第八話 あのひのこと


 早く帰ってくるのを知っていたのか、お母さんは玄関前で「ただいま」の声を出すより前に私を抱きしめた。

 

 目の前に洗剤の匂いが残るエプロン。見上げる私に、申し訳ないような顔をして「しばらく旅館に行くのを止めてほしい」と言ったお母さんの目は涙目になっていた。

 だから「わかった」と素直に返事をする。


 「本当にわかったの? お爺さんと暫く会えないのよ?」と聞き返してくるのは、反対すると思っていたからだろう。でも今は逆に会いたくなかった。

 

 なぜなら遊ぶ約束を破ったことや、大人に内緒でテレビに触ったこと。

 そして一番の理由は、お爺さんが泣いていた姿がショックで、子供ながらに顔を合わせづらいので、お母さんからのお願いが守ることが、都合の良い言い訳になったからである。


 その日から何故か幼稚園にもいかず、心のモヤモヤが消せないまま家で過ごす日が続いたある日、お母さんが暫く旅行に行こうと荷物をまとめだした。

 

 車いっぱいの荷物を詰め込むと、まだ夜が明けていないのに出発をして、これは旅行じゃないと後で気づくのには時間がかからなかった。

 

 そう、ただ単に違う街に引越しただけだったのだ。

 

 新しく住む場所は、それなりに栄えていたが自然が少なく家も狭かったので、前の家に帰りたがっている私に、お母さんは「“ほとぼり”が冷めたら戻れるからね」と、口癖のように言い続けていた。

 

 その時、母が寂しそうな表情をするのが嫌だったから、私は、“ほとぼり”という言葉の意味も調べず、そういう熱い食べ物があるのかなぐらいに無関心でいる事にして、そのままお爺さんとは、暫くどころかずっと会わず、いつの間にか疎遠になってしまうのだった。


 季節は何回も変わり中学校を卒業する頃には、旅館の記憶を思い出すことも、あの場所へ戻りたいという気持ちも薄れていき、“僕”から“私”という一人称を使用するまで成長していく。

 

 更に時は流れて、就職が決まり、初めてネクタイを結ぶ練習を鏡の前で悪戦苦闘していると、ネクタイをビシッと締めていたお爺さんの姿が脳裏に浮かんだ。


 ──そういえば、あの日なんで沢山のスーツ姿の人達がきたのだろうか?

 

 何気なく、いつもと同じようテレビを観ている母に話を聞いてみる。

 

「母さん、小さい頃なんだけど旅館に遊びに行ってたらさ、スーツ着た人が沢山降りてきて名前を書かされたことあったけどアレ何だったの?」

 

 言い終わった後に母の動きがほんの一瞬止まるのを確認した。何も気にしてない様な顔をして振り向く母は、冗談めいた口調で語り始めた。


 「あー、あの頃は大変だったわね。もう時効だから言うけど。まあ……、お爺さんは悪いことをしたのよ」

 

 「悪いことってどんなことを?」

 

 「え……、何をしたかって? 簡単に言えば脱税ね」

 

 あっけらかんとすごい話を私に打ちあけたので、あまりの衝撃に開いた口が塞がらなかった。


 「私も人づてに聞いたんだけど、マルサ一人で一千万持ってかれるって言ってたから、何千万か何億か払ったんだろうね」

 

 まるで他人事のように話しているが、息継ぎをしないくらいの速さで話し続ける母を見ながら、ずっと私に話したかったのだろうと思い、黙って聞き続ける。


 ──狭い田舎町だからこそ、そのまま暮らすことで学校でいじめられる前に、この街へ急に引越しをしたこと。

 

 ──お爺さんは、その後も旅館を経営を続けていたが三年程たった時、体調を崩し病院に入院生活することで旅館を廃業したことを。

 

 当時の「僕」ではわからなかった事が、今の「私」なら理解できてしまう。


 その日、全ての疑問が綺麗に埋まっていった。


 そこで初めて旅館を追うように、お爺さんも──"人生をたたんでいたこと"を知った。

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