なぜかというと、低い投票率の中で、実際に投票しているのは、
「選挙になれば、必ず行く」
という、いわゆる、
「固定票」
あるいは、
「組織票」
と呼ばれるものである。
それらの票は、政府与党の票であり、特に連立政権である、もう一つの党の、一種の、
「宗教票」
といえるものではないだろうか。
もっとも、最大与党は、その政党と連立を組んだのは、
「ちょうどその時、単独政党だけでは、過半数を上回ることができない」
ということで、しょうがなく、どこかの政党と組まないといけないとなった時、浮かんできたのが、ここの政党で、
「宗教票としての、固定票さえあれば、過半数を割ることはない」
という考えがあったからだ。
だが、元々は、野党第一党でもなかった政党なので、その発言力には限界があった。そういう意味では、
「政府与党」
の仲間入りをしても、彼らに政策を邪魔されるということはないだろう。
ということであった。
しかし、それでも、一方ならぬ口出しはしてくる。助言という形ではあるが、その声を同じ与党を組んでいる相手として、無視をすることはできない、
お互いに気を遣いながら政権を築いていき、何とか今までうまくいってきた。
細かいところでは、その政党の政策も実現されていて、
「彼らがいまさら、野に下るということはないだろう」
といわれるようになったのだ。
今回の参議院選挙も、
「防衛費の問題」、
「数年前から巻き起こった、世界的なパンデミックの問題」
さらには、
「オリンピック自国開催」
の問題と、様々な問題があった参議院選挙であったが、選挙という問題から、選挙寸前に起こった、
「襲撃事件」
というものが、大きな問題となってきたのだった。
襲撃された、その人は、何とかかすり傷程度で済んだのだが、もちろん、その時の犯人もすぐに捕まった。
彼は、個人的に、その政治家を恨んでいたようで、政治的な意図で殺害を計画したというが、そのバックには誰も潜んでいるというわけではなかった。
実際に、今までにも、選挙遊説中に、政治家が、
「命を狙われた」
ということは、なかったわけではない。
実際に、何度か殺されかかった政府の人間もいて、戦後では、実際に暗殺された人は少なかったという。
少なくとも、首相関係者、つまり、
「現首相」
であったり、
「元首相」
という人に、命を奪われたという人はいなかったということだ。
世の中にはいろいろな考え方の人がいて、中には、強引な行動を取る人たちも少なくはない。
そんな人の中には。
「本当に殺してやりたかった」
という、過激な人もいるし、冷静になれば、自分がやったことを、
「浅はかだった」
と反省する人もいる。
もちろん、反対する人には、本心からの人もいるだろうが、実際には、
「次の機会にあわやくば」
と考えている人もいるだろう。
そこには、その実行犯の裏に、組織があったりすると、簡単にはいかないことも多いだろう。
そう考えると、
「世の中というのは、一筋縄でいくものではない」
ということになるのだろう。
政治家というものをいかに考えるかということも大切だということで、政府は、公務を行いながら、選挙も見なければいけない。結構大変だといってもいいだろう。
そういう意味での、
「元首相」
などという要人における選挙運動は、結構強いものであるといっても過言ではないだろう。
ただ、今回の選挙は、普通であれば、
「政府与党の楽勝」
ということであったのだろうが、政治家によっては、
「一人でも、自分の影響力のある人を、当選させたい」
と思うのも当たり前のことだ。
現職の国会議員が考えるのは当たり前のことで、むしろ、
「元首相」
のような、現在では、それほどの力を持っていない人にとっては、これから巻き返しを図るという意味では大切なことだったのだ。
そんな時代において、暗殺未遂事件のターゲットとなった元ソーリは、結構毎日のように、積極的な、
「遊説活動」
を進めていた。
「近畿地方にいたのかと思えば、東北、次の日には九州」
と、目まぐるしく、遊説をしていたのだ。
まさに、
「時間との闘い」
それが、その時の遊説だったのだ。
逆にいえば、
「自分の影響力のある政治家が全国に散らばっている」
ということであろう。
全国に分布しているくらいなのだから、それを組織化すれば、かなりのものであることは分かり切っている。
政治家というものを考える時に、
「いかに、主義主張が同じ人をたくさん集めるか?」
ということが、一番重要なことで、それが、今の政府を作っているといっても過言ではない。
「とにかく、憲法改正を」
というのが本音であろうが、あまりにも全面に押し出すと、そこは難しい状態になるということは分かり切っていることだろう。
ここからは、作者の個人的な意見というものに入るので、少しの間ご容赦いただきたい。
今の時代において、民主主義というものを、アメリカに、
「押し付けられた」
のであった。
しかし、戦後の一時期、知識人や、有識者といわれる人たちの一定数の人が、
「社会主義、共産主義というのは、実に理想の世界だ」
ということをいっていた時代があった。
何と言っても、
「民主主義であったり、資本主義には限界がある」
ということである。
というのも、民主主義の基本は、多数決である。ということは、
「少数派は、気にされることもなく、バッサリと切り捨てられる」
ということだ。
昔の特撮ヒーロー番組やアニメなどで、
「人一人の命は、地球よりも重い」
ということで、ヒーローがジレンマに陥るという話があった。
さらには、
「地球を救うためには、アルマゲドンのように、軌道制御が故障したから、地球の軌道を変えてほしいと依頼してきた宇宙人がいたが、地球を救うためにはやむを得ないということで、相手の星を破壊した」
という話があったではないか。
確かに作中では、
「宇宙人を地球に移住させようと呼びかけを行ったが、応答がなかった」
ということにして、彼らもろとも、地球から発射したミサイルで、宇宙の都市国家を破壊したのであった。
そんなにきれいごとを言ったとしても、
「地球が生き残るためには、相手を滅ぼしてもいい」
という理屈に変わりはない。
確かに時間がないことで、ジレンマに陥った地球であったが、その時はしょうがなかったかも知れない。
もっといえば、
「話をそこで終わらせていいのだろうか?」
ということである。
その後、宇宙人は、帰る星がなくなって、地球を彷徨うという悲しい話になってしまった。
これが大人だったら、
「何か含みがあるのでは?」
と考えることもできるが、普通に子供番組である。
そんな子供番組を、そんな終わらせ方でいいというのだろうか?
まるで、浦島太郎を、
「悲劇で終わらせた」
という話と似ているところがある。
時間的な尺もあったのだろうが、ナレーションでもいいので、最後に。
「地球では、この事件を契機に、地球の軌道を変えることができるという研究が、行われるようになった」
とでもひとこと添えれば、子供心に、
「ああ、それはいいことだ」
ということで、教育上もいいこととして受け取られていたはずだ。
それなのに、その一言がなかったのは、あくまでも私的解釈であるが、
「ドラマのミステリアスな部分が、最後にその一言を入れることで、台無しになってしまう」
ということであれば、分からなくもないが、放送終了後のエピソードとしても、何も言われていないではないか。
そもそも、あの特撮番組は、後になってから、いろいろ研究がされて、
「あの時に言いたかったのは」
ということで、解釈もいろいろだったのだ。
そもそも、そういう番組だったのだ。
子供だけではなく、大人が見ても、感心するような番組ということで作られたはずなのだから、子供を無視して、
「大人なら、解釈の範疇だ」
といってとしても、それで収まることだといえるだろうか。
つまり、子供への夢や教育というよりも、どちらかというと、製作側の自分たちの理屈や、作品の精巧さというものを求めるものではなかったのではないだろうか?
ということであったのだ。
そんな中で、大きな矛盾として、
「地球を救うヒーローが宇宙人」
というのも、結構な無理があったのではないだろうか?
要するに、宇宙人が、パトロールをしていて、
「地球という美しい星がある。その星を守りたい」
と思ったということであったり、
「たまたま見つけた地球人の勇気に感動して。地球を守ろう」
と決めた。
というところから話は始まっているのではないだろうか?
あくまでも、勇気ある地球人というのは、
「自分を犠牲にしてでも、他の人を助けようという勇気に感動した」
ということである。
つまりは、先ほどの話の、
「地球を守るためには、他の星を犠牲にしてもかまわない」
ということになっているではないか。
「この時点で矛盾なのではないか?」
ということであり、そのあたりは一体どうなのであろう。
確かに、問題は、
「最初の勇気ある青年が、自分を犠牲にした」
というのは、
「自分だけの命」
を犠牲にしたわけであって、劇中の話のように、地球人類ということで、団体を救うということで考えると、
「まず、宇宙人よりも、地球人ということだ」
というのであれば、理屈としては分からなくもない。
だが、もっと話をほじくっていけば、
「じゃあ、人ひとりの命であれば、自分だけの判断で捨ててもいいのだろうか?」
ということである。
というのは、
「その人だって、今までたった一人で生きてきたというわけではない」
といえる。
つまり、
「親もいれば、友達もいて、仲間というのがいるはずだ。そんな人たちのことを考えず、自分の命だから、その命を簡単に捨てて、それを勇気と言えるのだろうか?」
ということである。
自分の命をどこまで大切にするかということであるが、天界孤独であれば、確かに、人のために命を捨てても、それを勇気といってもいいのだろうが、それでは、その人は、
「生きていても価値がないから、人のために死ねば、それが美徳だ」
といっているのと同じである。
「ちょっと待て」
と普通なら考えるであろう。
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