元ソーリ暗殺未遂

森本 晃次

第1話 新旧政治体制

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和4年12月時点のものです。いつものことですが、似たような事件があっても、それはあくまでも、フィクションでしかありません、ただ、フィクションに対しての意見は、国民の総意に近いと思っています。


 令和もそろそろ5年になろうとしているが、いろいろなことのあった年だった。

 これは毎年のことではあるが、あまりにもいろいろありすぎるので、今年の最初の頃のことを、

「あれは、今年だったっけ? 去年だったっけ?」

 などといって、分からなくなるのは、

「年末あるあるだよな」

 ということを、笑って話したりしているのが、年末だった。

 クリスマスイルミネーションが街中を彩り、至るところのお店からは、お約束と言える、

「定番のクリスマスソング」

 が流れてくるのだった。

 クリスマスソングというと、1980年代、90年代が多いのはなぜだろうか?

 その頃の音楽がよかったということなのか、それとも、最近の音楽は、

「どうやっても、あの頃の音楽には勝てない」

 という法則めいたことがあるからなのか?

 それを考えると、逆に、

「毎年のお約束」

 というのが、毎年、変わらず平和だということになるような気がするという、気休めの一種なのだろうか?

「平和な一年? そんなものが存在するなら、見せてほしいものだ」

 ということになるだろう。

 確かに、

「いろいろありすぎるから、どれが今年で、どれが去年だったのかということが分からなくなるくらいだ」

 といえるのだろうが、それよりも、

「つい最近、1カ月くらいの間にも、複数の重大事件が起こっているのに、それを、時系列で並べろと言われたとしても、まず、無理な気がするのだ」

 というのも、事件というのは、時系列で時系列を覚えているわけではない。漠然と覚えている中で、

「時系列」

 といわれると、

 実際に覚えているのは、インパクトであり、しかも、時間が経つと、そのほとんどが最終的に、似たような事件の感覚になってしまう。

 だから、本当の時系列ではなく、印象ということになれば、まず印象が深いものほど、

「古かったのではないか?」

 と思うことだろう。

 奥が深いものほど遠くにあれば、その時系列は、きれい左肩下がりに見えてくるのではないだろうか?

 そんなことを考えると、

「人間の記憶というのは、曖昧だというよりも、何とか都合よく覚えておくようにするために、自分で、ちゃんと考えているのではないだろうか?」

 ということであった。

「だから、一年前のことであっても、最近のことであっても、インパクトで覚えているので、半年くらい前の中途半端な時期のことほど、却って印象に残っていないということなのかも知れない」

 といえるだろう。

 今年一年というと、いろいろなことがあった。ハッキリとは覚えていないが、戦争に入る入らないという国があり、実際に戦争に突入したが、中立でいなければいけないものを、何をとち狂ったか、当時のソーリが、侵攻した国に経済制裁を行い。さらには、攻め込まれた方に、援助を行うというのだ。

(ちなみに、この作品を公開する時には、すでにソーリではない可能性が限りなく高いので、当時のソーリという言い方をさせてもらっております)

 他の国のように、

「自国を自分たちで守る」

 ということのできる国であればいざ知らず、

「平和憲法」

 という名の元の憲法を押し付けられ、結果、

「専守防衛」

 しかできない国となり、国際貢献などといって、他の国から言われたからといって、憲法を改正することもなく、自衛隊員を危険なところに追いやった政府だったのだ。

 まるで、

「武器を持たずに、最前線で戦え」

 といっているのと同じで、完全な玉砕のようなものだった。

 大日本帝国であれば、教育で、

「天皇猊下や、自分が守る人のため」

 ということで、戦場に赴いたが、それでも、武器弾薬は持たせてくれていたはずだ。

 何と言っても、上空10000メートル以上の上空を飛行する、B―29爆撃機を、

「竹やりで、落とそう」

 という、信じられない精神論でしか、士気が保てなくなっていたのだ。

 ちょっとでも、文句を言ったものなら、

「特高警察」

 というものに捕まって、拷問されるのがオチの時代だった。

 もちろん、戦争継続には、それくらいのことをしなければいけなかったのかも知れない。あくまでも、

「戦争指導者」

 としての理論であるが、一つ断っておくが、日本という国は他の戦争を行っている国とは、その大勢がまったく違っているのである、

 いわゆる大日本帝国という国において、他の国との一番の違いは、

「政府と軍が、それぞれ独立している」

 ということである。

 というのも、日本は、元々、幕末まで、

「鎖国政策」

 というものを進めてきたが、その鎖国政策も、それまでは、外交を申し出た国に対して、

「交渉の玄関口は長崎だ」

 といって、ごまかす形で、何とか鎖国を守ってきたのだが、アメリカからペリー提督による、太平洋艦隊の襲来、さらに、

「アメリカ大統領の親書を持参している」

 ということで、受け取るのを断ると、

「砲撃する」

 という脅しを掛けられ、受け取らないわけにはいかなくなり、

「1年をめどに意見をまとめるので、1年後に来てほしい」

 という約束を取り付け、その約束の1年後に、ペリーは再度来航したのだった。

 最初こそ、長崎をちらつかせたが、それも通用しないということで、会議が続けられたが、結論が出るわけもなく、ペリーの来航を受けることになったのだ。

 しかし、実際にペリーが来ている時、

「清国にいた、イギリス、フランスの艦隊が、日本に向かって進行している」

 というウワサが耳に入った。

「このままでは、2か国を相手、いや、米国を含めた3か国を相手に戦争をしなければならず、明らかに植民地にされることが分かっている」

 そこで、アメリカがいうには、

「もし、ここで講和条約を結べば、アメリカが仲裁に入って、この場を収めることができる。講和条約を結んだ国を見捨てるわけにはいかないからだ」

 ということであった。

「背に腹は代えられない」

 ということで、幕府は仕方なく、講和条約を結んだ。そしてさらに修好通商条約を結ぶことになったのだが、諸外国からも、

「アメリカだけなのか?」

 ということで、次々に結ばされたのだった。

 しかし、この条約というのは、

「領事裁判権を相手国に認める。つまりは日本で行った外国人を、日本側が裁くことができない」

 というものであり、さらには、

「関税自主権がなく、貿易による関税率を、日本側で決めることのできないということで、低関税に固定される」

 というこの二つだけでも、かなり大きな不平等条約であったのだ。

 日本は、条約上は、

「諸外国の植民地」

 といってもいいだろう。

 つまり、日本という国で、条約を結んでいる外国人が、何か犯罪を犯しても、日本側に引き渡すことができないということだ。

 そして、

「貿易を行えば行うほど、諸外国が得をして、日本が損をする」

 というような形となり、

「植民地」

 といわないまでも、独立国としての、体裁は取っているが、法律上は植民地と変わりないということであろう。

 だから、最初は、外国追い払いを目指していた連中も、諸外国の恐ろしさに気づき、やっと、日本の置かれている立場に気づくと、

「幕府を倒して、新政府を打ち立て、諸外国に追いつき追い越せで、最終的には、不平等条約の撤廃を目指した」

 ということであった。

 そんな日本であったが、

 幕府を倒すというところまではうまくいったが、何しろ、政治には、素人の集まりであり、しかも、それまでの封建制度という国家体制を、完全にぶっ潰さなければ、日本の近代化はあり得なかった。

 ますは、武家政治の徹底的な崩壊であった。

「廃刀令」

「四民平等」

「廃藩置県」

「版籍奉還」

「廃城令」

 などを次々に出して、封建制度を徹底的に破壊した。

 そうでもしないと、日本の近代化というのはありえなかったのだ。

 もちろん、それによっての弊害が出ることも分かっていただろう。たくさんの武士が失業することになる。それまで、武士は、士農工商では一番上にランクされた地位だったのを、その立場を否定するのだから、反発や反乱が起こっても無理もないことだろう。

 西郷隆盛が、

「武士の不満を表に向ける」

 という意味で打ち出した、

「征韓論」

 というものも、新政府に受け入れられず、結局、薩摩に戻ると、そこで、下級微視たちに担ぎ上げられ、結局自分が作った新政府軍と戦わなければいけなくなった。もちろん、最新鋭の武器を供えた新政府軍に対して勝てるわけもなく、西郷隆盛は自害することになったのだが、最後に、

「もうここらでいいだろう」

 と言ったと伝えられるが、その心境は分からないでもないといえるのではないだろうか?

 これを、

「西南戦争」

 というのだが、似たような乱として、

「佐賀の乱」

「神風連の乱」

「萩の乱」

「秋月の乱」

 と、元々、新政府を作るために、協力した藩が起こした乱だったのだ。

 西南戦争だって、薩摩である。

 彼らとすれば、

「幕府を倒すため、新政府を作るために戦ってきた自分たちを、他の藩と同じように、迫害される形になっては、やっていられない」

 というのも当たり前のことである。

「俺たちは、こんな政府を作るために戦ったわけではない」

 という言葉が聞えてきそうであるが、

 そんな元々の仲間でも犠牲にしなければいけないほど、不平等条約改正とは、大変な道のりだった。

 まずは、

「日本という国が、先進国にできるだけ近づいたという意味で、文明国である」

 ということを、諸外国に認めさせなければいけなかった。

 そのため、究極な、

「西洋かぶれ」

 であったり、

「貧しい国を産業の発達した国」

 ということを見せるために、

「殖産興業」

 という政策が取られた。

 近代化した機械で、新しい産業を興すということであった。

 そのために重要なこととして、

「国を富ませて、国家の防衛が自国でできるという兵の増強」

 という意味でも、

「富国強兵」

 というのが、その時の日本のスローガンとなったのだ。

 不平等条約撤廃には、

「古い体制をぶち壊し、諸外国のように、議会政治を行い、憲法が、国内法律の基礎で大黒柱として機能するような国にしなければいけない」

 ということであった。

 それには、武家の解体はもちろんのこと、もう一つの柱として、

「教育の充実」

 というのもあった。

 政府ばかりが、方針を分かっていたとしても、国民全員の意識がバラバラだったり、これからの社会を担う次世代に、この考えを受け継いでいってもらわないと、せっかく自分たちが努力しても、後進が育たないと、何もならないということは重々に分かっていたことだろう。

 かなり手荒なことをしては来たが、新たな体制を築くには、これも仕方のないこと、

 考えてみれば、古代から中世。つまり、封建制度に変わった時でもそうであったではないか。

 鎌倉時代の初期は。

「血で血を洗う」

 といわれた、

「御家人同士の、勢力争い」

 が繰り広げられた。

 結果、北条氏が執権として、権力を握ることになったのだが、それも考えてみれば、

「統一された法律」

 というものがなかったからだ。

 だから、

「武力こそ正義」

 といわんばかりに謀略を巡らせて、対抗勢力を次々に滅ぼしていく。

 だが、それは、2代執権である北条義時の時代までで、3代執権の北条泰時の時代に、のちの徳川幕府の法律の基礎となる、

「御成敗式目」

 というものができると、法律にしたがった沙汰が生まれるので、粛清や、土地を巡る争いなどということはなくなったのである。

 そういう意味で、明治新政府も最初は、武士の時代をなくして、いわゆる、憲法という、「聖なる法律」

 を基礎にした諸法制ができあがり、それを、天皇が中心になって、政治を行うということを、その憲法に明記することで、

「やっと日本という国も、諸外国のような近代国家になった」

 ということが言えるのだった。

 そういう国を、

「立憲君主」

 というのだった。

 日本も、伊藤博文を中心に、イギリスの議会政治から学んだ憲法をやっと設立することができ、議会も、曲りなりにでも開催できる国になってきたのだが、そこでやっと、諸外国との

「不平等条約」

 の撤廃ということに対して、

「交渉のテーブルに着けるだけの立場ができた」

 ということであった。

 つまりは、

「日本はスタートラインに立つことができた」

 というだけで、あれだけの急激な改革を行いながら、新政府が樹立されたから、数十年経って、

「やっとスタートライン」

 ということである。

 それを考えると、

「日本という国は、果たして、本当に不平等条約を解消することはできるのか?」

 ということであった。

 ただ、その時の憲法において、いろいろな問題があったのも事実である。特に、

「軍と、政府の関係」

 というところで、後世に、しこりを残すことになったのは事実で、実に難しい問題だったといってもいいだろう。

 日本国憲法の最初の項として、主権というのがあるのだが、今の日本国憲法でいうところの、

「国民」

 というのがそれに当たる。

 さすがに、今の国民は、

「憲法の基本方針」

 を知らない人はいないだろう。

「国民主権」

「基本的人権の尊重」

 そして、

「平和主義」

 である。

 つまり、

「日本国憲法においての、主権は国民であり、天皇は象徴でしかない」

 ということであったのだ。

 だが、大日本帝国には、今はないもので、その当時存在したのは、

「軍隊」

 であった。

 今の、

「自衛隊」

 に当たるものなのだが、その体制は、かなり違っている。

 昔の軍隊は、憲法では、

「天皇大権」

 と呼ばれるもののなかにある、

「統帥権」

 というものであった、

 統帥権というのは、

「天皇は陸海軍を統制する」

 ということであり、これは何かというと、

「日本軍というのは、天皇直轄の機関だ」

 ということであった。

 ということはどういうことなのかというと、

「政府であっても、軍の作戦や予算に口を出してはいけないということであり、軍の機密を知ることはできない」

 ということであった。

 それがあったからこそ、大東亜戦争前の日本は、

「陸軍が暴走したことで、悪魔のような戦争に突き進むことになった」

 といわれている。

 実際には、違うところが多いのだが、表から見れば、

「それ以上でもそれ以下でもない」

 ということである。

 では、なぜこんな面倒なことにしたのかというと、明治政府においては、元々は幕府を倒した藩が中心になって作ったものだった。

 というのは、当時の政府も軍も、同じ立場の人間が憲法の元で行動していたのだから、

「軍と政府が独立した形をしていたとしても、そこで、大きな問題は怒ることはなかった」

 というものである。

 しかし、後続する世代に入ってくると、この問題が大きくなってきて、

「権力が一人に集中しない」

 ということもあってか、

「政府の大臣である、陸軍大臣と、軍の中で、天皇の次、つまりは、実質的な軍のトップである、参謀総長とは、兼任してはいけない」

 ということが、条文化されてはいなかったが、慣例として言われてきたのだった。

 そんなことが、大東亜戦争において、大きな問題を残すことになった。

 つまり、総理大臣であり、陸軍大臣である東条英機、さらには、他の大臣たちは、軍の問題に対して何も言えない。暴走したとしても、それを諫めることはできない。何しろ作戦を知ることもできないのだからである。

 せめて、天皇に上奏した時に、天皇にお伺いを立てるくらいであり。首相が東条英機のように、

「天皇至上主義」

 と考えている人には、大きなジレンマであったに違いない。

 問題としては、

「軍内部のいざこざ」

 もあったのも事実であった。

 そんな状態において、東条英機は、慣例を破る形で、上奏して、

「参謀総長と、陸軍大臣の兼任を、有事の特例ということで、認めてほしい」

 ということを願い出るしかなかったのだ。

 天皇としては、

「そんなことをして、権力が一人に集中しないか?」

 ということを話したが、東条首相は、

「大丈夫です」

 と答えたことから、

「有事による特例」

 ということで、参謀総長と、陸軍大臣の兼任が、特例として認められることになった。

 ただ、彼は、首相だけではなく、他の大臣をいくつも兼任していた。見る人から見れば、

「権力の一極集中以外の何物でもない」

 と思われざるを得ないだろう。

 だが、実際には、それが行われた。

 元々、東条英機は、

「敵の多い」

 人ではあった。

 ただ、以前は陸軍内部では、結構慕われていたというエピソードもある。上司になると、部下の家庭事情を把握し、部下に気を遣うという、

「部下から慕われる上司」

 だったのだ。

 だから、彼には、

「戦争を引き起こした首相」

 などという悪いイメージがつきまとっているが、本当はそうではない。

 そもそも、大東亜戦争は、あの時代に、誰が首相をやっても、避けることはできなかった。

 元々、当時は近衛内閣だったのだが、当時の陸軍は、

「士気の問題」

 あるいは、

「メンツの問題」

 などから、

「戦争も辞さない」

 という強硬派であった。

 その先頭が登場陸軍大臣だったわけだが、その圧力に屈し、近衛文麿は、

「そんなに戦争がしたければ、死体人がすればいい」

 というような言い方をして、総辞職してしまった。

 そこで、しょうがなく、その後の大命が天皇陛下から下されたのが、東条英機だったわけだ。

 彼を推挙したのは、

「天皇陛下を一番立ててくれる」

 という意味で、一番いいだろうということを言いだしたのが、内大臣の、木戸内府だったという話も伝わっている。

 ただ、その時にはすでに、戦争を避けることのできないところまで来ていた。もっとも、陸軍大臣だけの立場の時、戦争突入を強硬に推していたわけなので、ある意味、

「自業自得」

 ともいえるかも知れないが、立場上のことであり、気の毒と言えなくもなかった。

 ただ、本当に気の毒だったのは、

「戦争を始め、まわりから、戦争を始めた首相」

 ということであったのだが、

「統帥権をバックに、政府が軍の作戦には、一切口出しできないどことか、軍関係のことは一切聞かされない」

 ということなので、

「戦争指導者でも何でもない」

 ということだっただろう。

 元々、満州事変の時、当時の政府外交において、軍の作戦が、一部漏れたような話があったことから、軍の機密というものが、さらに厳しくもなったのだろう。

 それを思うと、戦争前夜から、さらに、政府と軍の距離はまったく離れてしまい、

「軍が暴走したかのようにみられる」

 という状態に陥ったのも、無理もないことだったのかも知れない。

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