第44話 すべての命
イノシシはいっそう激しく動いたが、すぐに力が弱くなっていった。
やがて呼吸も細くなっていき、足の力が抜け、その場に横たわるとついに動かなくなった。
「これは返すぞ」
イェクンはナイフの刃を持ち、柄の方をアキレトに差し出した。
アキレトも少しもためらわず、それを受け取った。
「ずいぶんと警戒心が薄いな。俺がおかしなことをすると思わないのか? このままお前を人質にとって逃げようとするかもしれんのだぞ?」
「無駄だと分かっているでしょう? それに私も人を見る目はあるつもりです。あなたはそんなことをする人ではありません」
「俺の何が分かる? たいして話したこともないというのに」
「話す必要などありません。目を見れば分かります。あなたの目はまだ、澄んでいます」
「目? わけの分からんことを……まぁいい。それよりもサトゥーレントだ! 貴様! 見ているのだろう!? なぜ助けなかった!」
俺は当然、一部始終を見ていた。
助けることもできただろう。
しかし、それをしなかったのは――
「様をつけなさいと言ったでしょう! いいですか、サトゥーレント様はこのような場合でも我らをお助けくださることはありません。さきほども言ったように、サトゥーレント様はすべての命に平等なお方なのです。イノシシにだって命があり、生活があります。あれをごらんなさい」
そこには母の亡骸に寄り添い、小さな鳴き声を上げている子イノシシが二匹いた。
ピンク色の鼻先を懸命に母の体に押し付け、起こそうとしている。
「母親を失ったあの子らは、もうこの森では生きていけないでしょう」
「イノシシにはかわいそうなことをしたが……しかし、お前が死ねばヤツだって困るはずだ。お前は精霊と話せるのだろう? 普通のエルフではないと聞いたぞ」
「例えば先の大王のように、特別な理由があれば別です。サトゥーレント様がお守りになってくださることもあります。私にも重要な役目を任されたことがあります。そのときはお守りくださいました。しかし私ごとき、いなくなっても代わりはいつか出てくるでしょう。特段の理由がない限り、サトゥーレント様がそのお力をお貸しくださることはありません」
ふむ。言いたいことはほとんどアキレトが代弁してくれた。
本当は、二人が危ないと思えば助けるつもりだった。彼らはこれからのエルフと人間の未来を占う存在だからだ。
だがギリギリまで待った。
それはイェクンに俺の考えを知ってもらいたかったからだ。
エルフも人間も、その他動物たちも命はあり、その価値は変わらないということを。
イェクンはしばし無言になり、視線を地面に落とした。
数秒経ったあと、改めてイノシシを見て言った。
「あのイノシシ、どうする?」
「これより解体し、肉や皮は里へ持ち帰ります。命を無駄にはできませんから。けが人も出てしまいましたし木を運ぶのは今回は諦めざるをえませんね」
「子のイノシシたちはどうする?」
「森に返します。恐らく生きてはいけないでしょうが、その生命は森に帰るはずです」
イェクンは子のイノシシを見ていた。
その瞳は子の成長を見守る親のような慈しみを感じさせた。
しかし、このような幼い子たちがこの森で生き残る可能性は砂粒ほどに小さい。
イェクンは拳を固く握ると、イノシシの近くへ歩く。
子どもたちが母を守るように、立ちはだかり、吠えた。
彼はそんな子どもたちの首の後ろの皮を掴み、森へと放った。
子たちは諦めきれず、そこで鳴き続けたが、近寄ってくることはなかった。
アキレトは怪我人の応急処置を済ませたが、傷口が深いので男エルフ一人に肩を支えてもらい、先に里へ戻ってもらった。
その後、アキレトと男エルフによるイノシシの解体がはじまったが、イェクンは動物の解体というものを初めて見たらしい。
なんどか胃の中のものを出しそうになりつつも、その手順をつぶさに観察している。
大物だったので、力作業のときは手伝いもした。
次、このようなことがあれば自分がやる、そう思っているのだろうか。
不要なところを捨てても、肉と皮はかなりの量となった。
不幸な事故であったが、エルフの里にとっては重要な資源となるだろう。
その前に立ったアキレトは左手を腰にあて、右手で額に浮き出た汗を拭った。
「さてと、これは二往復しないと無理そうね」
「そっちも俺が持とう」
「いえ、イェクン。これも持ったら全部で大人一人分くらいの重さはあるでしょう? それで慣れていない森をあるいたらバテてしまいますよ」
イェクンはそれを無視し、二つの荷物を両肩に乗せた。
その状態でもふらつきもしない。
本当にこの男の力は大したものだ。
「問題ない。行こう」
「……無理しないで、疲れたら言ってくださいね」
「そっちこそな」
歩を進めたイェクンは、少し行くと一度振り返った。
先程まで子イノシシたちがいたところだ。すでにその姿はない。
それを確認すると、再び前を向き歩く。
それから里に着くまで彼が振り返ることはなかった。
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