第35話 生きるということ
大王は窓から湖面を眺めていた。その表情は湖面と同様に穏やかだった。
すこし目を細め、ため息まじり言った。
「この景色もしばし見納めかな」
「なに、またいつでも来ればいいじゃないか」
「そうしたいのは山々だが、まだまだやることが残っているからなぁ。特に後継者だ。まったく育っておらん」
「それはあの、黒の騎士殿のことかな?」
大王は横目で俺を見て愉快そうに笑った。
「アレは戦においては傑物だが、政治となるとな。しかし他に候補者がいないのも確か。育ってもらわねば困る」
「期待しているようだね」
「そういえばサトゥーレントにも迷惑をかけたそうだな。代わって詫びを言おう」
「いやいや、あんなものどうってことはないよ」
「森の主の寛大さに感謝しよう。次の大王にも見習わせないとな。安心して娘を預けられん」
「やっぱりあのお姫様と結ばせるのか?」
「アレが断らなければ、だが。もうアレに取らせる褒美はそれくらいしかないのだ」
世界は有限だ。大陸を統べれば次は海の外にでるしかない。だがそれも限界がくる。この大王はそこに気がついているだろうか?
「なに、サトゥーレントのおかげで時間はたっぷりある。ゆっくりやるとしよう」
「うん。引退したら余生は釣りでもしてのんびりすればいい。さて、噂の男もやってきたようだし、そろそろ始めるか」
イェクン率いる一部隊は野営用のテントを立てて滞在している。大王になにかあればすぐにでも駆けつけられるようにだ。
今日は条約調印の護衛のため、朝からここにやってくる予定だった。
それはエルフ側も同じだ。
イェクンは入口の前でマルクックとアキレトを迎え、三人は揃って小屋のドアの前にいた。マルクックが代表してノックしようとしたところで俺は中からドアを開けてやった。
「おお、サトゥーレント様。すでにいらしていましたか」
「おはよう。三人とも。大王様ももう起きているよ」
中にはいる彼らと入れ違いに俺は外へ出た。
俺にエステルから念話がきた。
(サトゥーレントは参加しないの?)
(ああ。あくまでエルフと人間での話し合いだからな。というか、本音を言うと、堅苦しくなりそうだから逃げてきた)
(なるほどねー。いいんじゃない? どうせ私達には関係ないことだしね)
(関係なくはないだろ。場合によっちゃ、また人間が森を焼き払う、なんてこともありうるぞ)
(そんなもの、また消しちゃえばいいじゃん)
エステルは人間の怖さを分かっていないらしい。
すでに人間たちの人口は脅威だし、この上彼らが持ち前の知能で科学力や技術力を上げていったら、俺らでも止められないかもしれない。
だが、今の人間しか知らないエステルにそれを言っても、信じてもらえないだろう。
(というか、人間はあんな武器とか持ってるし数も多いけど、エルフは二人で大丈夫なの?)
(大丈夫だ。大王は信用していいよ)
(ふーん?)
大王はすでに戦争否定派になったと見ている。
これまでに数多の人命を奪ってきたこと、それをあれだほど後悔しているのだ。
今の彼が無駄にエルフを殺すとは考えにくい。
(無事に終わるといいけど)
(物騒なことにはならないだろうが、話し合いがうまくいくかだな。税率とか、揉めそうな話題はあるし)
(ぜいりつ? ってなに?)
(人間たちの決め事だよ。国への贈り物みたいなもんだな。国民ってのは住ませてもらう代わりに税を払うんだよ)
(変なの。サトゥーレントは森の生き物から何も取らないのにね)
(そうだな。でも税を使うことによって、ああいう道を作ったりできるわけだよ。そうやって国を発展させていく。それが人間の社会ってやつだ)
(よくわかんない。ただ毎日食べて寝て、生きてるだけで幸せなのにね)
エステルの言う通りだ。
木となって数千年。俺も今となっては同じ境地にある。
全てを手に入れた大王も、同じ意見じゃないだろうか。
どれだけの財産を得ても、死んでしまっては意味がないんだ。
生きているということは、それだけで尊く、幸せなことなんだ。
勉強し、いい学校に入って、いい会社に入って、高い給料を貰う。
俺もそれが幸せだと思っていた。
ところがどうだ。世の中にはせっかく大会社に入ったのに、働きすぎて死んでしまう者もいる。
死ぬまでいかずとも、体を壊してしまった人だって多いはずだ。
俺はもし人間になったとしても、もう大金はいらない。
地位も名誉もいらない。
ただ、楽しいことをやっていきたい。
それはそんなにおかしいことだろうか? 堕落だろうか?
ま、また生まれ変わる保証なんてないだけどね。
マルルックたちが小屋に入って数時間経ち、太陽は最も高いところまで来た。
そろそろ昼食休憩でもする頃合いだろうか。
もしそうなら、途中経過くらいは聞いてもいいかな。
なんてことを思っていた、その時だ。
「いやぁぁぁ!」
小屋の中から女の叫びが聞こえてきた。
外の兵たちも何事かと動き出す。それほどの大声だった。
俺はすぐさま内部に直接“顕現”した。
「どうした!?」
目の前にいたのは腰を抜かし、床に尻をつけてしまったプラヴヴュイル姫だ。
「サトゥーレント様……」
声を震わせ、俺の背後を指差す。
その方向から、錆びた鉄のような臭いがする。
まさか、まさか! 嘘だろ!?
俺は意を決して振り返った。
娘を守るようにして前に立つマルルックと、その後ろで口を押させ小刻みに震えるアキレトが見えた。
真っ青な顔をしているが、見たところ怪我はない。良かった、二人は無事だ。
「来たか、サトゥーレント」
その声のする方にはイェクンがいた。
赤く染まった剣を振ると床にその飛沫が散る。
足元には、血溜まりでうつ伏せに倒れる大王アレステティキファの姿があった。
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