第3話
〈お客様番号112622〉
そう思った直後、あのお姉さんが店の入口に登場した。
「あ」崩れ気味の化粧からお互いに気付き、あの時はお世話になりましたという意味を込めてお辞儀すると、思いの外薄味の反応を貰う。大して広くない界隈で遭遇するのはあり得ない話ではないけど、何という巡り合わせだろう。出勤一発目だったら飛んで跳ねて抱き着いてオーナーに注意される場面だった。
という訳で本日三人目のゲストは顔どころか身体全てを見知ったお姉さん。出勤時は二名の予約のみが記載されていたリストに、先刻指名で当日予約が入った形だ。正直疲れが蓄積されてリビドーは消え失せてしまったけど、ノスタルジーを足掛かりに三回目のシャワーを浴びに向かう。余談を言えば生理の時は来ないで欲しいと言われる時があるけれど、人間がルナルナ通りに動く機械だと思わないで欲しい。月の必要額と周期が噛み合わないことくらい、激動の現代社会に生きる君達なら想像力が及ぶだろうに。これ以上は身勝手に体温を上げてしまうので切り上げることとしよう。
「久しぶりですね」死を幾度も乗り越えてきた顔は性以外の話題を求めて傾く。
「まさかここで出会えるとはね」お姉さんは鼻を引いた笑いで頷いた。
「今も嬢をやられているんですか」
「もう引退したよ。良い人と出会えたから」言いながら誰しも慣れている脱衣をよりプロらしい所作でこなす。
「それなのに来店なさったと」二度目の内容を口が仕掛けるが、これに対する応答は曖昧に濁された。
「由乃には悪いけど、私の善心が許さないのよね」よく分からないことを言った後、「取り敢えずセックスしましょうか」四十分と限られた時間が前へ進んだ。あの時促してもらったお風呂、マット、ベッドを劣らないような振る舞いでこなす。優しく優しくと唱えながら特別なケアを施しているつもりが、相手は期待より粗雑に思える手つきであたしに触れてきた。「うっ」爪が節々に食い込んで痛い。手首を強く握られ鏡に映るのは、連続で酷使されたグロテスクな性器だ。
それでも興奮には抗えず、三回目の境地が見えた。頭がオカシクナル。
「今イキマス。境地ノアリス」
三度目も懲りない教室、だけど今までとは違う広々した空間とあまり高くない人口密度。大学の講義室と見做して違いないだろうそこで、視点はバイトの予定をあたしと同じように確認する。仕事先のメールを閉じたかと思うと、恋人らしき態度の文面が広がる画面を開いて、にんまりと頬が緩む。辛いことしか起こらない現実で見つけた唯一の癒しだったのだろう。軽い足取りで何故か酸素の薄い地上を踏み締めていくと、待ち合わせをしていたのは幾度と無く現れるあの人間だった。
全てを察して境地を後にしようと思うが、あれ、現実に帰れない。あれあれ、どうしてだろう。そうかと思えば視野の主は自分の首に手を掛け始めた。あたしの首が細くなる様は境地においても苦しみに値すると分かった。え、止めてよ。これは実在する過去なのか、あるいはあたしが創り出した幻想か。やがて腕の先端に死を警告する吐息が届いた。
薄暗い光を取り戻した時、騎乗のお姉さんがニッコリと手を伸ばしていた。厚化粧の防衛は知人の前では無意味だった。どうやら態々復讐に訪れたらしい。監視でもされていたのだろうか。
叫ぼうとして喉を絞るが部屋は奥にあるので誰も来ない。性の快感を引き摺りながら意識は遠退いていく。疲弊から抵抗の意志は失われていく。
「あなたが最低のクズ女だとは思わなかった」
最後に唾を吐かれて、境地を越えた。
ま、セックス出来たから良いか。
横浜したいアリス 沈黙静寂 @cookingmama
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