第3話

 石ころや水への執着が消え失せ、その分だけコトリの胸は伽藍堂に空きました。そうして、手足に出来た傷が自然に治っていくように、コトリは、その胸の穴を別な何かで満たそうとしました。その頃になって、ようやく気づいたことがありました。

 淋しい。

 思えばこれまでの時間、コトリは一人きりの世界を冒険するばかりで、他の鳥たちのことにはちっとも頓着しませんでした。そのお蔭で、彼の内的世界は非常に充実しましたが、それは、突き詰めてみれば独り善がりで、実世界となんらの接点も持っていないことに気づいたのです。

 コトリは一人、考えました。自分には何が足りないのであろうか。ある夜、その答は唐突に、ベッドに横たわったコトリのところへ降りてきました。

 つがいである。

 おれは、雄鳥とも碌に話したことがない。ましてや雌鳥なんて、その声も姿も匂いも、ぜんぜん見当がつかぬ。己も、一度で可いから、燃えるような恋をしてみたい。

 判然はっきり云って、それは明らかな生殖本能に他なりませんでしたが、コトリは、何かそこに神を見出したような気持ちでいました。問題は、どうすれば異性に振り向いてもらえるのか、その具体的方策でした。その辺のことをコトリはちっとも知りませんでしたが、とにかく、鳴き声の美しい雄の所には自然と雌が寄ってくることは、噂に聞いていました。

 翌日、早速コトリは家を出て、鳴き声のよく響く所を探して飛び回りました。まもなく大きなクスノキを見つけると、コトリはその枝の先にちょんと留まって、精一杯に鳴き声を上げだします。

 一時間、二時間、そうして、とうとう半日が経ちましたが、コトリのもとへ寄ってくる鳥はいません。ただ時折、仲睦まじげに低く滑空する番の鳥たちが、コトリを嘲るように声高らかに歌っているばかりです。それを見るにつけ、コトリはひどく惨めな気持ちになり、幾ら喚いても汚く嗄れた声しか出ない喉を引き裂いてしまいたく思いました。それもそのはず、声が美しいのは勿論、容姿も頭抜けていなければ、そのように単純な細工は功を奏しやしないのですから。コトリはすっかり厭になってしまって、ウチへ飛んで帰りました。

 さらに翌る日、今度は雌を探して、直接声を掛けてみようと考えました。幸い森にはたくさんの鳥たちが住んでいましたので、雌を探すこと自体は容易でありました。まず手始めに、梅の木に留まってじっとしていた鳥へ近づき、

「おい」

 と声を掛けました。その鳥は吃驚してしまって、パッと飛び上がり、隣の枝へ移ります。

「なんですか、あなたは」

「や、別に、何ということは無いのだが……」

「はぁ。何も無いのにいきなり『おい』だなんて、失礼な方」

「や、それはすまなかった。ちょっとこっちへ来て話でもしないか」

「御免蒙ります。あなたのような方とお話することなんてありませんわ」

 そう言うと、その鳥はサッと飛び立ち、青空の彼方へと消えていきました。残されたコトリはしょんぼりと肩を落とし、暫し呆然と立ち尽くしていました。しかしコトリは諦めません。あちこちを飛び回っては、手当たり次第に声を掛け続けます。そのうち、多少は相手をしてくれる鳥も見つかりましたが、そうなったらそうなったで、コトリは何を話せば好いのか判らないのでした。兎に角、沈黙は不味かろうとペラペラ喋りますが、出てくるの石ころや沢水の話ばかりで、相手の鳥たちはうんざりしてしまいます。そうして終には話を遮り、最初の鳥と同じように、空の彼方へ飛び去ってしまうのでした。

 然るに、己には何か、重大な欠落があるのだ。

 日が暮れる頃まで甲斐の無い努力を続け、すっかり憔悴しきったコトリは、独りそんなことを思いました。自分の趣味ばかりを追求し、その他いっさいを唾棄にしている間に、何か取り返しのつかないものを失ってしまったのかもしれません。そう思うと、哀しいやら情けないやらで、コトリは自信を失ってしまって、最早、雌を探して飛び回る気力すら無くしてしまいました。

 そんなわけで、その翌日は遠くへは行かず、家の周りをウロウロと歩き回っては、呆としていました。しかしここで、コトリに思いがけない僥倖が訪れます。なんと、そんなコトリを蔭から覗く者がいたのです。

「もし、もし」

「うん?誰だ?」

「ここ、ここです。こっちの薮の方へおいでください」

 コトリはドキリとして、声の方向を振り向きます。そこには確かに薮があって、白い花がたくさん咲いていました。どうやら声の主はその中に潜んでいるようです。濃密な花の香りに噎せながら、コトリは慎重に薮へ分け入ります。

「や、これは」

 咄嗟に言葉が出ませんでした。そこに居たのは、果たして、美しい雌鳥でした。ふんわりと柔らかそうな白い羽を膨らませ、つぶらな瞳はまるで宝石みたいです。一瞬、ほんの一瞬間だけですが、コトリは、初めて宝物を見つけたあの日の、陽の柔らかさとか風の匂いとかを思い出していました。

「突然声を掛けたりして、すみませんでした。わたし、この近くに住んでいるの。それで、この辺りをよく散歩するのですけど、偶然、あなたをお見かけしたんです。それで……」

 彼女はそこで言葉を濁しましたが、その意図は、流石のコトリにも汲み取れました。

「う、うぅむ…そうかね。ま、何かの縁もあろう。沢のほうまで、少し散歩しないか」

「はい、是非」

 このとき、コトリはひどく動揺していましたが、その言動は不思議に落ち着いて、余裕を醸していることに気づきました。昨日は死にそうなほど惨めな思いをしましたが、どうやらその経験が、この土壇場に生きたようなのでした。然るに、何かそういう経験というのは、生き物を本当の意味で成長させるのやもしれません。平穏な日々を繰り返すうちは、所詮、同じところを堂々巡りしているに過ぎず、成長などというのはただの錯覚で、今とは異なる自分の状態について、ただ再発見を追体験しているだけなのでしょう。そういう死に物狂いのヤケクソこそが、その者を真の土壇場に立たせ、以って成長せしめるのです。

 ともあれ、二羽は仲良く散歩をして、夕暮れまで一緒に過ごしました。それから別れしなには、また明日も会う約束をしました。コトリは幼い頃に戻ったみたいに嬉しく、上機嫌に下手な歌なんか口遊みながら帰路に着きました。

 そうして、二羽の蜜月は二年も続きました。それはそれは満ち足りた、素晴らしく幸福な日々でした。彼方此方を飛び回り、色々なものを一緒に見ました。時にそれは、息を呑むほど美事な夕焼けの海原であったり、また時に、桜の花弁が視界いっぱいに舞い散る静かな林床であったりしました。出先で美味しい木の実を食べたり、木陰で休んだり、時には小川へ飛び込んで、ぷかぷか浮いて流れてみたり、とにかく必死に遊びまくりました。コトリは彼女に、爺さんの形見の宝石をプレゼントしました。彼女はそのお返しに、お気に入りの押し花をコトリにくれました。コトリはそれを肌身離さず持っていて、時には互いに見せ合い、愛を確かめ合ったりしました。その様子を眺め、父さん母さんは、我が子の成長を嬉しくも淋しくも思いましたが、一人前になったコトリを見て、内心、ひどく安堵するのでした。これで自分たちの役目は終わったのだと囁きあい、後はコトリが自然に巣立ってくれるのを待つばかりでした。

 だんだんとウチに帰らない日も多くなってきて、夜は大きな木の洞なんかで、仲良くピッタリと身を寄せあって眠りました。そんな日は、決まってコトリは夜空を見上げ、自分の居ないウチのことを考えていました。彼女と一緒に過ごす今はとても幸せで充実していましたが、同時にコトリは、いま自分の手中にある全てを、一つも手放したくないような気がしていました。父さん母さんが居て、彼女が居て、あたたかいウチがあって、何不自由の無い暮らしが確約されている。そんな状況がどうしようもなく変化していくことが厭で、なにより、ひどく淋しかったのです。

 そう、コトリは巣立たなければならないのです。

 そうして彼女と共に暮らし、自力で生きていかなければならないのです。

 コトリにもよく解っていました。父さん母さんも、爺さんのように、いつか居なくなってしまうこと。それに、こうして貰った命を、今度は自分が引き継いで行かなければならないこと。

 その時は、刻一刻と迫っていました。


 それなのに──。

 ある夜、彼女は神妙な面持ちで切り出しました。

「ねぇ、わたし、遠くで暮らしてみたいの」

 唐突な話題に仰天したコトリは、目をぱちくりさせました。

「遠くって、いったいどのあたりだい?」

「この森を超えたら、海岸に出るでしょう、いつか、二人で夕陽を見た。そのまた向こうの島の、林の奥にね、素晴らしい所があるの。気候も快くて、美味しいものが沢山あって、何より、ここよりずっと栄えていて賑やかなのよ」

 コトリはその場所を知りませんでしたが、賑やかなところなんてまっぴらごめんでした。コトリはただ、彼女と一緒にいられたらば、それだけで充分に幸せだったのですから。しかし一方で、彼女がどうやらそういう場所に憧れているらしいことは、何となく察していましたから、吃驚はしたけれども、その提案を唾棄にするのも躊躇われるのでした。

「そうかね……しかし、己は、この森が好きなのだ。お前とこの森で、ずっと一緒に暮らしていたいのだ」

「どうしても?」

「あぁ。己には、お前さえ居たら、それで充分なのだよ」

 ここまで言えば、彼女も不承不承引き下がってくれるだろうと、コトリは高を括っていました。しかし彼女の口から飛び出たのは、信じられない言葉でした。

「別に、無理にとは言わないわ……。それじゃ、そうね、三年。わたしはあっちで暮らすから、ここで待ってて頂戴」

 コトリはギョッとして、彼女の瞳を覗き込みました。いつもみたいに「冗談よ」と言って笑ってほしかった。けれども彼女は真剣な表情を崩さず、じっとコトリを見つめ返していました。

「お前、本気で、三年も己に待てと言うのかえ?」

「そうよ」

「俺を置いてでも行くのか」

 これにはさすがに、彼女の表情が揺らぎました。

「別に、一生の別れじゃないから、いいじゃない、三年くらい。それに、月に一度は帰ってくるわ。あなたも月に一度、会いに来ればいい。ほら、そうすれば寂しくないでしょう?」

 とうとう、コトリはくらくらと目眩を覚えるようになりました。なんと身勝手な話でしょうか。目眩はにわかに憤りへと変化し、珍しく、尖った低い声が出ました。

「そんな馬鹿な話があるか!己の身になってもみろ、お前。捨てられたようなものじゃないか!」

「別に、捨てるだなんて……」彼女はふいっと目を逸らし、遠くの夜空を眺めます。そうして、しばらく凝っと黙りこくっていましたが、不意に恐ろしい目付きになって、コトリの方へ振り返りました。

「そんなこと言って、あなたの方こそ薄情なんじゃないの!少し、しかもたった三年ぽっち、遠くへ行くだけで駄目なの?」

「己と其れ、どちらが大事なのだ」

 コトリも負けじと反論しました。しかし終いに、彼女はコトリに背を向けて、もう、何も言わなくなってしまいました。コトリもそれ以上かける言葉が無く、夜が更けていくばかりです。やがてウトウトし始めたコトリは、彼女の温もりだけを感じながら、そのまま眠ってしまいました。


 翌朝、コトリが目を覚ますと、彼女は居ませんでした。コトリは慌てて起き上がって、辺りを探そうとして──コトッと何かが地面へ落っこちたことに気づきました。明け方の薄明のなか、緩慢な動作でコトリが拾い上げたものは、爺さんの形見の宝石でした。

 コトリは呆然としました。

 彼女の行動の意味は、誰の目にも明らかでしたから。

 やがてコトリは我に返るとフラフラと歩き出し、何度も木の枝や草むらにぶつかりながらウチへ帰りました。

 父さんと母さんはまだ眠っていましたので、コトリはそうっと起こさないように自分の部屋へ入り、改めて、彼女に突き返された宝石を眺めました。あれから長い時間が経ちましたが、宝石はあの頃のまま、どこまでも透き通ったような、繊細微妙な美しさを保ってありました。さらにコトリは、羽のあいだへ隠して、いつも肌身離さず持ち歩いていた彼女の押花を取り出し、宝石と並べてみて、それらをしげしげと眺めてみました。

 それから数秒して、コトリの視界はぐちゃぐちゃに歪んで、よく判らなくなりました。

 脳裏には、この二年間、彼女と共に過ごした幸せな思い出たちが、次から次へととめどなく流れ続けていました。それはどうしようもなく、輝かしく、面白く、満ち足りていて、幸せな記憶たちでした。海も、夕陽も、青空も、桜も、紅葉も、新緑も、月夜も、滝も、清流も、頂上も、朝焼けも、寝息も、その温もりも、何もかも、素敵で、けれども手遅れでした。

 コトリは嗚咽を漏らしながら、何を思ったのか、懐かしい宝箱を開いてみました。ぐちゃぐちゃになった視界からでも、コトリには、そこに何があるのか判っていました。それだけ大切なものだったのですから。

 瓶に入った清水は、やはり濁りきっていましたが、父さんに拵えて貰ったショーケースは、今もあの頃のまま、綺麗に残っていました。それを見て、コトリは気づいてしまいました。どれも同じだと思っていた石ころたちが、よく見るとそれぞれ微妙に違っていて、成程どうして、あの頃惹き付けられたはずであると、今になって思ってしまったのでした。

 だのに、一度は唾棄にしてしまったものたち。

 どうして己は、こうなってしまったのだろう。いつからこの宝物たちを、大切にできなくなってしまったのだろう。

『ここにね、たくさん思い出を詰め込みなさい。これからお前の人生には嬉しいことも悲しいことも、たくさん、たくさん起こってくるからね。一つだって無駄にしちゃいけないよ。ちゃんと、大事にするんだよ』

 今になって、その言葉の本当の意味が、ようやく解りました。

 涙は次から次へと、コトリの瞳からこぼれ落ちました。コトリはそれを止めることもできず、いつまでもいつまでも、これまで生きてきた自分の時間に思いを馳せていました。

 随分永い時間が経って、ようやく泣き止んだコトリは、爺さんの宝石と彼女の押花とを、一緒に宝箱へ放り込みました。それからゆっくりと蓋を閉めて──もう、二度と開きませんでした。


 どのくらい時間が経ったのでしょう。

 森の奥に、また春がやってきました。コトリのウチは朽ちて、壁も屋根も一部は崩れ落ちていました。残った屋根や床には落ち葉が積もり、静かに、森の木々から漏れ溢れる陽の光を浴びています。父さんも母さんも、もうそこにはいません。コトリもどこかへ行ってしまって、きっと、もう爺さんのようになってしまったことでしょう。

 ただそこには、拙い文字で書かれた『たからもの』が、今なお残されているだけなのでした。

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コトリのたからばこ 不朽林檎 @forget_me_not

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