第2話:禊

「はぁ……はぁ……」


 同じような傾斜のはずなのにさっきよりも息が上がるのが早い。身体にまとわりつく森の空気もどこか湿っぽく、濃厚になったような感じがする。音は聞こえなくなったけれど、さっきの何かはずっと八千代の後をつけてきている。そんな気がしてならない。


「お姉様……」


 やがて大階段の先に、開けた空間が見えてきた。そこは八千代の通う学園の、一般的な教室ほどの平らな広場だった。奥にポツンと井戸があり、その向こうにまた大階段が続いている。昼間ならば、広場から見上げれば縄九巳神社の鳥居が見える。だが、月のない今夜の空は真っ暗で、鳥居どころか星一つ見えない。


「……何も出ないで」


 八千代は井戸の前に立って提灯を天秤に引っ掛けると、石畳の地面に風呂敷包みを広げた。丁寧に畳んであった白装束を取り出して、亀縄のお守りをその上に置く。手順としては次に制服を脱いで全裸になり、井戸の水で禊を行った後で襦袢に着替えることとなる。しかし、八千代はなかなか服を脱ぐ決心がつかずにいた。


「……うぅ……お姉様……」


 九九里巳山の暗闇に覆われた野外で全裸になるというのはとてつもなく恐ろしいことである。九九里巳山という異界にあって八千代の心を護ってきたのは、学園という帰る場所の存在だった。そして、その場所に繋がる縁こそが亀縄であり、身に着けている制服であった。それを自ら脱ぐということは、戦場で鎧を脱ぐことに等しい愚行に思えてならない。


「でも、やらなくちゃ……」


 八千代は胸元のリボンをそっと引っ張る。しゅるりと結び目が解け、襟の内側を薄い布が擦っていく。恐ろしくても、やらなくては終わらない。夜が明けるまでこの森の中で逡巡しているわけにはいかないのだ。


「……私は七鳴お姉様の妹なんだから」


 リボンを畳んで地面に置くと、八千代は亀縄を握り締め、何度も何度も自分自身に言い聞かせた。どれほど怖くても、お姉様の顔に泥を塗るわけにはいかない。さっさと儀式を終わらせて、七鳴の待つ温かな学園の寮へ帰ろう。


「うぅ……さ、寒い……」


 亀縄を再び手離し、まずはソックスを脱いで、裸足で石畳に降り立った。ひんやりとした感触に背筋を寒気が通り抜ける。体温が一気に二度も、三度も下がった気がして、しゃんと伸ばした背筋がもう前向きに曲がってしまう。


 スカートのジッパーを下ろして地面につかないよう両足を抜く。むき出しの太ももに夜の冷気が容赦なく突き刺さる。ここまできたら、思い切って上も脱いでしまった方がいい。八千代はブレザーの留めボタンをサッと外して素早く脱いだ。続いて白いワイシャツのボタンを急いで外しにかかる。ぷち、ぷち、と小さなボタンが外れていくたびに、自分が一回りずつ小さくなってしまうような心地がする。


「……これで、もう」


 ついにワイシャツも脱ぎ終えてしまい、ショーツに薄手のキャミソールという格好になると、自分の発する熱が周囲に融け出ていっているのがはっきりと分かるようになった。夜の冷気の中で、人間の体温は明らかに異物だった。


「うぅ……」


 ショーツの裾に手をかけて少しめくるも、どうしてもそれ以上手が動かない。人間の目が存在しないとはいえ、野外で素肌を晒すのは、淑女たれと教育を受けてきた八千代にとっては恥ずかしすぎる。まして、得体の知れない何者かに追われているかもしれないわけだから、布一つまとわない無防備な格好になるのは恐ろしい。けれども、禊をしなければ神社には入れないし、いつまでも下着姿でいては風邪をひいてしまうだろう。


「お姉様……どうか八千代に力をください……」


 風呂敷の上の亀縄に目をやってから、八千代は思い切ってキャミソールを脱ぎ去った。スポッと頭が抜けると、前髪が目を隠すように張り付いた。頭を振って髪をどけ、心が弱くなってしまう前にショーツも脱いでしまう。足を抜くと、つるりとした秘所に風が当たり、八千代の身体を再び悪寒が通り抜けていった。


 裸になった八千代は左手で股間を隠しつつ井戸の縁に寄り、真っ黒い穴の中に釣瓶を落とした。かなり深いところまで落ちたようで、水音が聞こえるまでは間があった。ギコギコと軋む縄を引いて桶を持ち上げるのは、身体の小さな八千代にはなかなか重労働だった。体温と心拍数が上昇し、額には汗がにじんだ。


 ようやく引き上げた桶の中の水は、頭上の提灯の灯りと夜闇のせいで墨汁のように黒ずんで見える。八千代は息を止めると桶を持ち上げ、右の肩から一気に井戸水を被った。


「きゃっ、ぁ……うぅ……」


 初めこそ冷たさに驚いたものの、熱を持った身体に澄んだ水が注がれるのは予想外に気持ちが良かった。それに、ここまでの道のりで自分にまとわりついていた邪悪なものが一気に剥がれ落ちていくような気がした。八千代はもう一度釣瓶を落として水を汲むと、今度は左肩から水を被った。


「あっ……ふぅ……んっ」


 ざばぁと水が流れる音が森の広場に響く。周囲の音一つ一つにおびえながらここまでやって来た八千代にとって、大きくて雑な水の音は癒しであり、自ら叫ぶのに等しいリラックス効果をもたらした。


「あとは、長襦袢に着替えて……」


 禊を終えた八千代は井戸に釣瓶を落とすと、風呂敷の中から清潔な布を取り出して身体を拭いた。濡れた肌に吹き付ける風は冷たかったが、火照っていた身体を冷ますにはちょうどよかった。


「オンヤナワクミヤソワカ、オンマナワクミヤソワカ……」


 持ち物の穢れを祝ぎ言ほぎごとで祓ってから白い長襦袢に袖を通し、腰紐を回してキュッと結ぶ。柔らかくて冷たい絹がヒヤリと皮膚に張り付く。わずかに膨らみ始めた胸の先端が反抗するようにツンと立っている。奇妙な高揚感が八千代を包み込み、薄い膜のようになって護ってくれている気がする。


「行こう。あと少しだ……」


 何事もなく禊を終えられたことで、八千代はいくらか気持ちに余裕ができた。風呂敷を担いで提灯を持つと、八千代は背筋を伸ばして歩き始めた。

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