第2話

 果たして、コトリの最初のたからものは、石ころでした。それはうちの近くを流れる小川の、ごく浅いところに落ちていました。角張っていて、赤いろで、傍から見るとなんということもない石ころですが、コトリにはそれがひどく面白く、あたかもルビィのように感じられるのでした。

 コトリは自然を感じさせるものが大好きでした。水ひとつとっても、川を流れているものは面白くなく、水溜まりのものなどは非常に興味深く、何か精神のようなものが宿っている気がしたのです。なので、父さん母さんにせがんでは、入れ物を拵えてもらって、石ころだの溜まり水だのを採集して持ち帰りました。お気に入りは、父さんに拵えてもらった石ころのショーケースです。木でできた四角い箱に、細かい間仕切りが入れてあって、大小様々で鮮やかな石を、綺麗に並べて置けます。コトリは日々増え続ける自慢のコレクションたちを夜な夜な眺めては、うっとりしました。また、そうやって宝箱の中身が充実していくことを、とても幸せに思いました。

 そうして数年が経ち、コトリは、少し大きくなりました。石ころを見る目も肥えて、色が少々派手であるという程度のものには、目も呉れなくなりました。また、水は木の洞に溜まってあるものに限ると気づき、雨が降る度にあちらこちらの木を回り、葦の切れ端を使って、まるで科学者の如く、丁寧に注意深く水を吸い上げ、採集するようになりました。

 しかし飛ぶことだけは未だ苦手で、木から木へ、ほんの数メートル滑空するだけで精一杯でした。唯一、家の出入りは自力でできるようになりましたが、それでも飛ぶのは億劫で、縄ばしごをぴょんぴょんとよじ登っているのでした。コトリが毎日のように使うものですから、縄ばしごは何度も切れかかって、その度に父さんが修繕し、直しているあいだは母さんがコトリの送り迎えをするのです。

 また、そんな欠点もあってか、コトリはひどく内気でした。同年代の小鳥たちが彼方此方を飛び回り、楽しそうに遊んでいるなか、コトリは独り、川原を歩いたり、木の根をぴょこぴょこ踏み越えていくだけ。偶に話しかけてくれる子がいても、コトリは彼らの遊びを知らず、話についていけませんので、必然、誰も近づいてこなくなりました。コトリは、それを寂しいとは、あまり思いませんでした。けれども何かの埋め合わせでしょうか、大好きな石ころや水のことを、もっと知りたいと思い、本をたくさん読むようになりました。それが更に周囲を遠ざけ、自分を孤立させることになるなんて、あまり考えていなかったのでした。

 そんなある日のことです。

 飛ぶのが下手なコトリを見かねて、父さんと母さんは、コトリを少し遠くへ遣ることにしました。

 朝早くから、母さんは小さなお弁当を拵えて、竹の水筒に冷えた沢水を満たしています。コトリはドギマギしてしまって、台所と自分の部屋を行ったり来たり。

 やがて、母さんの呼ぶ声がして、コトリは台所へ入ります。

「いい?ここからずっと南へ行くと、湖があるの。それを飛んで渡ると、大きなモミの木があるからね、その洞を覗いてご覧。そこが、おじいちゃんちだからね」

 コトリはお弁当を包んだ風呂敷を担ぎ、肩からは水筒をぶら下げ、コクコクと頷きます。本当は不安でしょうがないけど、其れを悟られるのもなんだか癪な気もして、痩せ我慢をしているのでした。

「風呂敷に、薬を入れてあるから、それを渡すんだよ」

 コトリの爺さんは、何年か前から翼を悪くしていて、もう飛べなくなっているので、父さん母さんが色々と世話を焼いているのでした。

「任せて!」

 コトリはそう言って飛び出しましたが、その声が震えていることに、母さんは気づいていました。眉を八の字にすると、父さんを見上げてため息を吐きます。

「あの子、大丈夫かねぇ」

 父さんは笑って、母さんの背中を叩きます。

「なぁに、大丈夫さ。いまに、何処へだって飛んで行けるようになる。ならないといけない」


 さて、コトリは言われた通り、森の中を南へ南へ、ぴょこぴょこぴょこと歩いていきます。五月の森には草露が滴り、何もかもが鮮やかで、あちらこちらから生き物の気配がしています。鳥たちの囀りも聞こえてきて、コトリは、なんだか自分が一人きりじゃないような気がしてきて、少し気を良くしました。

 しかしそれも束の間、やがて湖が目前に迫ると、コトリの足取りは重くなりました。思っていたよりも、ずっと大きい。とてもとても、コトリには飛んで渡れる気がしないのです。

 しばらく悩んだ挙句、どうやらコトリは脇道を見つけ、飛んだり跳ねたり、何とかそこを進んでいきました。モミの木は近づいてきますが、コトリは、なんだか自分が嫌になって、心底打ちのめされたような気持ちになりました。

 獣道との格闘の末、羽にくっつき虫を沢山つけながら、ついにコトリはモミの木にたどり着きました。洞を覗いてみると、そこには確かにドアがあります。コトリは一度ドアノブを掴んで、やっぱりやめました。それから水筒を開けて、冷たい水を沢山、グイグイ飲んで、息をつきます。気持ちは一向に晴れませんが、少し落ち着いたコトリは、何とも言えない気持ちのまま、ドアを開けました。

「やぁ、待っとったよ」

 爺さんは窓際のベッドに横たわり、艶の消えた、傷んだ翼を少し持ち上げ、優しく微笑みかけました。コトリはそれを見て、許されたような、やっぱり情けないような、しかしとにかくホッとしてしまって、目に涙を浮かべました。その様子を見て、爺さんは手招きをします。コトリが駆け寄ると、爺さんはやさしい声で言いました。

「どうしたんだい、そんな顔をして」

「あのね、おじいちゃん、実は僕、実は…」

 コトリは涙混じりの声で、これまでの事を話しました。度胸をつけるためにお使いに来たこと、そのために湖を超えなくちゃいけなかったこと、ズルをしてしまったこと。そうして、それがとても悔しかったこと。

 ぜんぶ話し終わると、爺さんはコトリの頭を撫でて、言いました。

「おじいちゃんも昔はそうだったんだよ」

「えっ」コトリは吃驚して顔を挙げます。「そうなの?」

「あぁ。木から木へ飛び移るだけでも、ドキドキして駄目だった。でもな、ゆっくり、ゆっくり時間をかけて、おじいちゃんはな、違う生き物になったんだよ」

「違う生き物?おじいちゃんは僕と同じ鳥じゃないの?」

 爺さんはホッホと笑い、かぶりを振りました。

「もちろん、鳥だとも。でもな、永い永い時間が経って、おじいちゃんはいつの間にか、昔の自分を忘れたんだ。飛べなかった頃の自分を。気づけばおじいちゃんも、渡り鳥のように飛べるようになっていた。そうしてそれを、大して不思議だとも思わなくなっていた。お前、うちの近くにある、大きな柿の木を知っているかえ?」

 それはコトリの大好きな木でした。幹の別れたところに小さな洞があって、雨上がりにはそこに、実に綺麗に澄んだ水が溜まっているのです。

「おじいちゃんがコトリの頃、あの木はとっても小さくて、そうさな、お前の背丈より、少しだけ大きいくらいの若木だったんだよ」

「えー!嘘だぁ!」

 コトリも、森の木々がどこからやってきて、どんな風に成長するのかは、何となく知っていました。しかしあの柿の木が、自分と同じくらいの若木だった頃を、どうしても想像できないのでした。

 爺さんは再びホッホと笑って、続けます。

「ほんとうさ。時間が経つと云うのはね、そういうことなんだ。色々なものが姿を変え、元々どんなだったか、判らなくなってしまう。どんなものも、決してそのままではいられない。それは素晴らしいことで、とても淋しいことでもある」

「じゃあ僕もいつか、すっかり変わってしまうの?どんなだったか、判らなくなるの?」

「あぁ、そうだよ。お前もいつか、立派な鳥になって、そうして、おじいちゃんみたいになるんだよ。だからね、過ぎていくことを惜しんではいけない。これから起きる沢山のことを、ぜんぶ大事にするんだよ。ひとつも無駄にしちゃいけない」

 それはあの日、父さんにも言われたことでした。けれどもコトリには未だ、その意味がよく分からず、ただ、自分が爺さんのようになることが信じられないのでした。そうして、そんなことを夢想すると、なんだか心が空っぽになるような、切ない感じがしました。


 それからしばらく、爺さんに遊んでもらったコトリは、すっかり気を良くしました。母さんのお弁当もモリモリ食べて、元気いっぱいです。湖を飛べなかった悔しさなんて、もう忘れかけていました。

 帰り際、爺さんはコトリにあるものを握らせました。

「勇気が要る時、見るといい」

 それは爺さんが若い頃、険しい山のさらにその奥、高い高い崖を登って、採ってきた宝石でした。真っ青で透き通っていて、その美しさに、コトリは息をするのも忘れます。

「いいの?」

「あぁ。おじいちゃんにはもう、必要のないものだからな。いつかお前に好きな子ができたら、プレゼントしてあげなさい」

 そう言われても、コトリは到底、こんなに綺麗な宝物を誰かにあげる気にはなれませんでしたし、そもそも家族以外の誰かを、そんなに好きになるなんて、ちっとも想像できないのでした。しかし、とにかく今は嬉しくって、

「ありがとう!」

 と大きな声でお礼をして、うちへ帰るのでした。

 さて、帰り道にも当然、あの湖はあるわけです。その畔に立ち尽くしたコトリは、じっと、動かなくなりました。小さな頭と胸で、一生懸命に悩みます。そうして、宝石の入った、行き道と比べて随分軽くなった風呂敷を見て、思います。

 お弁当の分だけ軽くなった今なら、飛べるかもしれない。

 コトリは水筒と風呂敷を首から提げ、離陸体勢を取ります。そうして、意を決して羽ばたいた、次の瞬間、コトリの体は予想を遥かに超えてふわり浮き、軽やかに宙を舞いました。

「わぁ、すごいや!」

 コトリはもう、そんなに飛べるようになっていたのです。石ころや水溜まりに夢中になっているあいだに、そんなことにも気づけずにいたのでした。

 ぐんぐん上昇を続けていくと、森の木々の頭をも追い越し、やがて、森の果てに沈みゆく夕陽が見えました。その眩い茜に、コトリは目を細め、ふと、何かが自分のなかで動いたのを感じました。それは宝石を見た時の感動とも少し違って、なんだか、もっと取り返しのつかないものである気がしました。

 そのまま、コトリは優雅に空を舞い、無事に家へ帰りつきました。

 その話を聞いた父さん母さんは大喜び。コトリを褒めちぎります。コトリは興奮と疲労と安堵で呆としていましたが、その胸中にはまだ、空高くで見た眩い茜が射していました。


 それからコトリは、今までよりもずっと遠くの沢に行って、より美しい宝石を探したり、泉の湧き出し口から流れ出る水を採集するようになりました。飛べるようになったおかげで、今までよりもずっと、良いものが手に入るようになったのです。もうその辺の石ころがどんなに鮮やかであろうとも、コトリの目に留まることは無くなりました。

 もっと、もっと良いものはないか。

 相変わらず友達もできず、コトリは一人きりでしたが、一日一日、趣味の道は究まっていきました。最初は美しいと思っていた宝石も見飽きてきて、それこそ、ふた月に一度くらいしか見られないような、希少なものを求めるようになりました。なので必然的に、宝箱へ何かを放り込む頻度も、目に見えて減少していきました。日々の雑多な発見は、もはや宝物と呼ぶに値しなくなっていたのです。

 一人きりで各地を巡り、採集活動に没頭する時間は、とうとう数年にもなりました。そのぶんコトリは大きくなって、体ももう、父さん母さんと遜色ないくらいにまで成長していました。反対に父さん母さんは歳をとって、美しかった羽もバサバサと乱れ禿げはじめ、爺さんのそれに似てきていました。母さんは晩御飯を作る段取りに失敗したり、買い物へ行って、何か買い忘れることが増えてきました。父さんは目が悪くなってしまって、細かい作業ができません。頭もだんだん鈍くなってきたようで、もう昔のように、器用な木工細工などができない状態でした。

 そうしてある日、コトリは、コレクションを眺め、ふと気づきました。

 どれも、同じである。

 希少な宝石も、小さな頃に拾い集めた小石も、よく見てみると似通っていて、そこには、大した差など無いような気がしてきたのです。水なんてもっと酷く、どんなに清いものだって、時間が経てば瓶の内側にコケが生え、やがて濁っていきます。石ころや水を集めに集め、ついにコトリは、その真理に辿り着いたのでした。

 どれも、同じである。

 そう考える脳裏には、なぜだかあの日見た西茜が、いまだ鮮明に浮かんでいました。

 それからというもの、コトリはめっきり宝箱を開かなくなりました。やがて蓋の上にはホコリが積もりだしましたが、コトリはそれを払うこともしませんでした。

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