なわむすび

洲央

第1話:大階段

 重苦しい闇が八千代の背中に圧し掛かっていた。生ぬるい風が頭上の木の葉を揺らすたび、心細くて泣き出してしまいそうになる。道脇の藪は絶えずガサガサと蠢いていて、今にも何かが飛び出して来そうだ。


(飛び目玉とか、裂け女とか……)


 八千代の脳裏に、お姉様が話していた怪異たちの名前が浮かんでくる。ゾクゾクっと背筋に悪寒が走り、八千代は思考を消そうと頭を何度か横に振る。ただでさえ怖い所を歩いているのだ、重ねて怖いことを考えるなど、どうかしている。そう分かってはいても、一度流れ出した思考は止まってくれない。


(飛び目玉に見つかったら目をつぶらないと……視線が合ったら目玉を抜かれちゃう。裂け女はとにかく怖いとしか聞いてないけど、きっと見つけた相手を裂いちゃうんだわ)


 たくましい想像力が脳内で像を結び、森の中を飛ぶ目玉の姿をくっきりと見せてくる。ひょろりとした女がすぐ目の前に立っていて、次の瞬間八千代を掴んで真っ二つに裂いてしまう気がする。


「うぅ……お姉様……」


 日が落ちてからの九九里巳山くくりみやまは人間の領域ではない。学園の噂話は、きっと本当だったに違いない。


 八千代は手にした提灯の柄を、両手でキュッと握ってかざす。周囲がほんのわずかに照らされるものの、闇が晴れることはない。むしろなまじ照らされたせいで、木々の影がより濃く、深くなったようにさえ感じる。


「早く行かなきゃ……早く……」


 八千代は再び足元を照らし、古い石段を一歩一歩踏みしめて上る。九郷女学園くごうじょがくえんの裏手から縄九巳神社なわくみじんじゃへと続くこの大階段は、名前のわりに人一人が辛うじて通れるくらいの幅しかない。しかも所々石が割れていたり、大きく傾いていたりする。これではどんなに急いでも、神社につくまであと十数分はかかるだろう。


「どうか八千代をお守りください……」


 八千代は胸元に手をやって、お姉様の七鳴ななきから授けられた縄亀のお守りをぎゅっと握りしめる。優しい七鳴の顔を思い浮かべると、闇の中を歩む勇気が湧いてくるのだ。小さな心臓に火が灯り、お姉様との温かな思い出が、恐怖がもたらす冷たい肌触りを緩和してくれる。


 身寄りのない八千代にとって、九郷女学園は家であり、生徒たちは家族だった。中でも七鳴は敬愛すべきお姉様であり、八千代のすべてと言ってもいい人だった。


 六歳で学園に入学してきた生徒は、十二歳のお姉様と疑似的な姉妹の契りを結んで同じ部屋に暮らす。五年後、お姉様が卒業すると今度は妹が、次の妹のお姉様となるのである。従って、誰の妹になるかというのは、その後の学園生活を大きく左右する重大事であった。


 三年前、八千代の姉妹選びの〈紐引き〉の儀式も、恒例通り縄九巳神社の薄暗い境内で行われた。妹候補たちは入学早々、この陰気な社に集められ、箱に入った紙紐を引くのである。全員が引き終えたら外に出て、陽光の下で紙紐を開く。


 八千代は今でもその時のことを鮮明に覚えている。皺だらけの少し湿った紙に丁寧な字で書かれていた「七鳴」という名前。顔を上げると、まだ眩しすぎる参道の真ん中に、桜の雨に降られながら優しい笑顔を浮かべた一人の美少女が立っていた。


 彼女は八千代に近づいてきて「ごきげんよう。私があなたのお姉様よ」と膝を折って話しかけてくれた。八千代は「はじめまして、お姉様。八千代です」と何度も練習した言葉を返した。お姉様は「よく言えたわね。さあ、行きましょう」と八千代の手を取り、九郷女学園までの大階段を、転ばないように先導してくれた。頭上からは木漏れ日が降り注ぎ、春の青い風が八千代の黒髪を心地よく揺らしていた。


「……七鳴お姉様」


 八千代は滑らないように注意しながら、ガタガタの大階段を上り続ける。先ほどから首筋の辺りに強い視線を感じる。はじめは野生動物かと思っていたが、これはどうにも違う気がする。野生動物のただじっと観察するような視線ではなく、もっとねっとりと絡みつくような、明確な悪意を持った視線であるように思えるのだ。


 八千代は自らの遅い誕生日を呪った。〈縄結び〉は生まれの早い順に出発するため、他の者たちは夜になる前に儀式を終えて下山している。せめて夕日でもいいから明かりがあれば、もう少し安心できただろうに。


「きゃっ」


 ふと、八千代は足を踏み外して転びかけた。咄嗟に近くにあった木の枝を掴んだことで転落は免れたが、腰を石段にしたたかに打ち付けてしまった。さらに、取り落としたせいで提灯の火が消えてしまった。すぐに完全な暗闇が八千代の全身を覆い、何もかもが沈黙の淵に沈む。危機一髪の状況に全身から汗が噴き出してくる。


「はぁ……はぁ……っ」


 心臓が早鐘を打っている。八千代は両手に力を入れて身体を起こすと、腰の傷の具合を探った。かなり痛いが、歩行に支障はなさそうだ。もしも転げ落ちていたら、そのまま下まで止まらなかったかもしれない。大階段はそれほどに急なのだ。


「七鳴お姉様……」


 八千代は大好きな人の顔を思い浮かべて心を静めると、暗がりの中を探って提灯を引き寄せた。火は消えていたが、蝋燭は折れてもいなければ曲がってもいない。ひとまず安堵した八千代は、できるだけ急いで火を点けようと燐寸を取り出す。シュッとこすると独特のニオイと共に艶めかしい火が灯り、手元が確認できるようになった。


「なっ、なにこれっ」


 悲鳴に燐寸の火が揺れる。八千代の手に、たくさんの長い髪の毛が絡み付いている。燐寸をかざすと、どうやらそれは八千代の手だけでなく、尻もちをついている石段全体に散らばっているらしい。


「お姉様っ」


 泣き出しそうになるのを必死にこらえ、とにかく提灯の蝋燭に火を点けようとする。しかし、震える手は容易に燐寸の火を消してしまい、辺りに再び闇のとばりが下りてしまった。


「いやぁ! 助けて、助けて……!」


 急いで次の燐寸を取り出すも、恐怖が指を凍り付かせてしまい、上手く擦ることができない。か細い燐寸の頭がぽきんと折れるたびに、八千代の目を大粒の涙が伝う。


 しゅぅぅぅ……しゅぅぅぅ……


 暗闇の中で手間取っていると、大階段の下の方からそんな音が聞こえてきた。最初は風の音かと思ったが、それにしてはやけに長く鳴っている。燐寸を擦る手を止めて耳を澄ませると、ずず、ずずと何かを引きずるような音までも聞こえてくるではないか。


 しゅぅぅぅぅ……ずる、ずる……しゅぅぅうぅぅ……ずる、ずる……


 途端に八千代の脳裏に、大階段を滑るようにして上ってくる毛むくじゃらの化け物の姿が浮かんだ。全身を覆う黒髪の向こうで、大きな口からしゅぅぅぅと息を漏らす怪物。それが八千代を食べようと向かってきているのだ。


「点いて……お願い……点いて……」


 恐怖で力が入りすぎ、燐寸の頭がまたもぽきんと折れる。箱の中にはもうほとんど燐寸が残っていない。


 とにかく暗闇というのは人の想像を掻き立てる。見えていれば何でもない景色が、闇に沈めば沈むほど何やら得体の知れないものとなって立ち現れるのだ。まして完全な暗闇の中では、正体不明のものはどこまでも強く、恐ろしくなる。


 ずっ……ずる……ずっ……しゅぅぅぅ……しゅぅぅぅ……


 八千代は全身の肌に粟が立つのを感じていた。音の主はもうすぐそこまで来ている。髪の毛を引きずり、肺病患者のような荒い呼吸を繰り返す暗闇に巣食う者。毛玉の奥から唇のない蛇のような口が覗く。伸ばされた真っ赤な舌が八千代のむき出しのうなじに近づいて来て――


「――よしっ……あ、あれ……?」


 燐寸に火が点くと、奇妙な音はぱたりと聞こえなくなっていた。手に絡みついていた髪の毛も、どこにも見当たらない。提灯に火を灯して改めて翳してみても、やはり髪の毛は見つからない。足元の石段には、落ち葉がいくらか積もっているだけである。


「なにも、ない……」


 八千代が感じた気配は確かに実体を持っていた。それなのに、手掛かり一つ残っていない。


「……錯覚、だったのかな」


 そんなわけないと分かっていても、そうして納得しなければ進めない。出発前、七鳴に「心を強く持つのよ」と言われたことを、八千代は思い出していた。恐怖は闇ではなく、心から生まれてくるものだ。化け物たちは隙を見つけて忍び寄り、心の弱さに取り憑いてくる。増幅されていった恐怖によって実体化した悪夢は、現実以上の質感を持って宿主を責め殺す。


「っ!」


 八千代は両頬を手でパチンと叩いて気合を入れた。恐怖と混乱がありもしない幻覚と幻聴を生んだのだ。そういうことにしておこう。


「行かなくちゃ……!」


 八千代は制服の袖で涙を拭うと、再び大階段を上り始めた。


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