第七話 みぎむき、ひだりむき
玄関に出て、牙を見ないように顔を背けながら熊の剥製の横を横切り、三段の階段を上がって小さなロビーを見ると、お爺さんが座っていたので駆け寄っていく。
「賢治……」
呟くように話した後、お爺さんは私に手招きをした。やっと知ってる人に会えて嬉しくなり小さくジャンプして座ると、机を挟んだ向かいに大きな体をしたヒゲが揃った、おじさんスーツマンがいるのに気づいた。
──また違うスーツマンがいる。
この人はヒゲが多いからヒゲヒゲマンと呼ぼうと考えた。その隣にジュースマンが座って、私を見るとニコッと笑ったので恥ずかしさがよみがえり、サッと目を伏せてしまう。
ヒゲヒゲマンは、お爺さんと全くわからない話をして机に紙を広げながら「ここに名前を書いてください」と、野太い声を出して指差す場所にお爺さんは何も言わず名前を書いていた。
ヒゲヒゲマンは私をチラッと見たあと一呼吸して「この子にも名前を書いてもらえ」と言った時、お爺さんの手が止まった。
驚いた顔でジュースマンが「こんな子供にもですか?」と問いかける。
「ああ、そうだ」
声が怖いヒゲヒゲマンとジュースマンの沈黙。私は何かの戦いが始まるのかと思い怖くなって、お爺さんの服を掴み二人の話を黙って聞いていた。
するとジュースマンは無言で鞄の中から紙を取り出して、私に見やすい様に向きを変えて広げた。
「賢治くん……、ひらがなでいいから、ここにお名前書けるかな?」
どうしたら良いか、わからなくなって、お爺さんの顔を見ると目を瞑ってうなづいたので、名前を書くことにした。
──私の名前は奧田賢治(おくだけんじ)
鉛筆をグーにして持つと平仮名で、おくだのおを書いた所で手が止まった。
何故なら次の“く”の向きが、わからなかったからだ。
右に尖ってたっけ? 左だったかな?
お爺さんに聞こうと顔を見ても目を瞑っているので、仕方なくジュースマンに聞いてみた。
「“く”ってどっち向きに書くの?」
その言葉を言った時、三人とも目を一瞬大きく開いたのがとても印象的だった。
お爺さんを見ると皺くちゃな顔を、さらに、くちゃくちゃにしている。
ジュースマンは「手を出してごらん」と私の手のひらに指で書いて向きを教えてくれた。
さすがジュースマン! また私を助けてくれた。
「ありがとぉー」というと今度は何故かジュースマンが顔を、くちゃくちゃにした。
今日は、いろんな人が皺くちゃな顔をする日だな、なんて考えながら残りの名前を書き終えると、お爺さんがいつもより小さな声で私に話しかけた。
「賢治、今日は見ての通り忙しいから帰りなさい」
驚いた。お爺さんが、そんな弱々しい小さな声で、しかも私と遊ばずに帰りなさいなんて、今まで一度も言われたことがないから。
何か嫌われる事でもしたのかな、そういえばさっきから、ずっと笑顔をみせてくれないし目もあわさない。
「うん……、わかった」とソファーを下りて玄関に向かう。
お爺さんが気になったので三段の階段を降りきって、隠れて覗くように見ると信じられない光景に「えっ!」と思わず声が漏れた。
いつも堂々としているお爺さんが、肩を振るわせ手にハンカチを目元に当て泣いているのだ。
私は見てはいけないものを見た気がしてサッと顔を玄関に向けると受付の部屋へジュースを取りに走り出した。
見間違いだったのかもしれない。
机の上にあるジュースを立ち止まらず手に取ると走り続けた。いつもの帰り道が長く感じたのは、あれが最初で最後だった。
家の形が見えてようやく走るのをやめ、海を見ているフリをしながら片手を額にくっつけ手庇をつくり旅館の方を見渡す。
喉がカラカラになって、一口残った、きいろいジュースを一気に飲み干した。
しかし、生温かいせいなのか全然美味しくなかった。
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